instagram

戦場に咲く花は何を見たか

 ぼくはもう、彼女の名前を覚えていない。
 必要がないからだ。
 彼女は、ぼくとは永遠に交わらない。
 だけど、
 彼女の眼も、
 彼女の声も、
 彼女の髪も、
 彼女の後ろ姿も、
 ぼくは何もかもを覚えている。
 勿論、
 彼女の手の甲に咲いていた「花」だって思い出せる──。

  × × × × ×

 彼女は違っていた。
 何が違っていたかと言われれば、人によって違うところを挙げるだろう。きっとその全てが正解なのだと思う。
 ぼくが彼女と出会った場所は、戦場だった。
 ぼくは兵士で、彼女もまた兵士。
 ただし、ぼくの所属はアーミィで、彼女はエアフォース。
 つまり、
 ぼくが一回の操作で殺す人間の何万倍を、彼女は一瞬で殺すということ。
 ぼくは大抵殺す相手の顔を見る。
 だけど、
 彼女は見ない。
 彼女が乗っていた機体は月欠(ツキカケ)という名の、どちらかといえば旧式の爆撃機だった。ボムはあまり積めないけれど、機体が軽くて初心者には扱いやすい。
 勿論彼女は初心者じゃなくて、それどころか、うちの基地のエースだった。
 初めて喋ったのは、ぼくが彼女のいた基地に異動してすぐだったように思う。
 どこの基地も変わらない、うまくもなければまずくもない食堂。一人パスタをすすっていたぼくの前に、エアフォースの制服が現れてじっと止まった。
「それ、おいしい?」
「……え?」
 顔を上げるとそこに彼女がいた。
 黒い髪を肩まで伸ばし、前髪も目を覆い隠してしまわない程度に長い。
 瞳だけが青みがかっていて、まるでガラス玉のようにつるつるした光を放っている。
 ぼくはとりあえずフォークでパスタを指し示した。
「このアンチョビパスタ? うーん、まあまあかな」
「そう」
「でも試す価値はあるよ」
「アンチョビを除いてもおいしいかしら」
「アンチョビは嫌い?」
「私、ベジタリアンだから」
「へえ」
 意外かもしれないが、アーミィの軍人にベジタリアンは珍しくない。肉や魚の焦げる匂いは、その……似てるから。
 だけどエアフォースの人間にはちょっと少ない。彼らは空からボムを降らすだけだから、生々しいものとは無縁だ。
 彼女は立ったまま僕を見下ろし、片頬だけで微笑んだ。まさしく、今からジョークを言おうとする顔。
「私、人間以外は殺さないことに決めてるの」
 手袋を外した彼女の右手がちらりと見えた。
 手の甲に咲く、傷跡。花弁型をした。
 ぼくは少しだけ息を吸った。笑う。
「ボムの下には犬や猫だっているんじゃない? もっと小さな、ノミとかバクテリアもいるだろ?」
「……そうね」
 一呼吸おいて、彼女は頷いた。
「それは避けられないから、仕方ない。故意ではない。歩いていて蟻を踏み潰すのと同じ」
「食事は故意なの?」
「タンパク源は他にもある。肉はエッセンシャルではない」
「あなたは」
 ぼくはできるだけ素知らぬ顔で尋ねる。
「わざと人を殺している?」
「…………」
 彼女は表情をぴくりとも動かさない。
「そうよ」
「…………」
 彼女が歩き去るのを見送ることなく、ぼくは再びパスタをすする。靴音だけは、どうしても耳に響いた。

 彼女の手の傷跡の話はそれからすぐに聞いた。噂好きで、しかも誰もがそうに違いないと信じている人というのはどこにでもいる。ぼくの場合は同僚の一人だった。
「彼女、自分で撃ち抜いたんだぜ」
「え?」
 一瞬の隙でスプーンがミネストローネに沈む。ぼくはそれを拾い上げ、テーブルに置かれたナフキンで拭った。スプーンは金属で作るべきじゃないと思う。比熱が高すぎる。

「もう一年くらい前じゃないかな? ちょっとした騒ぎになった」
「撃ったって、ガンで?」
「ああ。しかも散光(サンコウ)タイプの弾だった」
「それはそれは」
 ぼくは思わず眉を寄せた。散光は物を貫通すると弾丸が小さな破片になって勢い良く飛び散る。試したことはないけれど、撃たれたらきっとなかなかに痛いだろう。
 彼女の傷跡が花弁型なのは、きっとそういうわけだ。
「理由は未だに分からない」
「本人が話さないから?」
「いや」
 同僚は何故か笑った。
「理由は話してくれる。誰も理解できない」
 それは彼女の側の問題ではないだろう、と思う。
 その同僚は彼女の言葉を記憶していた。意味が分からなくても記憶はできる。人間は便利だ。
「『この手は殺されてみる必要があった』んだってさ」
「ふうん」
 それの何が理解できないのか、ぼくには分からない。それ以上でもそれ以下でもなく、つまりプラマイゼロ。
 ぼくが何も聞かないのが気に障ったのか、同僚は肩をすくめた。わざわざ話してやって損をした、とでもいうように。
 だけど、話をしたのは彼の意志。ぼくの意志ではない。
 不条理だ。
 その次の日の戦闘で、彼は死んだ。
 勿論それは彼の意志ではなかっただろう。
 やはり、不条理だ。

 ぼくは深夜の射撃場が好きだ。昼間の訓練は好きじゃないけど、夜間訓練は好き。訓練のない夜に一人で撃ちに来るのはもっと好き。
 今夜はその、貴重な機会だった。この前来たときから数えると、多分数十回以上の戦闘を経ているはず。
 的を目掛けて構える。
 冷たい引き金が皮膚に触れる感触。ぼくの肌の内側は金属なんかよりずっと冷え切っている。
 破れる一瞬前の緊張。
 静謐で、
 神聖な。
 戦闘中には味わえない感覚だ。あそこは血の匂いしかしない。そして耳をつんざく轟音。
 ちょうど引き金を引こうとした時、ぼくは突然現れた背後の気配に銃口を向けた。一八〇度、回転。
「優秀」
 つぶやいたのは、彼女だった。
 ぼくは銃口を下ろさないまま告げる。
「ちょっとタイミングが違ってたら、きみの額に穴が開くところだった」
「敵に殺されるか味方に殺されるかの違い」
 彼女はあくまで穏やかだった。
「殺す側にとっては敵を撃つか味方を撃つか、大きな違いかもしれないけれど、撃たれる側にとっては同じことだよ」
「撃った後に気付くぼくはどうなるのさ」
「さあ?」
 彼女は楽しそうに笑う。
 もしかして撃って欲しかったのかな、とぼくは思った。だけど、そのつもりはない。殺人容疑で軍法会議に掛けられるなんてまっぴらだ。
「敵と味方って誰が決めるのかな」
 彼女は呟く。
「私は一度も決めたことがない」
「ぼくもないな」
 つまらなそうに言って、ぼくは彼女に背を向けた。引き金を引く。
 闇の一部が弾け、ぼくは命中したことを知った。
「うまいね」
「ふつうだよ」
「何を考えている?」
「え?」
「撃つとき」
「何も考えない。考えると、当たらないから」
 ぼくは彼女を真っ直ぐに見つめる。彼女は少し不機嫌そうな顔で、だけどその青い目だけは透き通っていた。
 ぼくは少し丁寧に説明する。その目に免じてってところ。
「一連の動きが体に染み着いてるんだ。考えるとそちらに神経を取られるから、いけない」
「染み着いているのは」
 まるでスパイを恐れているかのような声。勿論スパイがいないとは保証できないけれど、別に大したことじゃない。
「引き金を引くまでの動き? それとも」
 ぼくは、もう一発撃った。
「撃った相手が死ぬのを見届けるまで?」
「見届けないよ」
 ぼくは苦笑して振り向いた。彼女の瞳を見つめる。背筋がぞくぞくした。
「見届けていたら、別の奴にやられてしまう」
「そうか」
 彼女は深く頷く。
「それはそうだね」
「飛行機と同じ」
「え?」
「ボムを落としたら、偵察機に見つからない内に帰る。ボムの行方は気にしない」
「…………」
「でしょ?」
 彼女は芸術的な角度で空を見上げた。星は見えないはず。
「開戦から何年経ったか、覚えてる?」
「まさか」
 肩をすくめた。考えたこともない。
 彼女は多分その言葉を予期していただろう。すぐに言葉を継いだ。
「今年で二五三年」
「まあ、そんなものかな」
 ぼくはうそぶく。勿論実際は予想だにしていなかった。
 季節があれば……、でも、それは既に望むべくもない。厚いガス雲に覆われた地表は徐々に冷え続けている。いつかは凍り付いてしまうだろう。
 そういえば、彼女は何故年数を覚えていたのだろう。そんな話は聞いたことがないし、誰も気に止めてなどいない。
 彼女はぼくの疑問くらい既に見抜いていたはずだ。
 青い瞳が、まるで作り物みたいにきらめいた。
「私は……、いえ、私たち兵士は、開戦当時から」
 ぼくはぼうっと……、
 まるで頭の中に霧がかかったようだった。
「一度も死んでいない」
「うそ」
 ぼくは首を横に振った。でも頭にまとわりついている霞はただたなびくだけで、消えてはくれない。
「同僚は何人も戦死しているよ。この基地でだって……、」
「修理すれば、簡単」
「修理?」
「私たちがふつうの人間だと? そう思っている?」
 彼女は、哀れんでいる。
 そのことに気付いてぞっとした。
「そもそも私たちはどこと戦っている? 敵は誰?」
「…………」
「毎日沢山の兵士が戦死しているはずなのに、敵も味方も人数が減らないのは何故?」
「…………」
 ぼくは何一つ答えられなかった。
「もしかしたら……、」
 だけど、彼女の微笑はとても優しい。
「私たち兵士を作った本物の人間はもうどこにもいなくて」
「…………」
「兵士である私たちだけが……、何も知らずに戦い続けているのかもしれない」
「…………」
 途方もない話だ、と思った。
 では、彼女の痣の話をしてくれた同僚はまだ生きているのだろうか?
 どこで?
 どうやって?
「君は……、」
「狂っていると思う?」
 ぼくは口ごもった。彼女は静かに微笑するだけだ。
 彼女は本当に狂っているのだろうか。
 直線で構成された黒い髪。
 風で揺れてもすぐに元に戻る。
 波打ち際に寄せる波みたいだと思う。
 僕は海に行ったことなどないけれど。
「だって、そんな記憶」
「頭を撃ち抜かれて修理されれば記憶は残らない」
「君は?」
「私はたまたま頭ではなかったから」
「二三一年間も?」
「二五三年」
「免れた?」
「私はエアフォースだし」
「信じられない」
 ぼくはまた首を横に振る。さすがに狂っている、とは言えなかった。
「信じなくてもいい」
 彼女の白い手が閃く。その指に絡まった、黒い塊。
「何をするつもり?」
 胸元にごりっとした感触を感じる。現実味はなかった。
 ガンなんて見慣れているのに……、
「試してみるといい」
「何を」
「きっと死なない」
「そんなの」
「だけど、それでも」
 彼女はどこか寂しそうだった。
「私は人を殺していることに代わりはない」
 自分の手にもガンがある。
 だけど、
 ぼくは彼女を撃つ気にはなれなかった。
「ぼくを殺すの?」
「…………」
 かちり、と軽い音。
「また会いましょう」
 彼女は、
 微笑む。
 拳銃を持つ手に、
 花弁が、
「さよなら」
 ぼくは、
 目をつぶらない。
 
 衝撃。

  × × × × ×

 ぼくは死ななかった。
 だから、今日もぼくは人を殺す。
 もしかするとその兵士はかつてのぼくの同僚かもしれないし、そうではないかもしれない。
 一体自分が何のために戦っているのか、そのことすら分からないままぼくらは殺し合い続ける。
 いつ終わるとも知れない戦争。
 どこまで広がっているのかも分からない戦地。
 どこかに、彼女はきっといるのだろう。
 そして、

 今日も誰かを殺しているのろう。
 一度彼女に殺された右手がぼくを殺したように。
 ぼくもまた、誰かを殺すのだ。