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霊の街~Rain on my cheek

 ――雨。
 傘も差さずにかうして歩いていると、頬に冷たい感触が直に伝わつてくる。
 わたしはとりとめないことを考えながら街を歩き続けて居た。

 人は忘却の力を借りなければ生きていけないと言ふ。
 きつとさうなのだらう。
 物心ついてから今に至るまでに起こつた出来事を全て覚へて居たら、きつとわたしは破裂してしまふところだ。
 記憶といふものは人格に力を及ぼす。大量の記憶は物凄い圧力を持つているに違ひない。
 そして、わたしは忘れるといふことばが好きだ。
 忘――心を亡くすと書く、その漢字でさへもが魅力的だ。

 雨は激しさを増していた。
 わたしは足を止める。髪を伝つた滴が頬を濡らした。

 ――帰らうか、

  ◇

 わたしはふと後ろを振り向いた。
 背後には幼い少女が立つて居た。年は十歳には成らぬ程度。涼しさうな白のワンピースを着て居る。
「ねえ、」
 少女は言つた。
「あなた、泣いて居るの。」
「……え、」
 わたしは顔に手を当てた。成る程、丁度頬の辺りに幾筋も水の線が走つている。これでは泣き顔に見間違へられても仕方の無いところだらう。
 しかしこれは、
「違ふ、」
 わたしは苦笑ひをした。
「雨に濡れてしまつたんだ。それで、」
「さうなの。でも、」
 少女は眉を顰めた。
「雨など降つて居ない。」
「え、」
 わたしは空を見上げた。雲ひとつ無い夕焼け空がわたしを――わたしたちを見下ろして居る。
「雨などずつと降つて居なかったわ、」
 少女は確かに少しも濡れて居なかつた。
「ここはあなたの居る場所ぢやない、」
「ぢ、ぢやあここは何処、」 
「霊の街。」
 少女ははつきりとさう言った。
「え、」
 聞き取れていたのにも関わらず、わたしは聞き返してしまふ。少女は年齢不相応に大人びた笑みを浮かべた。
「霊の街。死んだ者たちが集まる場所よ。」
「何を言つているんだ、君は、」
「帰れなくなるわ、」
 笑みを消した少女の言葉にぴくりと体が震えた。
 何を馬鹿な――さう笑ひ飛ばしたいのに出来ない。
「でも、」
 やうやく喉から出た言葉はみつともないほど動揺して居た。
「どうしてぼくがそんな場所に、」
「……忘れてしまつたのね、」
「忘れてしまつた。」
「困つた人。」
 少女はくすくすと笑ふ。黒くて長い髪が美しかつた。
「忘れるのはいけない事かい、」
「いけなくは無いわ。大切なことよ、」
「うん、ぼくもさう思ふ、」
「…………」
 少女は暫く僕を見つめ、やがて頷いた。
「さう、」
 それきり口を噤んでしまふ。
 わたしは困つて辺りを見回してみた。
 そこは広場のやうなところで、茶色い土が剥き出しになって居る。夕刻とはいへ辺りはまだぼんやりと明るく、少女の言つた「霊の街」といふ印象では無い。ぐるりを取り囲む木々が濃い色の影を落として居た。
 少女がまた口を開く。
「雨があなたをここに呼んだのね、」
「どうして雨が、」
「雨は、」
 少女はまた大人びた顔をした。今度は微笑まず、むしろ悲しそうに眉を顰めて、
「雨は涙だから。」
「誰の、」
「誰かの。」
 そのとき、わたしはやうやく彼女の名すら知らぬことに気が付いた。
「君の名を聞いても良いかい、」
「霧花(キリカ)、」
「変わつた名だね。」
「あなたの名は、」
「早良 泉(さわら いずみ)。」
「泉、」
「それで、さつきの話だけど、」
「さつきの話、」
「ぼくはここから帰ることが出来るの、」
「………」
 霧花はわたしをその大きな黒い瞳でじつと見つめた。
「帰りたいの、」
「……分からない、」
「あなたは何処から来たの、」
「……何処か、ここぢやない場所。雨が降っていた、」
「今日はお盆だから、」
「お盆、」
「さうよ。それも忘れてしまつたの、」
「いや。夏だつたのは覚へている、」
「お盆は生者と死者との魂が引き合うときだから。あなたはここに引き込まれてしまつたのね、」
「帰れるの、」
「帰れるわ、」
 霧花はそう言つて微笑む。
「今夜は扉が開くの、」
 そしてくるりと身を翻した。
「付いていらつしやい。」

 そのとき、急にわたしは気がついた――霧花は死霊なのだ。さうに違ひない。
 霊の街に居るのだから当然だ。
 彼女は少女のやうに見えるが、もしかするとわたしよりずつと年上かも知れぬ。
 大人びた言動はそのせいか。
 底冷えのする恐怖がわたしを包む。それでも霧花の後を追うより他に選択肢は無い。

「何処に行くんだい、」
「墓地よ、」
「墓地、」
 わたしの背をぞつと冷たいものが走り抜ける。
「あの世とこの世を繋ぐ場所は、そこしかないわ、」
「霊の街にも墓地は在るの、」
「…………」
 霧花は少し不思議そうな顔で私を見た。
 視線を外し、再び前を向く。暫く黙つて歩いた後、彼女は口を開いた。
「……在るわ、」
「さうなのかい、」
 道は上り坂に為つて居るが、霧花の足取りは軽い。
「さう言へば、」
 わたしはふと気がついて、霧花に尋ねた。
「先ほどから誰にも会わないね、」
「あなたに見えないだけ、」
「え、」
「普通、違ふ世界の者同士が姿を見たり声を聞いたりすることは出来ないの、」
「どうして君には出来るの、」
 霧花は再び振り返つた。
「それは、」
 辺りに立ち込める影は一段と濃くなり、既に夜の領域がここに到達していることを私は知つた。
 だから――彼女の表情が良く見えない。
「私は特別だから、」
 彼女の声に誇るような調子はなく、ただ事実を在りのままに述べただけといふやうだつた。
「霊の街には、私のやうな人が何人か居るの。」
 坂を上りきつて右折する。
「もうすぐよ、」
 それきりわたしたちは黙つて歩き続けた。

 辺りが真っ暗になつた頃、わたしたちは墓地についた。
 灰色の墓石が並び続ける光景は、やはり少し気味が悪い。
「扉は何処、」
「未だ開いていないわ、」
「一体何時開くの、」
「し、」
 霧花が鋭い声を出した。
「黙つて、」
「…………」
 わたしは言われた通りに黙る。
 霧花の後に従つて歩いて行くと、彼女はやがて一つの墓標の前で足を止めた。
「ここに扉が開くわ、」
「何時、」
「あなたはあなたを呼んだ人と会わなくてはならない、」
「一体誰、」
「ここにいるわ、」
 霧花が指差す空間には誰も居ない。
「見えない、」
「さうでしやうね、」
「ぢやあ一体どうしたら、」
「思ひ出して、」
 霧花はじっと私を見つめる。
 暗闇の中、彼女の瞳だけが皓々と輝いていた。
「自分のことを。思ひ出して、」
「…………」
「あなたは向こうの世界で何をしていたの、」
「……わたしは、」
「あなたを呼んだ雨は誰の涙、」
「誰の……、」
 わたしは、はつと息を飲んだ。

 自動車のタイヤが急ブレイキに軋む音。
 衝撃。
 砕け散つた縁石。
 赤く染まつた地面。

「ああ、」
 わたしは声を上げた。額を押さえてしやがみ込む。

 わたしの愛した、
 わたしを愛した、
 わたしを置いて逝つてしまつた、

「薫。」

 ――あれは真夏だつた。

 やうやくわたしにその姿が見えた。
 墓石に縁りかかる姿は最期に見たときと何も変わつていなかつた。
 わたしを見つめ、その円らな瞳がさらに大きく開かれる。
「いずみ……、」
「かをる……、」
 薫はわたしに駆け寄つた。
 手が届きそうで届かぬ距離に立ち止まり、じつとわたしを見る。
「霧花さん、」
 薫はわたしに視線を固定したまま、囁くやうにして言つた。
「有難う、」
「呼んだのはあなたよ、」
 霧花はまた大人びた表情で微笑んだ。
 わたしはもう何も聞くまいと思つた。
 薫が縁りかかつていた墓石が濡れて居る。きつと薫が雨を降らせたからだらう。
 わたしは囁いた。
「薫、」
「……、」
 わたしは限りない優しさを込めて、残酷な言葉を言つた。
「忘れなさい、」
「え、」
「ぼくのことは、忘れて。」
「……、」
 薫の唇がわななく。本当はわたしの手も震えていた――それでも。
「ひとは、忘れながら生きて行くのだ、」
「……あなたは忘れるの、わたしのことを、」
「……ああ、」
「あなたはわたしを忘れてしまえるの、」
「……もう、ほとんど忘れて居た、」
「どうして、」
 詰問する薫に、わたしは優しく微笑み掛けた。
「きみを、わたしの想いで縛りたくない、」
「…………」
「忘れれば、想いの呪縛から記憶は解き放たれる、」
「…………」
「きみを失つて――それでも思い出だけを心に残し続けたら、その圧力でわたしの胸には穴が開いてしまふところだ、」
「…………」
「それほど、ぼくは」

 ――君を想つて居たのだよ。

 その言葉と同時に、空が発光した。その光が、薫の側の墓石を照らす。
 刻まれた文字がくつきりと浮かび上がった。
 わたしはそれを読み息を呑む。

 ――早良 泉――

「時が来たわ、」
 霧花の声。
「いずみ、」
 薫は微笑んだ。
 わたしの愛した、とても綺麗な笑顔だつた。
「もう、忘れるから、」
「薫、」
「あなたを忘れるから、」
「薫、」
「わたしを置いて死んだあなたなど、忘れてしまうから、」
 涙が零れる。美しい滴。
 わたしはそつと近づき、その頬から薫の涙を呑んだ。
 驚いたやうに薫がわたしを見つめる。
「…………」
 何か言いたかつたのに、言葉が浮かばない。
 ただ、微笑んだ。
 それで全てが伝わると信じて。

「泉、」
 振り向くと霧花が居た。
「ぼくは勘違いをしていたね、」
 わたしが死者だつたとは――気付かなかつた。
 霧花は苦笑する。
「さうね、」
 霊の街、と言ふのも霊があの世からやつてくる街と言ふ意味だつたのだ、と今なら分かる。
 何故ならわたしこそが霊だから。
 霧花はすつと手を差し出した。
「お別れね。もう、会うことはないわ、」
「さうだね、」
 彼女の小さな手を握る。
 すると――その触感だけを残して世界が薄れ始めた。
 視界が白く塗り潰されていく。
 見えなくなる。

 霧花。

 ――薫。

「私の言つた通りだつた、」
 姿の見えぬ霧花の声がした。
「え、」

 ――ねえ、泣いて居るの、

「……ああ、」
 わたしは両手で自分の顔を覆つた。
「……泣いて居る、」
 頬を濡らす雨。
「わたしは、泣いて居る。」

  ◇

 気が付くと、わたしは空を見上げて居た。
 雨が降つている。
 顔も体もびしやびしやに濡れて居た。
「雨が……止まない、」
 雨は誰かの涙。
 これは、わたしの涙。

 じつと動かないわたしの頬を、痛いほどに雨粒が打ち続けて居た。