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幽霊、幻、或いは

 コーヒーにミルクを入れるとき、ぼくはいつでも躊躇する。
 この透明度の高さを損なってもいいのだろうか、この行為にそれだけの価値はあるかと推敲する。
 透明なものは貴重だ。
 何故なら、全ての透明なものはエントロピーの法則に従って、やがては濁ってしまうから。
 それは人だって例外ではない。
 いつまでも透明ではいられない。
 ぼくはそのことを知っている。
 
  × × ×
 
 その日は朝早くラボに行って、昨夜PCRで増やしておいたDNAをアガロースゲルに流した。
 DNAは帯電しているから、電流を掛けるとその荷電量、すなわち塩基の長さに比例した速度でゲルの中を電気泳動する。隣にちょうど目盛として使えるラダーマーカーを一緒に流して、それと見比べてDNAの大体の大きさを決める。いわゆるサザンブロッティング法というやつ。
 流す時間が短いと長さの違いが泳動距離に比例しないし、長すぎるとDNAがゲルを素通りして液中に漏れ出してしまう。最適なのは大抵十数分といったところだろう。
 ぼくは欠伸をかみ殺しながら自分の席に戻った。
 座り心地の悪いビニル製の背もたれに体を預けながら雑誌をめくっていると、隣の席の、ぼくと同じ院生がやってきた。ぼくより一年下の修士一年。だけど彼はぼくよりかなり大柄だから、きっと誰が見たってぼくよりも彼のほうが先輩に見えるだろう。名前は菅原佑輔(スガワラユウスケ)
「おはようございます」
 彼はそう言うと机の上にどさりと鞄を置いた。布製で、大きくて、まるで冴えない浪人生が肩から提げている感じ。勿論口にはしないけれど。
「おはよう。今日は早いね?」
「ええ、ちょっと」
 彼はそう言って席に腰を下ろす。ぎし、と軋む音がした。
「先輩も早いですね」
「うん、昨日PCRかけるだけかけて帰っちゃったから」
葛城(カツラギ)さんが最後だったんですか?」
「そう。二十三時過ぎてたな」
「お疲れ様です」
 ぼくは彼の顔を見て、おや、と首を傾げた。
「寝不足?」
 それはそれはご立派な隈が出来ている。彼は目をこすった。
「わかります?」
「うん、だって隈が……」
「そうかあ」
 彼はちょっと大袈裟じゃないのか、というくらいに嘆息した。
「昨晩って雨だったでしょう?」
「そうだね」
 頷く。昨夜、傘を持っていないぼくはとても困ったけど、ちょうどここの講座の助教授が一緒だったから助かった。何といっても彼は車通勤だから、気軽に送って行ってくれたというわけ。
 まあ、梅雨時期にも関わらず傘を持ち歩いていないぼくがいけなかったのだ。
 菅原はその広い肩をやけに窄めている。
「雨の日はおれ、見ちゃうんですよね」
「は?」
 ぼくは眉をひそめた。
「見ちゃうって何を?」
「いや……その」
 歯切れが悪い。
「変なのが立ってるんですよ。外に」
「雨の中?」
「そうなんです」
「傘もささずに?」
「はい」
「菅原君って何階に住んでたっけ?」
「三階ですよ」
「じゃあ、『変なの』の正体はある程度分かっているでしょう? 君、そう目は悪くなさそうだから」
「ええ、まあコンタクトですけどね」
「ああ、そう……」
 それはぼくも同じだ。
「…………」
 菅原はちらちらとこちらを見ている。多分、ぼくを信用に足る人間かどうかを見極めようとしているのだろう。
 そんなの、ぼくの表面をいくら眺めたって分かるはずがないのに。
 菅原の中で答えが出たらしい。
「おれ、多分……あれって幽霊だと思うんですよね」
「…………」
 ぼくは肩をすくめて立ち上がった。やれやれ、という気分だ。まさかこんなところで幽霊話を聞かせられるとは。
「そろそろ流れきっちゃうから」
 けれど菅原の顔があまりにも真剣だったから、一応声は掛けておいた。
「あ、はい」
 菅原は浮かない顔で頷く。
 ――きっとあいつ、今日は実験を失敗するだろうな。
 それきり、ぼくは彼の話を忘れてしまった。
 
 二週間後、菅原が意識不明の重体で入院するまでは。
 
 × × ×
 
 この講座には、ぼくと同じ修士二年目の学生はもう一人しかいない。春日井(カスガイ)顕治(ケンジ)という。彼は面倒見が良くて、声が大きくて、明るくて、活動的。つまりぼくとは対称的なタイプだ。別にぼくが根暗だとか、そういう意味ではないけれど、きっとそう思わせないための対外的なアピールは不足しているだろう。
 彼とぼくとは不思議とうまがあった。春日井はいつも張り切っているから、ぼくのように自然態な者の前ではほっとできるのかもしれない。
 菅原が入院した、という報せを聞いたその日、その春日井が深刻な顔をしてぼくのところにやってきた。
 ぼくの隣の菅原の席をちらちらと見ながら、
「お前、菅原から聞いていなかったか?」
「何の話?」
 ぼくはピペットマンを左手に持ったまま聞き返した。先端のチップの中に薬品が入っているから、作業を中断できない。
「幽霊の話だよ」
「…………」
 ぼくは顔を上げた。記憶を掘り起こす。
「そういえばそんなこと言ってたっけ」
「聞いてたのか」
 春日井はほっとしたようだった。
「実はさ、おれも見たことあるんだ、その幽霊」
「……勘弁して欲しいな」
 ぼくは小さく舌打ちした。
「なに、それじゃあ菅原が入院したのはおばけの祟りのせいで、次はお前の番かもしれないってわけかい?」
「いや、そうは思ってないけどさ」
 春日井は今席を離れている人の椅子を一つ、勝手に引き寄せてきて座った。
「十日ほど前、おれも相談されたんだよ。菅原、大分参ってて」
「ふうん」
「それで、一緒にあいつのアパートに行った訳。雨の日を選んでな」
「暇だな」
 ふっと息をつく。
「まあ、大きな実験は終わってたし……」
「ああ、あれね。確か失敗したんじゃなかった?」
「うるせえよ」
 春日井は小さく噴き出した。あの程度の失敗は日常茶飯事だから、これくらいのやりとりはジョークとして扱えるスキルを身につけておかなければならない。
「とにかく、行ってみたんだよ。そうしたら」
 春日井は何故か声を低めた。ムード作りの必要なんてないのに。
「確かにいたんだ。あいつの窓のちょうど下に、雨の中ずっと佇んでるの」
「へえ」
 ぼくは実験プロトコルを取り出した。手順を確認する。完全な見込み違いでやらかす失敗ならいいけれど、実験手技の不備による失敗は願い下げだ。
「女かな? 男かな? 良く分からなかったんだけど、とにかくいるわけ」
 とりあえずぼくは軽く指摘してみる。聞いていないと思われても困るからだ。
「二人いたんだろ? 一人が見張っておいて一人が外に出てみれば良かったじゃないか」
「それくらいのことおれだって考え付いたよ」
 春日井は胸を張った。ぼくは苦笑する。
「結果は?」
「それがやばいんだって」
 今度は身を乗り出す。忙しい男だ。
「おれが見張って、菅原が外に出て行ったんだけどさ」
「うん」
 春日井はほとんどぼくに耳打ちをするみたいに顔を近づけていた。
「菅原が外に出た瞬間、そいつは消えたんだ」
「…………」
 ぼくは思いきり嫌そうな顔をしていただろう。春日井の反応から分かった。
「お前、信じてないだろう」
「別にぼくは超常現象を全て否定しようとは思わないけれど」
 諦めて春日井に向き直る。実験は後回しだ。
「ある現象が起こった時、それを科学的に説明する物理法則が未だに見つかっていない確率と、その現象が起こったという認知そのものが間違っていたという確率、つまり原因は人の錯覚や誤認だったという確率を比べれば、後者の方が明らかに高いだろう」
「勘弁してくれよ」
 春日井はわざとらしく両手を上に挙げた。
「うちの助教授の喋り方にそっくりだ」
「そりゃどうも」
 ぼくはくすりと笑った。
 うちの助教授は変わり者で有名だ。とはいえ雨に降られて困っている学生をアパートまで送り届けてくれるくらいには十分親切なのだけど。
 有能だし、若いし、でぼくは結構気に入っている。良く似ていると言われるけれど、別に生き別れの兄だとか、ということはない。そもそも彼の名前は及川(オユカワ)で、ぼくの葛城とは縁もゆかりもない。
「で? 何が言いたいわけ?」
 ぼくが尋ねると、春日井が腕を組んだ。
「菅原は昨夜、アパートの非常階段から転落したらしい。雨が降っていたから、足を滑らせたんだな」
「外にあるの? その階段」
「ああ。らせん状になっていて。古いところだったからな」
「ふうん……」
 ぼくは少しだけ考えた。少しだけ、だ。
「お前が行った時、菅原はどの階段を使ったんだ?」
「多分、内側にあるやつだと思う。雨降ってるし、ふつう外のは使わないだろう」
「ということは」
 身を乗り出している春日井を避けるように、少しだけ背中をそらす。
「きっと、菅原は昨日もそのおばけを見たんだろう。それで、自分の目でおばけが消えないように見張りながら外のらせん階段を降りた。その途中で」
 春日井がぶるっと体を震わせる。
「足が滑って落ちたんだろうね」
 ぼくは話を終えたつもりで、手元のプロトコルに視線を戻そうとした。
「何だかさあ」
 春日井が独り言のように呟く。仕方なく耳だけそちらに集中させた。
「それじゃあ本当に祟りってやつじゃないのかよ」
「……別に、お前や菅原が見たものが本当におばけだっていう証拠はないだろう」
 一言だけ、ぼくは付け加えた。

「幽霊、幻、或いは……」

 そして口をつぐむ。
 春日井はその先を促さなかった。
 ぼくにはそれで十分だった。
 
  × × ×
   
 雨が降っている。前に雨が降ったのは菅原が階段から落ちた日で、今から一週間ほど前になる。そろそろ梅雨明けかと油断していたせいもあって、またぼくは傘を忘れてしまった。
 及川助教授の部屋をノックしてみる。多分、あの人はまだいるだろう。
 論文を執筆中なのか、実験計画を立てているのか……。
「どうぞ」
「葛城です。失礼します」
 ぼくは部屋に入った。白い壁、白い家具。何だか病室みたいだけれど、及川先生は元々医学部出身だから、こういう雰囲気に慣れているのかもしれない。
「また、傘を忘れたの?」
 振り向いた先生が微笑む。線の細い、ドラマや漫画に出てくるイメージどおりの研究者だ。つまり、眼鏡を掛けていて、短髪で、結構ハンサム。この講座には女性の院生がいないけれど、きっとこの人のことを知らないからだと思う。
「ええ……、失礼ですけど、先生はいつ頃お帰りになられますか?」
「…………」
 彼は一瞬腕時計に視線を落とした。多分、今は二十二時過ぎ。
「そうだな、そろそろ帰ろうかな」
 三十五歳で、確か独身。恋人はいるのかどうか、ぼくは知らないし興味もない。
「送っていこう。君はもう帰り支度はしたの?」
「はい」
「そういえば」
 さりげなく、彼は言った。
「菅原君が亡くなったそうだ」
「…………」
 ぼくは絶句する。言葉が、見つからなかった。
「帰ろうか」
 彼は席から立ち上がる。ぼくは黙って頷いた。
 
 先生の車の中で、ぼくはぽつりぽつりと話をした。
 菅原から聞いた話、春日井から聞いた話。
 彼は簡単な相槌を打つだけで、他に何もコメントしなかった。
 話が途切れる。
 小さく音楽が流れていたが、ぼくにはそれが何の曲だか分からなかった。多分、洋楽だろう。
「それで」
 数分間の沈黙を挟んで、彼はぼくに尋ねた。
「春日井君には確かめたの?」
「え……」
「君には分かっただろう? 春日井君とその、『幽霊』がグルだってことは」
「…………」
 頷く。多分ミラー越しに見えているだろう。
「まあ考えてみればすぐに分かることだよね」
 ハンドルを切る左の薬指にリングが光っている。彼は、もうすぐ結婚するのかもしれない。
「物理法則よりも……いや、何よりも嘘をつきやすいのは人間だから」
 
 まず、おかしいと思ったのは春日井が「男だか女だか分からなかった」といったことだ。
 ぼくは確かに菅原からどちらだったのかは聞いていなかった。だけど、彼はきっと分かっていたと思う。
 アパートの三階程度の高さなら、そこそこ暗くても地上に佇んでいる人の性別くらいは分かるだろう。しかも春日井は裸眼で視力二.〇を誇る男なのだ。見えない訳がない。
 つまり、彼はその情報をぼくに与えたくなかったということになる。
 そして「幽霊」は彼の目の前で忽然と消えうせたという。
 「幽霊」が見えるのは分かる。暫く目を離していたらいなくなっていた、というのもまあ解せないことはない。時間的、空間的条件が変更されているからだ。
 しかし連続的な状態で見えなくなったり見えるようになったりする、ということは普通あり得ない。
 とすれば、結論は簡単だ。
 春日井は嘘をついたのだ。
 それも、「幽霊」をかばい、菅原を怯えさせるために。
 本当は「幽霊」は彼の目の前でどこかへ歩いて行ったか、逃げたか、そんなところだろう。

「君はどうして」
 彼の声はいつも通り穏やかだった。
「ぼくに話をしたのかな」
「さあ」
 ぼくは曖昧に笑った。
 多分……、
「春日井に、ぼくと先生が似ていると言われたからだと思います」
「……そう」
 先生は微笑んだ。
「君はこの後どうするつもり?」
「…………」
「また、幽霊として活躍するのかな?」
「…………」
 ぼくは黙って首を横に振った。
「もう、十分です」
「そう」

 先生は何も聞かなかった。
 どうしてぼくが菅原を脅かすような真似をしたのか。
 何故春日井がぼくを庇って、むしろぼくに加担するようなことをしたのか。
 そして、それをそれとなく彼がぼくに教えてくれた理由も。
「今日は」
 先生は言う。
「本当の君の部屋まで送ってあげるよ」
「…………」
「この間は」
 先生は笑っている。ふわふわと、優しく。
「菅原君のアパートの前だったものね」
「…………」
 ぼくは頷いた。
「先生は……」
「ぼくのことなら気にしなくていい」
 彼はぼくの思考を先回りしたようだった。
「君のように有能な人材は貴重だし」
「…………」
「それに、ややこしいことになって研究環境が乱されるのは嫌なんだ」
 先生は少しだけ眉をひそめた。
 多分、本当に嫌なんだろう。
 そして、それ以外のことはどうだっていいのだ。
 だからこんなにもきれいに笑っていられる。
 ぼくは黙って前を見ていた。
 フロントガラスにうつる自分と、決して目を合わせないように。
 
  × × ×
 
 明日、春日井に会ったら言おう。
 ぼくと先生は似ていないって。
 先生はまだ透明なままだけど、ぼくは違う。
 
 ぼくを濁らせたのは菅原だったから、ぼくはそれを排除することで透明を取り戻したかった。
 だけど、無駄だった。
 一度濁ったものは透明には還れない。
 
 どうか、
 先生はそのまま。
 透明なままで。