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人魚姫に逢いに

「やあ、やっと会えた」
 そう告げた私に、彼女は遠い記憶の中と変わらぬ笑顔を見せた。
「ようやく……、ようやく、来てくれたのね」
 仄暗い水面(みなも)に、彼女の長い髪が揺蕩(たゆた)う。
 月のない夜、濡れた彼女の顔や肩を照らし出すのは遠い街の光のみ。星灯りは、この海では見えない。
 私は小型船のエンジンを切り、水面の彼女を見下ろした。彼女は変わらない。私がいくら歳を重ねても、彼女は少しも変わらない。十代の少女のような顔をして、私を見上げるのである。
「ああ」
 私は声を振り絞った。
「やっと、会えた――」

 私か彼女に初めて出会ったのは、まだ私が学校に行く前の子供だった頃である。当時、埋め立て地が作られ、開発の始まったばかりだったこの海辺に越してきた私達家族は、はじめこそ慣れない潮の香りを気にしていたものの、じき、この新しい街にすぐに馴染んでいった。
 彼女と出会ったのは、ある年の夏の新月の日だった。確かその日は花火大会があって、沖合からそれを眺めようじゃないかと言い出した父が知り合いに頼んでボートを貸してもらって、私と父はそれに乗り込んだのだった。母は、留守番だった気がする。あの頃、両親はあまり仲が良くなかったのだ……子供心に、何となく私は勘付いていた。
 岸壁から離れ、暗い水面を進むボート。内海だから大して波も高くないのだが、慣れない私はすっかり船酔いしてしまって、もはや花火を眺めるどころではなくぐったりしていた。父の姿は、何故か見当たらなかった。
 そんな時のことである。
「――――」
 誰かに名を呼ばれた気がして、私は辺りを見回した。誰もいない。薄情にも、父は私を放って花火を見ているのだろうか。確かに、そういうところのある人ではあった。遠く、ぱん、ぱぱん、と乾いた火薬の音が響いている。
 再度、呼ばれたような気がして――しかもその声は海から聞こえてきたような気がして。私はまさかと思いつつ首を突き出し、水面を見下ろした。
 ――そこで出会ったのが、彼女だった。
 ひらひらと手を振る少女。ぱしゃりと水を蹴立てるのは彼女の脚、ではなく。
 そう。そこにいたのは、人魚なのだった。
 きらきらとしたあおい鱗がびっしりと生えたその尾をくねらせて、彼女は私を見上げていた。
「何してるの」
 船酔いも吹っ飛んだ心地で、私は尋ねた。
「なんでそんなとこに、」
「何でって、私は人魚だもの。海の底に住む人魚なのよ」
 白い腕でぱっと水を跳ね上げる。その飛沫を顔に受け、私はしょっぱさに顔をしかめた。
「人魚? そんなの、いないよ」
「私が作り物に見える?」
 くるくると水中を泳ぎ、ぱしゃりと尾を跳ねさせる。
「ねえ? どう?」
 体をしなやかにくねらせるその姿を目にして、私は少し困った後、正直に首を横に振った。そんな私を見上げて、人魚はうっすらと微笑む。
「信じてくれる? 私は人魚だって」
「……う、うん」
「じゃあ、約束して」
 人魚は私にそう言った。
「私のこと、忘れないで――またこの海に、会いに来て」
 身を乗り出し、白い肌も露わに――あの頃の私には、そのふたつのまるい乳房の持つ性的な意味など感じ取れはしなかったが――彼女は船の上の私を見上げる。
「夏の、月のない夜」
 ――この海に、
「会いに来て」
 どうやって、と尋ねた言葉に、人魚は返事を寄越さなかった。とぷん、と海中に頭を沈め、そしてそのまま再びその顔は上がっては来ない。
 小さな泡が、ぷつぷつと水面に浮かぶ。そうして、私はまた眠ってしまったようだ――気が付くと、私の乗った船は元の岸壁に戻っていた。
 お父さん、人魚は。そう尋ねた私に、父はぎょっとしたような目をした後、怪訝そうな顔をして首を横に振った。
「夢でも見たんだろう、忘れなさい」
 船酔いはしんどかったろう。すまなかったな、と父は私の頭を撫でた。すまなかった。すまなかった。妙に何度も謝る父を遮り、私は笑った。
「また、船に乗せてくれる?」
 今日と同じ、月のない日に。
 父は目を見開いて私を見つめた後、やがてゆっくりと――躊躇いがちに、肯いた。

 父は――私との約束とは正確には違う日だったが――例の花火大会の日には、必ずボートを出してくれた。新月の日でなければ意味がないのに、と思ったが、私にはうまく説明ができなかった。まさか人魚との約束だなどと言えるはずもない。あの日以来、私は人魚と口に出すことはなかった。何故かは上手く言えないが、そうした方が良いのだろうと思ったからだ。父は、私が海上から眺める花火を気に入っているのだと思い込んでいたし、その誤解を解く術も私にはなかった。日頃さほど私を構う父でもないのに、何故その習慣だけは頑なに守ってくれたのか。私には良くわからなかった。
 ずっと、人魚には会えなかった。当たり前だ、私が海に出たのは彼女との約束の日ではなかったのだから。
 約束を果たせぬまま、やがて私は大人になった。私は進学を期に地元を離れ、そのまま就職した。人魚との約束を忘れたわけではなかったが、もはや会いに行くつもりもなかった。
 あれは、やはり夢だったのだ。人魚など実在するはずがない。

 それから更に数年の月日が経った頃。突然、父が倒れたとの連絡があった。夏の暑い日であった。脳幹出血、という病名は私に聞き覚えのないものではあったが、母の切羽詰まった声にただならぬ気配を感じ、私は大急ぎで新幹線に飛び乗った。
 病院に駆けつけた私を待っていたのは、もはや二度と目を開くことも、口をきくことも、ましてや立って歩くことなどできるはずもない――数多くの機械に繋がれた父の姿であった。
 医師の説明は、正直よくわからなかった――わかったのは前述の点に関してと、今後の話が少し。脳の重要な部分を血の塊で押し潰されてしまった父は、何をどうやってももう元には戻らない。それではいつその命の灯火が尽きるのか――それもわからない。今日明日に急変するかもしれない。或いは、このまま多少は永らえるかもしれない。自力では呼吸ができないから、今のように管を口に通す代わり、喉に穴を開ける処置をして機械に繋ぐ。食事も取れないので、胃瘻をつけて流動食を流し込む。そうして、しばらくは生きることができるかもしれない――しばらくは。その話を聞いた時の正直な感想を、私はここに記すことはできない。薄情だと言われてもいい、ただ、ぞっとした。そうとしか言えなかった。
 憔悴した母を伴い、私は実家に帰った。いつ病院から電話があるかもしれない。疲れ切った様子の母を早々に寝かせて、私はひとり、父の書斎に入った。
 父の部屋に足を踏み入れたのは、幼い頃に忍び込んで激怒されて以来、初めてのことだった。卓上のライトをひとつ、点ける。机の上には新聞、週刊誌の類や、読んでいる途中だったのであろう話題の単行本など。私は父が本を読んでいる姿など、見たことがなかった。
 私はあまり――いや、ほとんど父について知らない。寡黙な人であった。仕事人間であった。私をボートに乗せて花火を見せに連れて行ってくれた。そして、唐突にもはや永遠に目覚めぬ人となった。
 私はふと、何の気なしに父のデスクの一番上の引き出しを開けた。領収書や書類などの紙が詰まっている、私は何かに誘われるようにその奥へと手を伸ばした。そこにあったのは、一枚の古びた新聞紙――ああ、なんということだろう。
 手が震える。口が渇く。
 何度見直しても、そこにあるのはやはり見覚えのある顔。記憶の中の、あの顔である。
 ――私は、あの人魚をそこに見出したのであった。

 父が倒れてから三日後が、ちょうど新月の日だった。今年の花火大会の日程は知らない、そんなものを気にしているどころでなかった。
 今のところ、父の容態は安定している。無論、いつ急変してもおかしくない状態にあるのは変わらない。会社には事情を話して有給を使う許可を得ているが、急なことでもあるから一週間が限度であろう。その時期を過ぎれば、後のことは母に託さざるを得ない。この数日で急激に小さく、か弱く見えるようになった、そしてひどく老けこんだ母に。
 その夜、私は母に一言断って実家を出た。いつかの岸壁に向かうと、そこにはかつてと変わらず貸ボート屋があった。船舶免許は、学生時代に取っている。単純にレジャーのためで、決して人魚に会うつもりなどではなかったのだが、こうしてみると案外そのためだったのかもしれない、とすら思う。
 書類を記入して、私は小型船に乗り込む。釣具も持たず独りで乗る私に店員は少し怪訝そうな顔をしたが、何も聞かれはしなかった。

 私は独り沖に出て、そして――ああ、ようやく。
 あの人魚と再会したのだった。

「ほんとう、待ちくたびれたわ」
 人魚はくすくすと笑いながら私を見上げている。その顔を、私はつい先日も見たばかりだった。
 父の書斎。古びた新聞紙。行方不明となった若い女性の記事――その日付は、多分あの花火大会のあった日の直後。記されていた勤め先は、父が退職まで勤め上げた、まさにその会社だった。
 私は水面に浮かぶ彼女の顔を見下ろしながら呟く。
「……君は、人魚なんかじゃない……そうだね?」
 あの夜、夢現で私が見たのは人魚ではなく――溺れゆく彼女の姿だったのではないか。もがく腕を、ばたつく脚を、私は見間違ったのではないか。或いは、あまりに恐ろしくて、記憶を書き換えてしまったのではないか。
 私は父の罪を――彼女を海に突き落とし殺したその罪を、人魚の夢の中へと葬り去ったのではないか。
「…………」
 人魚は笑みを消し、じっと私を見つめた。先程まで赤く色づいていたはずの唇は、今や白く強張っている。
 彼女は否定しない。ああ、私は一縷の望みをそこに持っていたのだ。そんなわけがないじゃない、貴方のお父さんなんて知らないわ――そう言ってはくれまいかと、私は願っていたのだった。
 だが、彼女の瞳は真っ直ぐに、私を見据えて動かない。
「……やはり」
 私は声を絞り出した。
「そうなんだね? 君を殺したのは、僕の父なんだろう?」
 詳しいことは私にはわからない。覚えていない。彼女と父がどういった関係にあったのかも、私にはわからない。知らない。
 ただ、想像することはできる――あの日、父は彼女を私とともに船に乗せ、沖合に連れ出した。そうして、私の目のないところで彼女をこの海へと突き落とし、殺した。
「…………」
 人魚は答えない。代わりに、別のことを言った。
「人魚は船乗りを攫うのよ」
 うっすらと微笑む口元。ぬるい風が、私の頬を撫でていった。
 白い手が、海面から私に伸びてくる。どこか生臭い、潮のにおいを連れて――。
「貴方はあの人に愛されている――あの人が何よりも失いたくないもの。だから、あの人は私を棄てた。邪魔になった私を殺した」
 ――だから、私は決めていたの。今度貴方に会えたなら、
「きっと、貴方を攫ってしまおうと」
 腕が伸びる――伸びて、私を掴まえようと、
「……父なら、今死にかけているよ」
 ぴくり、と白い腕が止まった。その長さは、もはや尋常な人のそれではない。
「なんですって?」
 人魚は硬い声で尋ねる。
「倒れたんだ。もう二度と目覚めない」
 私は微笑みすら浮かべ、愕然とした表情の人魚を見下ろした。
「うそ」
「嘘じゃない」
 私は船の上で跪き、その禍々しくもすらりと伸びた美しい白い腕に触れる。ひやりと冷たい、まるで陶器のような肌。その下には、きっと脈は打っていない。血も流れてはいない。
「だから、僕を攫っても父はそれを知ることはないよ……」
「…………」
「それでもどうしても僕を殺したいというのなら、それはそれで仕方がないけれど」
 父が君を殺したのだというのなら――そして他でもない君自身が、その罪を子である私に贖わせようというのなら。私は君を受け入れるに(やぶさ)かではない。

 何故なら――あの夜の君は、本当に人魚のようだったのだから。
 僕の初恋は、きっと君だった。
 だからこそ、僕は君を忘れることができなかったのだから。

 ああ、なんと滑稽な初恋だろう。
 
「…………」
 彼女はしばらくの間、じっと私を見上げていた――やがて、その視線がふいと逸れる。
「だったら、貴方を攫う意味はない」
 腕をゆっくりと引っ込めながら、ぽつりと彼女は呟いた。
「私が欲しいのは、貴方ではないから」
「…………」
 私は沈黙する。
 攫わないと、見逃してやると――殺さないでおくと言われたのに、不思議なほど気は晴れない。むしろ、胸がつきつきと痛む。
 それはきっと、私の奇妙で歪な初恋の、その死んでいく痛みだった。
「……もういい」
 彼女はもはや目をあげようともしない。
「もう、いい」
 水面を揺らして、彼女は私に背中を向ける。華奢な、小さな背中であった。腰から足に掛けて生え揃った鱗が、ぬらぬらと艶めかしく煌めいている。
 私は、海底へと沈みゆく彼女の後ろ姿に――ああ、私は確かにこの光景を過去に見た――声を掛けた。
「もし父が欲しいなら」
 それは、私の勝手な願い。
「連れて行くといい!」
 ――その生命も、魂も。君の好きにすればいい。
 父はもはやこの世にその意識を持たぬ。それならば、もし人魚が父を憎んでいるのなら、恨んでいるのなら、それでいて欲しいのは私などではなく父だというのなら――。
 人魚は振り向かぬままにぽつりと言った。その口元は、たしかに微笑っていた。
「……人魚の肉を食ったものは、死ねないのよ」
 その一言を残して人魚はとぷんと沈み、そして二度と浮き上がってくることはなかった。
 ――きっと、これが人魚との別れだ。
 ボートの上に取り残された私は、少しだけ、泣いた。何のための涙なのか、誰のための涙なのか。私にはもはやわからない。
 蹲る私を照らし出すように、花火が咲く。人魚はそれを見上げただろうか……どうだろう。彼女が人魚となったあの日と同じように、彼女は水面から花火を見上げただろうか。もはや、私には知る由もないことであった。

 古い水死体があがった、と大騒ぎになったのはその数日後のことである。身元が明らかになるには更にしばらくの時間が掛かって――その頃には、既に私は地元を離れていた。
 その遺体の素性が分かっても、もはやそれと私の父とが結びつくことはなかった。私はあの海を後にして、素知らぬ顔で日常へと帰っていったのだ。

 あの海に、もう人魚はいないだろう。
 あの美しい人魚と、私はもう二度と会えないのだろう。

 父はまだ生きている。
 機械に繋がれ、身体に数カ所も穴を開けて、しかし一度たりとも目を開けることはなく――
 母の死を知ることもなく、私の老いも知ることなく。
 父はまだ、生きている。