七日間の幽霊
目が覚めて、私はがっかりした。目にうつったのは白い天井とシンプルなシーリングライト。ため息交じりのつぶやきがこぼれた。
「天国か地獄か知らないけど、平凡なところね……」
「うるさい、平凡で悪かったな」
「……はっ?!」
間髪入れず返ってきた声に、私は驚いて身をすくめた。誰だ。神様か。天使様か。閻魔様か。
「おい。起きたんならどいてくれ」
「きゃあ!!」
ずいと目の前に現れた顔に、私は悲鳴を上げた。
「きゃあじゃねえよ」
若い男。そいつは私を見下ろしたままため息をついた。
「ったく、ようやく目を覚ましたと思ったら人の部屋にケチつけるわ、人の顔を見て叫ぶわ、どういう……」
「ご、ごめんなさい」
どうやら、私は彼のベッドを占領していたらしい。私は慌てて起き上がった。同時にいろいろなことを――目が覚める前に自分のしたことを、思い出した。
簡単に言おう。私は死んだ。自殺、した。
それなのに、今私は天国でも地獄でもない、どう見てもアパートの一室でしかない場所にいる。つまりそれが意味するところといえば、
「私、成仏し損なったのね」
「はあ?!」
「幽霊になったのかしら」
「…………」
男はぽかんと私を見ていた。それにしても私は何故こんな、知らない男の部屋に憑りついてしまったのか。
とりあえず、両手の甲を胸の前でだらりとぶら下げる。
「うらめしや?」
「全然怖くない」
男はまた、ため息をついた。
「……で。これからどうするんだ、お前」
私は彼から目をそらした。
「出て行く。別に貴方に恨みはないし」
生前の私と彼には面識はない。本当に、どうしてこんなところに。
ベッドから降りた私はできるだけ部屋の隅の方に身を寄せ、膝を抱えて座った。私が身にまとうのは白い死装束――ではなくて、白いシンプルなワンピース。そこから伸びる私の手足も、何だか妙に白かった。足元に、影はない。ああ、私は幽霊なんだな、と実感した。
男は私をまじまじと見つめてくる。どうやら幽霊を怖がる人種ではないらしいが、その真っ直ぐな視線は、自ら命を絶つような真似をした私を責めているように思えた。彼にはきっと、そんなつもりはないのだろうけれど。
私はぼそぼそと言い訳をした。
「迷惑掛けるつもりはないの。ごめんなさい」
「なんで……」
「え?」
彼がぽつりとつぶやいた言葉が聞こえなくて、私は聞き返した。男は首を横に振る。
「何でもない」
「…………」
さっさとこの部屋を出ていかなくてはならないと思うのに、私はただじっとうずくまっている。
ここを出てどうするというのだ。幽霊になった私に行くあてなどない。一瞬自分の葬式でも見に行こうかと思ったが、そんなもの見ても仕方がない。家族は泣いているだろうか。怒っているだろうか。でも、今の私にはもうどうしようない。だってもう、私は幽霊だから。
先ほど彼に恨みはないと言ったが、他に恨みを晴らしたい相手がいるというわけでもない。いや、死ぬ前にはどうしようもないくらいに憎い相手がいたのだが――確かにいたはずなのだが、今となってはもうどうでも良かった。だって、私は死んだのだ。恨みを晴らしたとして、何かが変わるわけではない。万が一同じように死なれて、こちら側の世界に来てはたまらない。
それなら私はなぜ死んだのか。死にたかったのか。もう、よくわからなかった。今更わかる必要もないのかもしれない。とにかく、この世にいたくなかったのだろう。それは間違いない。それなのに、私は幽霊になってこの世に留まっている……。
「なあ」
沈黙を破ったのは、男だった。
「なに?」
「名前は?」
「か……柏木、真里」
何となく聞き返さなければならないような気がして、私も彼に尋ねた。
「貴方は?」
「田中勇樹」
「そう」
勇樹はふらりと立ちあがり、私を見下ろした。
「俺は飯食うけど、お前は?」
「幽霊はご飯食べないんじゃない?」
「腹減ってないか?」
「うん。減ってない」
私は自分のお腹に手を当ててつぶやいた。きっと、二度とお腹が空くことはないだろう。そんな気がした。
「そうか」
勇樹は少しだけ笑った。その表情はどこか、悲しげに見えた。
「お前、金掛からないな」
「そりゃあ……」
幽霊ですから?
勇樹は部屋の隅に積み上げられたカップ麺のひとつを手に取った。きっとあれが彼の主食なのだろう。体に良くなさそうだ。
「……あんまり気にすんな」
背中を向け、彼は言う。
「お前が幽霊だか何だか知らないが、あてがないなら無理して出て行かなくてもいいだろ。別に、俺はお前がいたって構わない。俺が留守の間もうちにいていいし……あ、けど、あんまりあちこち触るなよ」
「幽霊だからたぶん触れないわ」
「…………」
彼は呆れたような、からかうような、いたずらっ子のような顔をして私を見つめる。なんだかどきりとした。
「そうか。じゃあエロ本見つけられる心配はないな」
「そうね」
冗談めかした口調に、私はくすりと笑った。ああ、私まだ笑えるんだ。なんだか不思議な感じがした。
こうして、私と勇樹の奇妙な同居生活が始まった。
勇樹の生活はひどくシンプルだった。外出先は大学かバイトのどちらか。彼女はたぶん、いない。少なくとも、私の見る限りいるような気配はしなかった。まあ、幽霊のいる部屋に彼女を連れてくる気はしないのだろうけれど。
彼は無口で、私たちの間にはそれほど会話があるわけではなかった。でも、私の今までのあれこれについて根掘り葉掘り聞かれるよりはずっといい。
むしろ、二人でいる空間はなぜか妙に心地良かった。知り合って間もないのに不思議だけれど、もしかしたらこれがうまが合う、というやつなのかもしれない。部屋に時計の音が響いても気にならないのは、初めてのことだ。彼の読む漫画雑誌を後ろからそっと覗き込んでみたり、並んでテレビを見たり――そういう時、彼はうまく私を無視してくれた。それでいて、私が話し掛ければいつだって返事をしてくれるのだ。
私が来て三日目くらいから、勇樹は出かける時にテレビをつけていってくれるようになった。彼は何も言わないけれど、きっとそれは私が退屈しないように気遣ってくれたのだと思う。チャンネルを変えられないのは、それはもう仕方がない。それでも勇樹は、わざわざネットでテレビ欄を検索してくれて、今日はどのチャンネル? って聞いてくれる。優しいのねってつぶやいたら、勇樹は照れくさそうに顔をゆがめてそっぽを向いた。
本当に、彼はいい人だった。変な言い方だけれど、私は彼の部屋に憑りつくことができて良かったと思っている。もちろん、彼がどう思っているのかはわからないし、そもそも幽霊に憑りつかれて嬉しいひとなんて、いるはずがない。迷惑をかけているとはわかっていても、それでも私は彼の部屋に居座り続けた。――成仏する方法なんて、わからなかったから。
そして――私が幽霊になってから、七日が経った。
深夜になってからひどい雨が降り出してきて、傘を持たずにバイトに出かけた勇樹が心配だった。でも、幽霊の私は迎えには行けない。
やがて鍵を開ける音がして、彼が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
当たり前のように挨拶する彼の声に、私も当たり前のように答えた。この七日間、いつ消えるともしれない私に、彼は律儀に毎日こうして挨拶してくれて、私も返事をしている。
「べっしょべしょになった」
勇樹は濡れたTシャツを脱いで新しいものに着替え、タオルで髪を乱暴に拭った。
私はベッドの上で膝を抱えている。そこが私の定位置で、勇樹が寝る時は私はそこを離れて部屋を漂うのだった。食事も睡眠も、今の私には必要ない。
私は言い訳がましく口を開いた。
「雨、気付いてたんだけど……ごめんなさい、洗濯物取り込めなくて」
「ああ、うん。わかってる」
勇樹はそう言うが、私はため息を押し殺した。だが、私の落胆に彼はちゃんと気が付いてしまったらしい。
「仕方がないだろ、そんな顔するなって」
ぶっきらぼうな言葉のうちに潜む優しさに、余計に胸が痛んだ。何故、私は成仏できないのだろうか。こんなところにだらだらと留まって。
雨のせいだろうか、心が塞いだ。
――雨音が、この水槽のような小さな部屋を満たしていく。
「真里」
不意に名を呼ばれ、私は顔を上げた。勇樹はひどく真面目な顔で、私を見ていた。
「何?」
「実はさ……俺、お前のこと知ってるんだ」
「え?」
突然の言葉に、私は驚いて彼を見つめる。すると、勇樹は決まり悪げに眼をそらした。
「な、なんで?!」
「○○大学に通ってただろ? 俺もそこ。たぶん学部か学年は違うだろうけど。ひとつ講義がかぶってた」
「うそ、本当?」
「ああ」
そう言って彼が口にした授業は、確かに私も受講していたものだった。ただし大講堂で行われていたものだったから、百人単位で受講者がいたはずだ。
「まあ、見かけただけ、なんだけどな。名前も知らなかったし」
「よく覚えてるわね」
「うん……まあ」
勇樹の顔が赤い。熱でもあるのだろうか。私は眉をひそめる。
「大丈夫? 風邪引いた?」
「いや」
彼は首を横に振り、私の隣に座った。こんなに近くに座るのは、初めてのことだった。肩が触れそうな距離。でも、決して触れることはない。
「あの時、俺が声を掛けてたら」
勇樹はつぶやいた。
「真里は、死なないでいてくれたかな……?」
「え……」
勇樹は顔を上げる。深い瞳。でも、そこに私は映らない。今の私は鏡にも映らない。
勇樹は、私が透けそうなくらい真っ白な顔をしているという。でも、私のその色を見ることができるのは彼だけだ。一度この部屋を宅配業者が訪れたけど、私の存在には気付かなかった。
「ゆうき」
私は彼の名を呼び、そして気付く。私の心を重くするものの正体。これは、後悔だ。私が死んだことへの、幽霊になったことへの、後悔。
どうしてこんな、今更。今更、この場所が好きになってしまった、なんて。
私は深くうなだれた。ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「私がもし幽霊じゃなかったら……勇樹の洗濯物、取り込めたのに……」
「ん?」
聞き返されても、私は顔を上げなかった。上げられなかった。
「勇樹、いつもカップ麺ばっかり食べて……私、ちょっとしたごはんなら作れるのに……」
幽霊が泣くなんて馬鹿みたい。情けない。そう思うのに。
「作って……あげたか……っ」
「真里?」
勇樹の手が私に向かって伸びる。涙を拭いてくれようとしている? でも、その手が私に触れることはない。それはできない。
行き場を失った彼の手がベッドに落ちた。うなだれる勇樹。顔を、あげてほしい。
「勇樹」
私は彼の名を呼び、手を伸ばす。白い指先が、彼の頭をすり抜けた。
背筋が凍る。
――ああ、だめだ。
不意に気付いた。私は勇樹の側にいるべきじゃない。ここにいたら、彼を苦しめるだけ。悲しませるだけ。ここにいてはいけない。
「私、行かなくちゃ」
「え?」
勇樹がぽかんと私を見上げる。
「なんだよ、いきなり」
「だって私は幽霊だもん。迷惑だよ」
「迷惑なんかじゃない!」
「ここにいたら、勇樹が彼女を連れて来られないでしょ」
私は無理やりに笑ってみせた。うまく笑えているだろうか。
勇樹の顔が歪んだ。
「なんで、そんな」
「勇樹」
「俺がいいって言ってんだよ。ここにいろよ!」
その言葉が、ものすごく嬉しかった。本当に嬉しくて、だからこそ。私は立ち上がった。
「ありがとう。それから」
――さよなら。
「真里!」
私はふわりと宙を舞う。翻る白いワンピース。窓をすり抜け、ベランダを抜けて――白い私は、少しも雨に濡れなかった。
「まり! 待てって!」
振り返ると、アパートの階段を駆け下りる勇樹の姿が見えた。外に飛び出し、私を追ってくる。ああ、また濡れてしまう。私は舞い戻りたい衝動に駆られ、それでも必死に抑えて夜を見据えた。
ありがとう、勇樹。うぬぼれかもしれないけれど、きっと、貴方は生前の私を見ていてくれたんだよね。そのことに、私は今更気付いたの。少し遅すぎたけれど、でも嬉しかった。ありがとう。
ありがとう。
それから、
ごめんなさい。
白い私は、黒い夜に溶けたいと願って――。
「?!」
響き渡るけたたましいクラクション、鈍い音。
嫌な予感がして、私は地上を見下ろした。走り去る車の影。彼の姿を捜す。
「ゆうき……?」
私の目が、それを捕らえた。黒いアスファルトの上。横たわり、微動だにしない。
「ゆうき?!」
私は慌てて道路の上に降りた。勇樹。勇樹が怪我をした……?!
抱き起こそうとした私の手は、しかし彼をすり抜けた。私にはどうすることもできない。深夜、周囲に人影はない。
「誰か!」
私の声は誰にも聞こえない。聞こえるはずがない。聞いてくれたのは勇樹だけ。でもその勇樹は今、目を閉じている。青白い顔。紫色の唇。彼の色を、熱を、夜が――雨が奪っていく。
私は叫んだ。
「目を開けて、勇樹。勇樹!」
私は祈った。
「誰か、助けて!」
雨が勇樹を濡らす。まるで、涙のよう。
「ゆうき、ゆうき……!」
泣いて、泣いて、泣いて。
そして、雨が。
黒い夜が、押し寄せた。
*
気が付くとそこは病院で、おふくろと親父が呆れたような、そうでいながらほっとしたような表情で俺を見つめていた。
「真夜中にふらふら出歩くんじゃない」
「とにかく、たいした怪我がなくて良かったわ」
「……ごめん」
俺は辺りを見回し、白い彼女を捜した。いない。本当にあいつは幽霊だったのか。今はもうどこにもいないのか。――成仏、しちまったのか。
ちくしょう。俺は目を閉じる。ちくしょう!
「気付いてくれた人がいてよかったわね。あの道、人通り少ないらしいじゃない」
おふくろの声が細かく震えている。
「女の声がしたらしいが、心当たりはあるか? 勇樹」
親父の言葉に、俺ははっと目を開けた。
「女の?」
「ああ。『ゆうき』と、お前の名前を呼ぶ女の声がしたんだと。救急隊や警察も辺りを探したが、それらしい女性は見当たらなかったらしい」
親父の説明を聞きながら、俺は息を飲んだ。もしかして……。
「お前、誰かと一緒だったのか?」
俺の顔色が変わったからだろう。不思議そうに尋ねる親父に、俺は首を横に振った。
「……いや」
真里。お前が、俺を助けてくれたのか。
ばか。そんなことよりも大事なことがあるだろうが。
俺は透けるように白い、それでいてあまりにもリアルにそこに存在た幽霊を想って、泣いた。
退院は三日後。心配するおふくろを断り、俺は一人であのアパートに戻った。
引っ越そう。俺はそう心に決めていた。
あいつは何も遺さなかったけれど、あの部屋にはあいつの残像が残っているだろう。あいつの座ったベッド、あいつが眺めていた窓、あいつが歩いた床。白く彩られた思い出。たった七日の、大切な記憶。
もっと早く――彼女が生きている間に声を掛けていたら。彼女を呼び止めていたら。悔やんでも悔やみきれない。もう、遅い。すべてが遅すぎた……。
「あれ?」
鍵穴に鍵を差し込み、気付く。三日前、俺は部屋の鍵を掛け忘れていたらしい。俺は舌打ちをした。荒らされていても文句は言えないな――そう思いながら、ドアを開ける。
「おかえりなさい」
俺の手からビニル袋が滑り落ちた。部屋の中から現れたのは、
「ま、り?」
「うん」
窓から差し込む光を背負って、彼女はまぶしいくらいに色づいて見えた。
「な、なんで? お前」
俺は真里に近付き、その肩に触れる。触れ、ら、れる。
真里ははにかんだように笑った。頬がほんのりと赤い。
「私、死んでなかったの」
「え?」
「入院していたんだけど、記憶喪失だったんだって。三日前のあの夜、気が付いたら病室にいて……お医者さんは記憶が戻ったんだね、って」
彼女も今日退院したところで、おぼろげな記憶を頼りにこのアパートに来たのだという。
俺は混乱した。そもそも、真里は死んでいなかった。自殺未遂だった。ただ、何らかのショックで記憶を失って、入院していただけ――つまりあの真里は、幽霊ではなかった? おれが触れたくても触れられなかった、あの真里が?
「じゃ、じゃあ、あの時の真里は一体何だったんだ?」
「幽霊じゃなくって……何ていうのかな?」
体を残して魂があの部屋にやってきて、魂が体に戻ったら記憶も戻ったと、そういうことなのだろうか。
真里も自分に何が起こったのか、まだよくわかっていないのだろう。小さく首を傾げている。でも、もうそんなこと、どうだっていい。
真里は今、ここにいる。生きている。
「真里」
俺は力いっぱい彼女を抱きしめた。
「帰ってきてくれて、ありがとう」
真里は顔を俺の肩に埋め、首を左右に振った。
「違う。私がばかだった。ごめんなさい……私のせいで、勇樹が怪我した」
「じゃあ」
俺は一度真里を離し、額を合わせてじっと目を覗き込んだ。あの時は透けるように白かった頬が、今は真っ赤だ。それはきっと、俺も同じだろう。
「お前がもう二度とばかなことしないように、見張ってやる」
「…………」
真里は目を瞬き、そして微笑んだ。
「うん」
色を取り戻した彼女は、初めて見かけたときよりもずっと鮮やかだった。
「おかえり」
俺が言う。彼女が答える。
「ただいま」
俺たちの足元には黒い影がふたつ、長く伸びていた。