彼女に咲いた花
最初は何の冗談かと思った。彼女はジョークが好きだったし。しかもとびきりブラックなやつが。
はじめ、彼女は真顔で言った。
「花が咲いた」
ぼくは首を傾げた。
「花なんか育ててたっけ?」
一人暮らしの姉の、殺風景な部屋を思い出す。最後に訪ねたのは半年前だけれど、当時は花などなかった。
「いや」
と彼女は笑った。
「それが、驚いたんだけど」
「うん」
ぼくは頷く。
彼女はにやりと笑った。嫌な予感。
「私の手首に咲いてんのよ」
「…………」
ぼくは鉱物みたいに固まった。
姉はにやにやしている。
ぼくは顔の割れ目から声を押し出した。
「冗談?」
「まさか」
姉は長袖のセーターを勢い良く肘までまくった。
確かに、
彼女の左手首には花が咲いていた。
「うーん」
ぼくはマジマジとその花を見つめた。
ちょうど腕時計みたいな感じで、だけどバンドはどこにも見あたらない。ガクから先の部分が白い皮膚から突き出している。
花には詳しくないけれど、何となくぼくはその花をガーベラだと判断した。
「うーん……」
ぼくは花から彼女の顔に視線を移した。姉は意味もなくふんぞり返っている。このコーヒーショップのソファは柔らかいから、自然とそういう体勢になるのかもしれない。
「どうしたの、これ」
「一週間ほど前に蕾が出てきて」
「うん」
「二日前に咲いた」
「…………」
姉は右の人差し指と中指を揃えてそのピンク色の花弁に近付けた。触れない。
「痛いの?」
「うん。最初、抜こうとしたけど痛すぎて」
「医者には?」
「行ってない」
答えてから、姉の顔は奇妙に歪んだ。
「行けないでしょ。これは」
「うーん」
ぼくは途方に暮れた。
姉は薬剤師だし、ぼくは学生時代に理学部生物学専攻だったから、多少はそういうのに関する知識がある姉弟だと思う。そういうのって、つまり病気とか薬とか生命現象一般とか。
だけどそれはちっとも役に立たなかった。彼女は再び袖を伸ばし直して、花は視界から消えた。
「まあ、今のところ害はないし」
姉は微笑んだ。その表情には少しの心配もないように見えて、ぼくは逆に不安になる。
「何かあったら連絡する」
「母さんには?」
「いや。大騒ぎして卒倒しそうだろ」
それは当たり前だよ。
ぼくは口には出さずに彼女を睨んだ。
だけどやっぱり、彼女は涼しい顔でぼくに微笑みかけていた。
* * * *
その後、姉からの連絡はしばらくなかった。母に探りを入れてみると、一応母には連絡を入れているらしい。相変わらず恋人はいないそうだ。
弟のぼくが言うのも変だけど、姉はとても綺麗な人だ。ちょっと風変わりだけど優しいし、頭だっていい。だけど彼女は誰かと長く付き合った試しがない。相手からの告白は大抵断ってしまうし、受けても続いて半年。短いときは二週間だった。いつも姉が終わらせてしまう。
彼女に言わせると、それは運とタイミングの問題だそうだ。広瀬香美の歌じゃないんだからって言うと、彼女は「ロマンスの神様」を鼻歌で歌ってごまかした。古い歌を良く覚えているものだ。
「だって、仕方ないじゃない」
姉は知らん顔で言う。
「妥協したら母さんみたいになっちゃう」
ぼくらの両親は、ぼくが就職するのと同時に離婚した。夫婦としてはもう十年以上前に破綻していたのだけれど、経済的な問題とかいろいろあって、ずっと母が機が熟すのを待っていたのだ。
ぼくも姉もその辺はドライだから、特に何とも思わなかった。むしろ母が楽になったのを見てほっとしたくらいだ。
「母さんは見合いだろ」
「……あーあ」
姉は呟いた。
「私も、何も残せずに死んでしまうのかな」
「え?」
「ま、普通の人ってそんなものよね。歴史に残る人物ってそうそういないんだから」
ぼくは眉をひそめた。
「何の話?」
「いや、別に」
姉はそのほっそりした足を組んだ。さすがに弟だから、ぼくは目を奪われたりなんかはしなかった。
「時々虚しくなったりしない?」
「何が」
「人間ってさ」
彼女の話はころころ変わるからついていくのが大変だ。とはいえ、彼女の中では全部繋がっているらしくて、思いもよらぬところから引っ張ってくることもあるから難しい。
「進化しすぎちゃったんだろうな」
「どうして?」
「疑問を持ってしまったでしょ。特に女性は」
……なんとなく、ぼくには姉の言いたいことの想像がついていた。
「子どもを生んで育てる。それだけでいいのかって。勿論子孫を育てるのは生命にとって必要なこと。だけど」
「全員が中継選手じゃ、どうしようもないよね」
「そうそう」
嬉しそうに笑う。
「ゴールもない駅伝を永遠に続けて、どうなるっていうの」
「じゃあ、姉さんはどうするのさ」
「私? 私は走るの嫌いだから」
その表情を、ぼくははっきりと思い出せる。
からっぽだった。
間が抜けていたというわけではない。
システム初期化をしたパソコン、もしくは夜中のうちに降り積もって、まだ誰もその上を歩いていない雪。
「早めにリタイヤしてしまいたいわね……」
* * * *
一ヵ月後、姉は死んだ。二十九歳だった。
皮膚ガンだったらしい。それもとびきりたちの悪い、悪性黒色腫とかいう。
発見されたとき、彼女の体は花で覆われていたそうだ。
ちょうど、大きな黒子のように見えるガンの上に。
少々特殊な接着剤でくっつけられていたそうだ。
点々と。
……そう。
うすうすぼくは気付いていた。
あの花は、何かを隠すためのものだったんじゃないかって。
彼女はガンを隠していたんだ。
ぼくと会ったとき、既に彼女の体のあちこちにガンが散らばっていて、余命は長くないと知っていたらしい。
彼女は誰にも言わなかった。
何も言わず、彼女は花をその上にくっつけていた。
多分造花だったんだろう。
姉が何を思ってそんなことをしたのかは分からない。
どうして自分の体から花が生えたと言ったのか。
何かの気まぐれだったのか。
死の恐怖に怯えたために、わけの分からない行動に出たのか。
今から言うことは、
ぼくの勝手な思い込みかもしれない。
だけど、
ぼくはあの日の姉を覚えているから。
姉は……、
あの花は、姉なりの冗談だったのだろう。
自分の体から、何かを生み出す。
子どもではなく、別の何かを。
何かを、残す。
だけど、
「分かりにくすぎるよ」
ぼくは静かに呟いた。
手元に、姉が発見されたときの写真。
警察に頼んでもらいうけたものだ。
彼女の手にも、
胸元にも、
肩にも、
太股にも、
足の指にも……、
花が咲いていた。
「そんなの、分からないよ」
これが、姉のリタイヤの形。
結局は何も残せない大多数の人間と同じ。
造花は枯れなくても、
姉の体が焼かれてしまえば同じ。
それなのに……、
「きれいだ」
ぼくは思う。
姉の死に顔はとてもきれいだった。
唇の右横にオレンジの花を咲かせて、まるでそれは花をくわえているようで。
きれいだった。
どこにも残せないけれど、
既にどこにも残っていないけれど、
とても、
きれいだった。
ただ、
それだけだった。