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桜狩

 満開の桜の森で、画家がただひとり、黙々と()を描いておりました。目の前には麻紙(まし)を貼り付けた木の板、右手には面相筆。繊細そうな長い指先がちょいちょいと動くと、紙の上には滑らかな薄い線が描きつけられてまいります。それは彼の目の前にある、おおきな一本の桜の樹を描いたものでございましょう。桜がこのように満開になるのは一年の間でもたった十日ほど。それを逃さぬようにと急くかのように、画家はさらさらと筆を滑らせておりました。
 風で花びらが擦れ合う以外の物音はなく、ざらつく紙の上を筆が滑る音すら聞こえるような、静寂。それがつと、破られました。
「こんにちは」
 画家ははたと手を止め、振り返りました。ここは町から離れた山の中。数日前から画家はここに通っておりますが、このように声を掛けられたのは初めてのことでした。
「ど――どうも」
 彼の背後に佇んでいたのは、まだ十代半ばから後半に差し掛かった頃くらいの、少年でございました。彼のまとう学生服は、花びらで白く埋め尽くされた空間に、ぽっと闇が開いたようにも見えます。深くかぶった学生帽のせいで顔ははっきりと判別し難く、さあれど白い面差しと薄く色づいた唇が危うげな、まるでおなごのように華奢な少年でありました。
 画家は再び紙に向かいます。時間がないのです。今年こそ、彼はこの絵を描きあげたいと――
「きみ、学校はいいのですか?」
 しかし、背後でじっと黙っている少年に画家は声を掛けました。沈黙が続くのは、どうもやりきれないような心持ちがしたのでございましょう。
「ええ。ぼくは今年中学を卒業して、もうすぐ第×高等学校にゆくのです」
「×高に」
 画家は驚いたように息を呑みました。
「きみは賢いのですね。……こんなところで油を売っていても良いのですか? 勉強は?」
「ぼくは邪魔ですか?」
 ぶるり、と画家は身を震わせました。気が付くと少年は画家の真後ろに立っていて、その吐息が画家の耳をかすめたのでございます。――あっと思った時には既に遅く、少年は画をじろじろと覗き込んでおりました。
「へえ、あなたは日本画家ですか。最近は洋画が流行りかと思っていましたが」
「わたしは――洋画は好きません」
 画家はそう言うのが精いっぱいでした。身を乗り出す少年の手が画家の肩に触れていて、それが意外なほど重く感じられたのでございます。桜の下には魔性が棲む――まだ肌寒い頃だというのに、画家の額には汗の玉が浮いておりました。
「何が違うのです?」
「まず絵の具が違います。日本画の絵の具は砂、土、岩――そして動物や植物からも作ります。それを膠で溶く。油彩はやはり油を使うでしょう。だから生き物の匂いがしません」
「そうですか。生き物の匂いが、ね」
 少年は画家の顔の隣でくすくすと笑い、そして声を上げました。
「おや? ここに何か描いてありますね」
 白い指が麻紙の上を指し示します。まだ骨描きしか終わっていない画ではありますが、確かにそこには桜の花以外のものが描いてございました。
「…………」
 画家はじっと身動きすることもなく、少年の指の先を眺めております。爪がまるで桜の花びらのように色づいていて、その向こうの血の流れを画家に教えているようでありました。
「これは、女の子ですか?」
「……よくわかりましたね」
 満開の桜の樹の下。細い線で描き込まれたそれは、まだ朧な輪郭しか持っておりませんでしたが、よくよく見れば幼い少女のようでございます。画家は驚いておりましたが、少年は悠々とした様子で画家から離れてゆきました。
 画家は少し安堵したように息をついて、再び筆を手に取ります。
「学校が始まるまで、まだ少しあります」
 少年の声が、少し遠くから響いてまいりました。まるで木霊(こだま)のように、一体どこから呼びかけられているのか判然と致しません。桜の森が、山深くにあるせいでございましょうか。それとも……。
「また、絵を見せていただいてもよろしいですか?」
「――もちろん」
 本当は、画家はいいえと答えたかったのです。出会ったばかりではありますが、この得体の知れない少年が気味悪く、ただでさえ静かでひとのいない桜の森でございます――彼と二人きりになるのはひどく恐ろしく感じられました。しかし、はっきりと断るだけの言い訳が彼には見つけることができず、結局、画家は頷くしかありませんでした。
「ふふ」
 少年は静かに笑っていました。画家は確かに彼に背を向けていたのに、それでも彼の笑い声ははっきりと聞こえたのでございます。画家はわあ、と叫び出したいのをこらえ、紙に向き直りました。画の輪郭は既に出来上がっておりましたので、胡粉を膠に溶き、麻紙全体に塗りこめてまいります。こうして、画家はざらついた麻紙の上になめらかな下地を作るのでした。
 画家は一心不乱でございました。手を止めるともうそこにはいないはずの少年の声が聞こえてくるようで、画家はただただ描き続けておりました。

 その日から毎日、少年は画家の元を訪れるようになりました。ただ黙って背後から画を眺めているだけのこともありましたし、一言二言声を掛けるようなこともあったようでございます。しかし少年は一向に名乗ろうとはしませんでしたし、いつも学生帽を目深にかぶっていて顔も良く見えないままでした。画家は少年の気配を感じてももはや振り向くことはなく、筆をふるうばかりでございました。
 画は少しずつ色を重ねられ、徐々に出来上がりに近付いてまいります。薄紅に染まった花びらがはらはらと地面に舞い、根元にはいつか少年が指摘した、女の子が小さな体を横たえておりました。花を見上げているのでございましょうか――白いブラウスと赤いワンピースをまとった、とても可愛らしい、けれど目を閉じているせいかお人形のようにも見える女の子でありました。
 桜がすべての花びらを落とす前に、きっと絵は出来上がるだろう――画家はそう思い、沸きあがる喜びを抑えることができませんでした。この絵を描きたくて、画家はこの六年ずっとこの場所に通いつめていたのでございます。毎年のように絵を描き、しかし納得がいかずに(なげう)ち、また一年を待つ。画家にとってはひどく長く、辛い日々でございました。
 しかしそれもこの七年目に終わりを迎える――画家のこころは春霞の空にも似合わず、晴れ晴れとしたものでありました。ただひとつ気に掛かるのは、あの美しく、それでいて不気味な少年のことでしたが、それも絵が完成する喜びに比べましたら小さなことのように思われたものでございます。

 風の強い日でございました。きっと、桜の見頃も今日が限りでございましょう。画家は完成した絵を置き、少し離れた場所からそれを眺めておりました。神経質に何度も立ち位置を変え、さまざまな角度から絵を見つめます。春の嵐にまきあげられた花びらが時折視界を遮りますが、彼はそれをものとも致しませんでした。その表情は満足げで、それでいてどこか虚脱したような――まるで絵に魂を抜かれてしまったような、そんな風情を湛えておりました。
 そのまま二時間ほど経ったでしょうか。画家はようやく納得のいったように画材を片付け始めました。――もう、この場所には来なくて良い。あの気味の悪い少年にも会うこともない。お別れだ。荷物をまとめた画家が立ち上がったとき、彼はぴたりと凍りつきました。
「やあ、こんにちは」
 なんと、彼の目の前にはあの少年が立っていたのでございます。いつものように学生服に身を包み……しかし学生帽はかぶっておりませんでした。それは、画家と少年が出会って初めてのこと。
「き、きみは――」
 風が少年の髪をなぶり、そして舞い散る花びらが彼の姿を覆っております。それでも画家には少年の顔がはっきりと見えておりました。その顔は、画家にとって決して馴染みのないものではございませんでした。むしろとてもよく知っている――画家は慌てて画を取り出しました。そこには両手を胸の上で組み、目をつぶっている少女の顔が。
「その子は、ぼくと良く似ていますか?」
「な……何故……」
 画家は震える声で問い掛けました。彼は少年の顔など一度も見ていないのです。なのに何故、彼は少年とそっくりの顔を描いてしまったのでございましょう。長い睫毛も、白い額も、赤い唇も、少し色素の薄く細い髪も――まるで舶来物の人形のような、美しい顔立ち。以前から、画家はこの少年が怖くて怖くて仕方がなかったのですが、その恐怖がいっそう強く掻き立てられてまいりました。
 少年はその薄い唇をわずかに微笑ませております。
「そりゃあ似ているでしょう――あなたが描いたのは、ぼくの妹なのだから」
「いもうと……?」
「そうですよ」
 桜の嵐を掻き分け、少年は一歩画家へと歩み寄りました。画家はじり、とあとずさります。
「ぼくの妹は七年前、殺されたのです」
 少年はもう笑ってはおりませんでした。黒々とした瞳は画家をとらえてぎらぎらと怪しく光っております。
「すべてはあなたがその絵に描いたとおりでした。白いブラウスと赤いワンピース。桜の樹の下で、殺された」
「い、以前わたしは妹さんのその姿をお見掛けしていて、それでたまたま」
「妹はその日、はじめてその服を着たのですよ」
 画家は息を呑みました。少年は一体自分をどうするつもりなのだろう。しかし、このか細い少年なら力づくでどうにかなるかもしれない。いや、恐ろしい――彼は本当に人間だろうか。そのようなことがぐるぐると頭を巡って、画家の手はがたがたと震えておりました。
 少年は一歩、また一歩と近付いてまいります。
「あなたは毎年ここで絵を描いていた。六年前、ぼくはここであなたの描き掛けの画を見て――そして確信した。妹を殺したのはこの画を描いた者だと。あなたが、ここで妹の首を絞め、そして桜の樹の下に埋めたのだと。ようやく見つけましたよ。あなたを」
 画家はびくりと顔を上げました――「首を絞め、樹の下に埋めた」?
「なぜ……?」
「ええ、そうですね。妹の遺体は見つからずじまいでした。死因だってわかるはずがない。町の皆は神隠しだと言った……でもぼくは知っている。七年前、この樹の下で何が起こったのか。すべてを知っているのです。だって妹はここにいて、ぼくに教えてくれたのですから。妹は桜になったのだ。桜の下に埋められ、桜になったのですよ」
「…………」
 この少年は狂っているのではないか――そう思いながら、画家はひそかに決意を固めました。
「悪く思わないでくれ」
 先ほどまで少年に怯えていた彼とは違っておりました。この少年を殺してしまおう。妹と同じように、首を絞めて……そしてこの樹の下に埋めるのだ。この少年は美しい。妹と同じように、絵に描いてみたい。画家はその衝動を、どうしても抑えることができませんでした。
 少年は花びらの向こうでゆらりと佇んでおります。その詰襟に半ば隠れた首はほっそりと白く、力を込めればすぐに折れてしまいそうなほどでございました。
 画家は一歩、少年に近寄ります。
「大丈夫、わたしがきみを絵に描きます――そうすればきみは美しいまま、ずっと絵の中に生き続ける」
 桜の花びらと同じ。散りゆき、汚く踏みしめられることはない。ただ美しく、いつまでも咲いていれば良い――
 少年は再び微笑みました。
「ぼくは美しくありませんよ。この皮の下には赤黒い血が流れ、臓物(ぞうもつ)が脈打っている。排泄もするし嘔吐する。ぼくは、人間です」
「五月蠅いぞ!」
 画家はぞっとしました――美しい少年が、少年自身の言葉で汚されるのは我慢ならなかったのです。これ以上喋らせておけば彼の中の綺麗なものが濁ってしまう。画家は焦りました。早く、早く少年を殺さなければ。そうして美しい死体を作り、丹念に眺め、自分の中に取り込んでしまおう。そうしてまた来年、少年の絵を描こう。記憶の中の美しい彼を引き出し、花びらの中に塗り込めよう。
「そんなに綺麗なものがお好きなら」
 ふ、と画家は足を止めました。少年の声が、耳の側で聞こえたのです。いつの間に回りこんだのか――
「あなた自身が、桜になれば良いではありませんか? 妹が待っていますよ」
 鈍い痛みと灼熱感。
 意識を失う寸前に画家が見たものは、にんまりと笑う少年の顔――
 
 
「…………」
 少年は地面に落ちた画を取り上げました。描かれているのは愛しい妹の面差し。しかしそれを見つめる少年の眼差しはひどく険しいものでした。
「違う。あの子はもっとふっくらとしていた。悪戯好きで、足にも腕にも生傷がたえなかった。ほつれた髪には、花びらが絡んでいたろう。これは、ぼくの妹じゃない」
 少年は麻紙を板からはずし、びりびりに引き裂きました。
 ――どう!
 突き上げるような風が、その破片を舞い上げ、花びらとともに吹き散らします。少年はただじっと、それを見上げておりました。
 
 
 
 
 少年がいなくなったあと。残されたのは何本かの筆と、木板と、地面を彩る染料の粉。それも春の嵐に撒かれて、ちりぢりになってゆきます。
 他には何もございませんでした。
 
 ――散りゆく桜の他には、何も。