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memory

 何年かぶりに引越しをした。と言っても、私の通勤場所が転勤のせいで少し実家から遠くなったためにワンルームマンションを借りただけのことで、家具も必要最小限、気楽なものだった。現に、週末には必ず実家に帰ろうと思っていた。
 新しい私の部屋は東向きだった。朝は布団を引っ被ってもまだ眼が痛くなるほど朝日が差し込むので、早く窓に分厚いカーテンをかけたいと思っているところだが、一方午後も遅くなれば早々に薄暗くなり、それが段ボール箱と同居している状態の私の気持ちを妙に鬱なものにした。
  部屋の段ボール箱が当初の三分の一ほどに減った頃、私はその中から奇妙なものを見付けた。いや、奇妙といっても得体が知れない、とかそういうことではなく て、何故こんなところに入っているのかが分からなかったということだ。私にそれを入れた記憶はない。荷造りを手伝ってくれていた母が入れたのだろうか。私 はそれを手に取った。
 それはピンクのプラスチック製の箱で、側面には愛らしい動物の絵が描いてあった。大きさは、私の頭より少し小さい程度。いちおう鍵もついていて、どうやら鍵はしっかりとかけられているようだった。
 見覚えがある。多分、私が小学校に行く前に母から貰ったものだ。

 『あなたの宝物をしまっておきなさいね。でも、鍵をなくしちゃ駄目よ。開けられなくなるからね……』

 その時の母の言葉までもはっきり思い出せる。だが、中に入れた物については全く思い出せなかった。
 軽く上下に振ってみる。ジャラジャラと音がした。
 ――小学校に行く前の、五歳の頃の自分。
 あまり覚えている事はない。確か、夏におたふく風邪に罹ったと思う。幼稚園で仲が良かった子の、顔は思い浮かべられても名前は浮かばない。
 無理もない。もう二十年以上も前の事なのだから。
 私は苦笑して、手の中のケースに眼を落とした。
 そして、ある考えが私の心にふっと浮かんだ。

 ――この中に、五歳の頃の自分が保管されている――

 鮮やかな好奇心が私を満たした。
 この中に入っている物は、私の記憶を呼び覚ましてくれるのではないだろうか。懐かしさ、と人が呼ぶ生ぬるい回想に、私も包まれる事ができるのではないだろうか。
 古いセピア色の思い出たちが私の今の鬱な気持ちを晴らしてくれるのではないだろうか――と。
 鍵など、とっくの昔になくしていた。いや、なくしたことさえ知らぬ間に鍵はどこかへ行ってしまった。
 私は爪を蓋のすきまにこじ入れてみた。力を込めるが、意外と頑丈に出来ているらしく、爪の方が痛かった。開く気配はない。
 ――何としてでも開けてやろう。
 私を爽やかな興奮が包んだ。
 私は鍵を観察した。小さいが、針金で開けられるようなものでもなさそうだ。無理にこじ開ける事はできるかもしれないが、かえって開かなくなる場合というのも十分考えられる。それだけは避けたかった。
 鍵穴はどうやら四本の小さなネジでつけられているらしい。もしかすると、これを外してしまえば良いのではないだろうか。どうやら鍵穴とともに鍵の装置ごと外れてしまう造りのようだ。
 辺りに散らばっている工具――少ないながら、家具の据え付けに使っていたものだ――の中から先の細いドライバーを探す。
 私はネジの頭を潰さぬように気を付けながら、ゆっくりと回した。
 細い緊張感で、指が震える。

 一本……二本……三本……。

 そして、最後の一本。四本。
 ぽろっと外れた鍵穴を放り出して、私は蓋を開けるのももどかしく中を覗き込んだ。
 影の色濃くなりつつある部屋の中、私は目を凝らす。

 オーロラ色のビー玉……
 昔描いたらしい絵……
 折り紙……
 ビーズ……
 リリアン編み……
 その他何だかよくわからないもの……

 次々と手にとって眺めては床に置く。
 その単純な作業のうちに、私は不意にあることに気付いて手を止めた。
 私が気づいたこと――それは、先程まで私を包んでいた鮮やかな好奇心……爽やかな興奮……細い緊張感……そういったものが私の中から次々に零れだし、霞となって消えていっているということだった。
 私を満たしてくれるだろうと思っていた生ぬるい回想……そんなものはどこにもなかった。
 ――何も思い出せなかった。
 夕陽の橙色の陰の中に埋没しているそれらは、ただのちゃちな、時代遅れの、古びた玩具にしか見えなかった。
 ――五歳の私はどこにもいなかった。

 『鍵をなくしちゃ駄目よ。開けられなくなるからね……』

 突然、母の言葉がある意味を持って私に迫ってきた。
 ――つまりはそういうことなのだ。
 記憶という鍵がないということは、つまりはそういうことなのだ。
 いくら『昔の宝物』という入れ物があっても、『回想』を取り出すためには『記憶』が……せめて『記憶』の断片がなければ……。
  何十年か前に埋めたタイムカプセルを開けて懐旧の思いに耽る人達は、きっとそういったものを持っているのだろう。昔自分が入れた物を見ながら、それを自分 が選んだときのこととか……それを手に入れたときのこととか……それで遊んだときのこととか……そういった『記憶』を懐かしむのだ。その『記憶』は常に自 分の中に仕舞われていて普段は見ることができないが、タイムカプセルとか、そういったものが『鍵』のように作用し、それらを解放して人を回想へと誘う。

 ――そういうことなのだ。

 私はのろのろとそれらをもう一度ピンクのケースにつめた。
 私は鍵を置き忘れてきた。
 なくした事も知らぬままに。
 つまりはそういうことなのだ……。
 午後は一層遅くなり、暗さが私の部屋を包んでいた。自分の陰が変に黒かった。鬱な気分がひどく私の中を支配していた。
 私は鍵穴のない、だらしなく口を開けたままのケースの蓋をガムテープで固定した。

 後悔の味だけが、ひどく苦く私の舌を侵していた。