酔い宵のユメ
おれとそいつが出会ったのは、夕立の強く降る、暗い夜だった。生ぬるい湿気と雨音は、この「怪談」にはよく似合う。
おれはいつも通りに仕事から帰って、風呂を浴び、発泡酒を片手にして面白くもないテレビを眺めていた。
目を細めて口角を上げる、その表情が笑顔と呼ばれるものであることはちゃんと知っているけれど、そんなことは今のおれにはどうだって良かった。なんだってテレビの中の人物たちが揃いも揃って同じ表情をしているのか、ちっともわからない。くだらないな、と思ったが、一番くだらないのはそう思っていながらもテレビの電源を消すことのできないおれだ。消してしまえば、底なしの沈黙が押し寄せてくる。それが、いやだった。いつものように、酔いがおれの意識を覆ってしまうまで。もう少し。
ソファにだらしなく横たわり、フローリングの床に空き缶をいくつも並べていく。そのうちのひとつ、ふたつは倒れたようだった。もしかしたら床に少し零れたかもしれない。だが、どうでもいい。
がたがた、と窓が鳴る。雨だけではなく、風も強いようだ。嵐の夜は、気が滅入る。おれはテレビをつけたまま目を閉じ、酔いに身を任せてうと、うと、と――。
「おい!」
甲高い声。おれははっと目を開けた。飛び起きて、声を上げる。
「えりか?! 帰って」
――きてくれたのか、と言いかけた口がぴたりと止まった。彼女はおれにおい、などとは一度も言わなかったし、そもそも彼女とは声が全然違う。それに、彼女がここに帰ってくるはずなど、ない。
「……誰だ、おまえ」
おれはうろんな眼差しで、声の主を眺めた。
「おまえとは失礼な。こう見えて我はおまえよりも年上だぞ?」
俺の前で腕を組んでふんぞり返っているのは、どこからどう見ても――。
「何が年上だ、ガキじゃねえか。どこから入った?」
手を伸ばして捕まえようとするが、ひょいと交わされる。少女――というよりも幼女といったほうがいいくらいの年齢のその子供は、えんじ色の着物を着ていた。変わった服装だが、実はこう見えて泥棒なのだろうか。まさか。
子供は俺を見下ろし、ふんと鼻を鳴らした。
「我慢してやっていたが、もう限界だ。ここは我の家でもあるのだから、もう少しきれいにしてもらわねば困る」
「……は?」
おれはぽかんと口を開けた。
「おまえの家なわけないだろ。ここはおれが、借りた……」
「あの馬鹿女と同棲するために、だろう? 知っているぞ」
「ばっ……」
怒りに顔を染めたおれを、子供は哀れむように見つめた。その視線に、おれは思わず目を伏せる。
「よりによって、その新居で浮気されるとはなあ……」
「…………」
うるせえよ。声にならない声に気付いたのか、子供はそれ以上は何も言わなかった。
――この生意気な子供の言うのは本当のことだ。つい二週間前、おれはここで三年付き合っていた恋人と数年来の親友との情事を目撃してしまった。激昂したおれに彼女は逆上し、親友と手を取り合って出て行った。こんな胸の悪い部屋からは早々に引越ししたかったのだが、かなしいことに今回の引越し費用に貯金を使い果たしてしまったおれは、引き払うこともできずにそのままずるずると暮らし続けているというわけだ。
「…………」
子供は腰をかがめ、空き缶を拾い上げた。細腕いっぱいに抱え、キッチンの方へと姿を消す。当たり前であるかのような、板についた自然な動作だった。
「……もしかして」
ふと、おれは気が付く。
「時々この家の掃除をしていたのは、おまえか……?」
「ようやく気付いたか」
戻ってきた子供は、年齢に似合わない苦笑を浮かべている。おれは気まずくなって俯いた。――たいてい夜は酔いつぶれて寝てしまうから、寝る前の記憶がない。だから、酔っ払った自分がやっているのかと思っていた。もしくは……。
「残念だったな、あの女でなくて」
見透かされたようで、ぎくりとする。だが、おれが口に出したのは別のことだった。
「で? 結局おまえは何なんだよ。ふつうじゃねえだろ」
少しずつ、酔いがさめてくる。
「……ふむ」
子供は腕を組み、首を傾げた。黒いおかっぱの髪がゆらりと流れる。
「家神。座敷童子。何とでも言え」
「……はあ?」
何を言っているのか、こいつは。眉をひそめたおれに、子供は唇を尖らせてみせた。
「本来は、おまえの実家に住んでいるのだがな……」
確かに、おれの実家はそういったものの一匹や二匹住みついていてもおかしくないような、田舎の古い家屋である。しかし……。
「田舎にいた頃、おまえなんて一度も見たことなかったけど?」
「我々のような存在が人間の目の前にほいほい現れるものか! 影からひっそり見守るものと相場が決まっておるわ」
強い口調で言い返され、おれはひるんだ。
「あ、そう……」
子供の目線は、ソファに座ったおれと、ほとんど同じ高さだった。猫のような、くるりとした瞳がおれをうつしている。彼女の瞳の中の自分と視線が合わないように、おれは少し俯いた。
「で? なんでその家神サマがおれのアパートに引っ越ししてきたわけ?」
子供はふい、と顔を背け、壁際に置いた古いタンスを指し示した。このアパートは収納スペースが少ないからと、田舎から送ってもらったものなのだが……。
「あれに、我もうっかりついてきてしまったのだ」
「おまえまさか、タンスで寝てたのかよ」
冗談で言ったつもりだったのに、彼女は顔を赤くして黙った。図星だったらしい。タンスの中で寝る家神……。おれは少し、笑った。久しぶりに笑ったような気がする。オフィスで浮かべる愛想笑いは、笑顔のうちには数えられないと思うから。
「じゃあ、送り返してやろうか?」
ふたりで住むつもりだったのが、ひとりになったのだ。収納場所は十分に足りている。単純に金がもったいなくて送り返していないだけだ。
おれの親切極まりない申し出に、子供は憮然とした表情で言い放った。
「おまえがこんな様子では、心配で帰れぬわ」
「……え?」
「毎日毎日、だらしなく酒に呑まれて――まことに情けない」
「な……何を……」
声がうわずる。
――こいつは、おれをずっと見ていたのか。誰にも一番見られたくなかった、見せているつもりなどなかった、おれの姿を。
顔に血が上るのを感じた。怒りと、恥ずかしさと。この子供が本当は何歳なのか、そもそも年齢という概念が通用するのかすらもわからないが、しかしおれにもやはり誇りというものがあるのだった。なけなしの、ちっぽけな、くだらない、おれのプライド。この子供はそれをあっさりと踏みにじってくれる。せっかく先ほどまで優しい、あたたかな気持ちになりかかっていたのに――それが、余計に悔しい。
「……るせえよ」
おれは低くつぶやき、子供を睨んだ。
「おれがどうだろうが、おまえには関係のないことだ。おまえはおれを知っているのかもしれんが、おれはおまえを知らない。見も知らない他人にいきなりあれこれと説教を垂れられるのは非常に不愉快だ。今すぐ出て行け――少なくともおれの目に触れないようにしてくれ。消えろ」
「幸一……」
「黙れ」
「…………」
おれの言うとおりに、子供は黙った。その表情がどこか寂しそうなのが、余計に癇に障る。何故、お前がそんな顔をする。ひどくいらついた。
本当は――本当に消えるべきなのは、おれだ。女に捨てられ、親友に裏切られ、かといって全てを放り出して田舎に帰るほどの度胸もなく。惰性で仕事を続けながら、ただひたすらに酒浸りな夜を過ごしているおれ――何の価値もない。意味もない。そんなだから、突然現れた神様だか座敷童子だか何だかよくわからないが、実際のところただの生意気なくそガキに、嘲笑われ憐れまれるのだ。ああ、そうだとも――確かに、おれは情けない。
「幸一」
とん、と小さな手がおれの頭に触れる。払いのけようと手を上げたとき、ささやくような声が降ってきた。
「すまん。言い過ぎたな」
苦しげな声。頭上の重みが消え、おれは顔を上げる。
そこに、子供の姿はなかった。
「え? あ……ゆめ?」
首を左右に振り、目をこする。やはり、誰もいない。
――夢、か……。おれは苦笑した。酔っぱらいの見た、夢だ。あんな子供など、うちにいるはずがない。夢に決まっている。
足元に並べていたはずの空き缶は、いつの間にか片付いていた。きっとおれが片付けたのだろう。テレビからは、相変わらず騒々しい笑い声が響いている。
それが、突然――。
「?!」
視界が暗闇に覆われた。驚いて中腰になったおれは、床に零れていた酒に足をとられてしたたか腰を打ちつける。
「いてっ」
テレビの音も消えていた。窓の外からは激しい雨音と、そして――雷鳴。
「停電?」
おれはポケットの中の携帯電話を探した。――ない。部屋のどこかに置きっぱなしにしているのだろう。だが辺りはあまりに暗くて、どこに何があるのか全くわからない。
「ちっ」
今夜はとことんついていない。変な夢は見るし、停電だし。もう、このままソファで寝てやろうか……。
「幸一!」
闇の中から名が呼ばれ、おれは驚いて目を開けた。
「だれだ?」
「我だ。……さっきはすまなかった」
――さっきの夢の続きか。それとも、夢ではないとでもいうのだろうか。声を失ったおれの腹に、誰かの手が触れたようだった。
「ああ、いた」
ほっとしたような声。ぺたぺたと触れてくる小さな手を、おれは軽くつかんだ。
「何か用か?」
ぶっきらぼうに尋ねる。
「……別に」
声の主は指で探るようにして、おれの手を握った。
「…………」
振りほどこうかと思ったが、結局おれはそうしなかった。小さな手。この感触が本当は夢の中のものなのか、どうなのか、おれにはわからない。だが、もうどっちだって良かった。
雷光が一瞬部屋の中を照らし、そして轟音が地面を揺らす。――ソファに座ったおれの隣に、小さなおかっぱ頭が見えたような気がした。
「なあ」
おれはつぶやく。暗闇が、そしてその中で唯一触れている小さな手が、ひどく優しいもののように感じられた。
「おれはそんなに情けないか」
「…………」
空気が揺れる。笑った、のだろうか。
「幸一」
「…………」
柔らかく、名が呼ばれる。嫌な感じはしなかった。
「忘れているようだが……、おまえがまだ幼かった頃な。こんな風な嵐の夜に、おまえは我と会ったことがあるのだぞ」
おれは驚き、首を横に振った。
「……覚えていない」
「おねしょをして、泣いていたな」
「…………」
だから、どうしてこいつはこう、デリカシーがないのだろう。むっとして押し黙るおれに構わず、彼女は言葉を続けた。
「あの時も、おまえは『コウは悪い子?』と我に尋ねてきたのだぞ」
「…………」
何という恥ずかしいエピソード。幸い、おれは覚えていない。だが、確かにおれは幼い頃、自分のことをコウと呼んでいた……それは、間違いないことだ。
「それで、おまえはなんて答えたんだ?」
聞くと、すぐに返事があった。
「悪い子ではない。ただ、まだ幼いだけだ――とな」
「…………」
「今のおまえは、確かに情けない。だが、おまえは悪いやつではない。……いや」
少し間を置き、彼女は言い換える。
「コウは、いい子だ。我はちゃんと、知っているぞ」
「…………」
優しい声だった。あたたかかった。……懐かしかった。
――子供扱いするなよ。その言葉は、何故か口から出てこなかった。代わりに、呆れるほど素直な、一言が零れ落ちる。
「……ありがとう」
これがおれの夢なのか、それとも怪奇現象なのか。そんなことはもう、どうでも良かった。
胸についた傷はまだ生々しくて、癒えるのにはきっと時間が掛かるだろう。酒の力を、おれはまた借りてしまうかもしれない。おれは、情けない男だから――それでも。
「コウ?」
停電は、まだ直らない。だが、今はこの暗さがちょうどいい。まるで、タンスの中のような暗さが。
「コウ――」
おれは彼女に寄りかかったまま、その手を握っていつしか眠り込んでしまっていた……。
それからというもの、おれはあの子供を見ていない。タンスを開けても、そこには誰もいない。
だが、夢だったのだ、とはもう思わなかった。たぶん、あれは現実で――彼女は今もきっと、うちに住んでいるのだと思う。曰く、「相場」通りに「影から見守って」くれているに違いない。
というのも――時に片付けられているごみ。消されている電灯。夜にはカーテンが閉められ、朝には窓が開き――そして、あの懐かしい気配を。不意に、感じるからだ。
「ありがとう」
つぶやく。その声に応えるように――ぱたり、と。タンスの扉の閉じる音がした。