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朱樂院家の焼失

 それはいつも俯いていた。長い黒髪で顔を覆うようにして、決してその面を見せなかった。叔父である朱樂院(しゅらくいん)家当主の私が、何度顔を上げるように言っても駄目だった。
 蓉子(ようこ)とそれとは双子で、私の妻の――実は妻も双子であった――妹の娘たちである。義妹は誰の(たね)とも知れぬふたりの娘を人知れず産み落とし、しかしある時まだ幼児であった彼女らをこの屋敷に置き去りにして失踪した。ひと月後、少し離れた岬におんなの死体が上がったと聞いたが、損傷が激しく身元はわからなかったとか。誰も口にはしないが、もしかするとそれが義妹であったのかもしれぬ。
 子のない妻は、蓉子をひどく可愛がった。蓉子は妻に良く似て、朱樂院の血を濃く宿したうつくしい少女であった。私は婿養子である。私とこの奇妙な双子との間に血の繋がりはない。
「叔父様」
 媚びるように、蓉子は私を見上げる。濃い睫毛に縁取られた大きな瞳。ふっくりとした唇を少し開け、小さく粒揃いな歯と真っ赤な舌をちらちらと覗かせる。男の心をつかむ手管を、この少女は既に手に入れていた。末恐ろしいおんなだ、と私は酷く冷静に彼女を見下ろした。
「なんだい、蓉子」
「あれのことなんだけれど」
 蓉子は己の姉を「あれ」と呼ぶ。ここに来た時から、ずっとそうだ。妻も同じようにそう呼ぶし、屋敷のものは奥方の意向を汲んでまるきり無視をしている。だが、私までもが同じ態度を取るわけにもいかぬだろう。何と言っても彼女もまた、朱樂院の血を引いているのである。
瞳子(とうこ)のことだろう。どうした」
「どこか、奉公にでも出して下さらないかしら。私、あれと一緒に居るのは嫌なの」
「なぜ。お前の姉じゃないか」
「まあ」
 蓉子は叫んだ。長い艶やかな黒髪を振り乱し、首を横に振る。
「叔父様はあの子の顔をご覧になったことがないから、そんなことが言えるのよ」
「かお……」
「お母様が私たちを捨てたのもあれのせいよ。あれの顔があんまり醜いから、嫌になったんだわ」
 だったらなぜ君のことも捨てたんだろうね、君だけは連れて行っても良かったんだろうに――その意地悪な台詞を、私はぐっと飲み込んだ。
「朱樂院の血を引くものを、粗末に扱う訳にはいかない」
「だったら」
 蓉子はうつくしい顔を歪め、吐き捨てた。
「座敷牢にでも閉じ込めておけばいい。目障りだわ」
 なぜ、そんなにも姉を憎むのか。私は尋ねなかった。
 瞳子を座敷牢に入れる必要はないだろう。瞳子は、いつもひっそりと姿を潜めている。蓉子のように巫山戯(ふざけ)て騒ぐこともないし、妻のように突然激昂して怒鳴り散らすこともない。ひたりひたりと音を殺して床を踏み、声を出さずに深々と一礼し、すっと廊下を曲がって姿を消す。いつしか、私はその痩せた背中を目で追うようになっていた。
 蓉子のその要求から少し経った頃、私は妻から同じことを言われた。瞳子をこの屋敷から追い出して欲しい、と。
「なぜ今更。もう十年ここに置いてきたじゃないか」
 反論する私に、妻は蓉子と良く似た表情で艶然と微笑んだ。
「だからよ。もう十分でしょう。今なら追い出しても死にはしないわ。身体を売ってでも生きては行ける。あんな顔でも、おんなだもの」
「お前の姪だろう」
「違う」
 妻は眼差しを冷たいものにして、ぽつりと言った。
「私の姪は蓉子だけよ。あれはただの……」
 私は手をあげて遮る。聞くに耐えないと思った。
 妻は苛立ったように一言、言い捨てた。
「貴方はあれの顔も見たことがないんでしょうに」
 ――と。

 私が瞳子の顔を初めて見たのは、その後すぐのことであった。偶々すれ違った彼女の腕を捉え、嫌がるのも構わずに蔵の中に引きずり込んだのである。
「すまない」
 震えながら俯いている彼女に、私は謝罪する。
「だが、こうでもしないと君は顔を上げてくれないだろう」
「かお」
 瞳子の声を聞いたのは、これが初めてだった。妻や蓉子に罵倒されても、瞳子はいつも黙って俯いているだけだったから。
「見ないでください。お願いします」
「駄目だ」
 私は瞳子に詰め寄る。その背中を壁に押し付け、彼女は首を横に振った。
「ゆるしてください、旦那様」
「旦那様はないだろう。私はお前の叔父だよ」
 だが、私は知っている。妻は自分のことを奥方様と呼ばせているし、蓉子はお嬢様と呼ばせている。あの二人は、何かが狂っているのではないか……。
 私は瞳子の顎を捉え、髪を払った。
「瞳子」
 名を呼ぶと、はと彼女が顔を上げた。その名を呼ばれたのは、きっと久しぶりのことだったのだろう。瞳子の一対の透き通った瞳が、私を映している。しかし、彼女の顔の左半分は――。
「火傷か」
 私は手を伸ばして彼女の鼻の左側から耳に掛けてを覆う、ひどいひきつれに触れた。びくり、と瞳子は体を震わせる。
「ご、ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「顔を上げてしまったから」
 瞳子がすぐに顔を伏せようとするのを留め、私は言った。
「私が見たいと言ったのだ。謝ることはない」
 これは火傷だろう、何があったのだ――何度もしつこく尋ねた私に、瞳子は躊躇いがちに語り始めた。ある日母親が、娘二人は到底育てられぬと言い出した。一人を本家に託し、一人を連れて行くと。瞳子を預け、蓉子を連れて行こうとした母親だったが、蓉子は抗い、母に火箸を振りかざした。蓉子を止めようとした瞳子の顔にそれが当たり、母親は全てに絶望して二人を捨てた――。
「決して蓉子のせいではないのです。あれは事故ですから」
 この話をしたのは初めてです、と瞳子は淡々と話を終えた。
 なんてことだ。この双子の娘が屋敷に来たのはまだ七つの頃である。そんな年の頃に、蓉子は火箸を己の妹の顔に押し付けたというのか。
「瞳子」
 私は彼女の名を呼んだ。俯いたままの彼女を、強く抱きしめる。
「あ……だんなさ、」
「叔父様、だ」
 瞳子の左頬に己のそれを押し付け、私はその絡んだ髪を何度も指ですいた。
「それとも――そうだ、理弌(りいち)でも良い。それが良い」
「りいち」
 それが名だと理解しているのか、彼女は舌足らずに何度もそれを口にした。
 私はその少女を抱きしめながら――生まれて初めて、他人(ひと)を愛しいと思った。

 私は瞳子を座敷牢に入れた――表向き、そういうことにした。妻と蓉子は上機嫌で私にまとわりついてきたが、私は曖昧に突き放した。彼女らのうつくしさなど、今や私にとってはなんの意味も無い。
 瞳子のいるのは、座敷牢と銘打った離れであった。食事を運ぶ以外、誰もそこには近付かない。私はそこに出掛けては、瞳子の傍で時間を過ごした。彼女は私の前でも滅多に顔を上げてはくれなかったが、無理強いはしないようにした。それでも、長い髪の間からちらちらと彼女の澄んだ瞳が見えるだけで、私は満足だった。瞳子は字が読めなかったから、私が教えた。蓉子が退屈がって放り投げるような類の本を、瞳子は根気よく読んだ。瞳子は聡明な少女であった。
 正直に言おう。私は、瞳子を愛するようになった。それが父娘の間に芽生えるような情愛で括れるようなものであったか、私はそうだと言い切る自信はない。
 瞳子の髪を梳り、彼女の為の着物を買い与える。髪を結うことは断固として拒まれたが、それ以外のことなら瞳子は何でも受け入れた。
 私は瞳子を愛した。
「なぜ」
 瞳子と寄り添って座っていたとき、彼女はぽつりと言った。
「理弌は私と一緒にいてくれるの」
「なぜだろうな」
 私は煙草を吹かしながら、彼女の小さな手をもう片方の手で弄んでいた。
「皆、私から離れていったのに」
 瞳子は恐る恐る、私の肩にもたれる。その仕草のひとつひとつが、いじらしくてたまらない。
「お母様も、蓉子も、奥方様も。それなのに、理弌は側にいてくれる」
「不足だろうが、我慢してくれ」
 冗談のようにそう言うと、瞳子は違う、とすぐに否定した。
「私はもう、何も要らない」
 彼女の唇は、微かに微笑んでいる。
「理弌が居れば、何も要らない」
「瞳子」
 私は思わずその名を口にした。
 私の生の内で、こんなにも誰かに必要とされたことは無い。妻が私を婿に選んだのは、私の背が高く、見栄えが良かったからだそうだ。妻自身がそう言っていた。そこに愛などなかった、と。私は事故で両親を早くに亡くし、兄弟もいない。面倒な親族付き合いがなくてちょうどいいわ、と妻は笑っていた。
「瞳子」
 傷ついた左頬に、口付ける。ざらりとした感触。私は何度もそこに唇を這わせた。
「愛しているよ」
 その言葉を、彼女は知っていただろうか。左目から零れる塩辛い雫を、私はまるで飢えた獣のように飲み干した。

 事が露見したのは、私が瞳子を愛するようになってから半年ほどが経った頃。呆気ないまでに、終局は訪れた。
「なんてこと。叔父様を誑かすなんて、この売女、淫売」
 蓉子の耳障りな叫び声。私は瞳子の頭を胸に抱え、その声が届かないようにと願った。
「貴方、誰のお陰で朱樂院の当主になれたと思っているのかしら」
 青褪めた顔の妻が、引きつった微笑みを見せる。かつてはこの妻をうつくしいと思い、愛そうとしたこともあった。それも遠い過去の話だ。
「それを追い出して、二度と朱樂院の元に戻らせないと誓うのなら――」
「離縁してくれ」
 私は言った。
「瞳子をくれれば、それでいい。私は朱樂院を離れる」
「何を言って――」
「理弌」
 瞳子がくぐもった声で私を呼んだ。
「もういい、理弌――」
 私にしか聞こえない声で、彼女は私に訴える。
「私はもういい。お母様のところに行く。もっと早く、そうすべきだった」
「厭だ」
 私は強く強く瞳子を抱いた。
「離すものか。私もお前と同じだ、瞳子。お前がいれば、私は何も要らない」
 つんざくような絶叫は、妻のものか、それとも姪か。ばたん、と離れの木戸が閉められて、私ははっとした。外では悲鳴と、怒号と、そして哄笑が響いている。あのふたりは狂ったのだろうか、そう思いながら、震える瞳子を抱きしめた。
 彼女らが一体何をするつもりなのかはすぐにわかった。私達を取り巻いた異臭は、油と、そして何かを焦がすような……。
「火をかけたか」
 私は立ち上がった。どうやらあの二人は私たちを焼き殺すつもりらしい。扉に手をかけるが、外からつっかえ棒でもかませているのかびくともしない。隙間から黒い煙が侵入してくる。私は上着を脱いで瞳子に被せた。
「被っていなさい」
 瞳子は私を見上げた。事態を察したか、そのうつくしい両の目からぽろぽろと涙をこぼしている。
「逃げて、理弌だけでも。お願い」
「莫迦を云うな」
 辺りには小さな茶卓くらいしかない。私はそれを振り上げ、扉や壁に叩きつけた。だが、破れない。私は汗を拭い、そして瞳子を見下ろした。
「逃げられないのなら、一緒に死のう」
 瞳子はその言葉を聴くと、顔をくしゃくしゃに歪めて一言、うれしい、とつぶやいた。
「私は酷いおんなだわ。理弌は奥方様の旦那様で、蓉子の大好きな叔父様だって知っているのに」
 しゃくりあげる彼女の姿が、煙の中でゆらりと揺らめいた。炎がちらちらと這い寄ってくる。
「私は理弌が欲しい。理弌、理弌」
 私は駆け寄り、彼女を抱きしめた。
「全部お前のものだ、わかるだろう。私はここに居る」
「理弌」
 彼女の両の頬を掌で包む。左の頬の傷跡すら、愛しいと思った。
「ごめんなさい」
 瞳子は私に抱かれながら、つぶやいた。
「私は、理弌をあのひとたちから奪ってしまった」
 瞳子はわかっていない。妻や蓉子が怒ったのは、私を愛していたからでは無い。己の所有物だと思っていた男が、思い通りにならなくなったからだ。その男が、己の見下げ果てていたおんなに心奪われていることに、自尊心が傷つけられたのだ。彼女らが愛しているのは私では無い。自分自身だ。
「理弌」
 その時初めて、私は瞳子の唇に触れた。
「……愛している」
 その後のことは、あまり覚えていない。ただ、瞳子をこのまま死なせてはならぬと思った。瞳子、お前は生きるべきだ。顔を上げて誇り高く、ああどうか、もっとこの世界にはうつくしいものがあるのだから。お前の瞳はそれを見るべきだ。
 そのために、お前は生まれてきたのだから。

 目が覚めたのは、真っ白な病室の中だった。体のあちこちが痛い。医師らしい白衣の男が現れて診察され、次に訪れたのは警官だった。妻と蓉子が死んだ、と聞かされたのもその時である。あの離れに油を撒いて火を点けた時、衣服や髪に火が燃え移ったらしい。憐れには思ったが、それだけだった。
「瞳子は」
 私が気になるのは、ただそれだけだった。
「彼女は無事ですか」
「ええ」
 答えた警官は、苦笑を浮かべていた。
「病室の前に、ずっと座り込んでいます」
 私はそれを聞いて思わず立ち上がろうとしたが、警官に止められた。この後会わせる、と言われて私はしぶしぶ寝台に横たわる。
 私たちは助かったのだった。使用人たちが消防に通報したのだという。――燃えている妻や姪よりも、彼らは私たちを救けようとしていたとか。何故だろう。朱樂院の血を引くのは婿の私ではなく、妻や蓉子であるのに。
 警官らの尋問はすぐに終わった。彼らが病室を出ると同時に、駆け込んでくる華奢な影。私はその名を呼んだ。
「瞳子」
「理弌」
 愛する少女は私の名を呼び、そして涙を零した。見たところ怪我もなさそうである。良かった、と私は安堵した。髪は少し焦げてしまったのか、肩のあたりで切り揃えられている。左頬の火傷の痕も、何も変わらない。私の瞳子であった。
「ごめんなさい……私のせいで、怪我をした」
「お前のせいじゃない。お前は何も悪くない」
「でも」
 瞳子は体を震わせる。
「理弌はあちこち火傷したのでしょう。顔にもきっと、痕が残るって。私みたいに」
「そうか」
 私は包帯の下の右頬に触れた。
「お揃いだな、瞳子」
 そう思えばこの身体に残った傷跡すら愛しく、自然と唇に微笑みが浮いた。これは、瞳子と生き延びた証だ。
 泣き腫らした少女の頬に、私はそっと掌を当てる。
「瞳子」
 私は彼女をじっと見つめる。
「私の気持ちは変わらない」
 ――お前がいれば、何も要らない。
「ふたりで生きよう」
 瞳子は何度もうなずいた。そして彼女は細かく震えながらその愛らしい唇で、私の包帯の上から何度も口付けてくれたのだった。

 これが、一時世間を賑わせた朱樂院家の焼失である。
 瞳子と私はあの炎の中で一度死に、そして再生した。私たちは炎に包まれ、ひとつの(つが)いとなった――私はそう、思っている。