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モルフェウスの微笑

 信じなくてもいいのよ、先生。
 ――彼女はそう言って微笑んだ。彼女が呼吸をやめる、それはそうして彼女を苛み続けた病魔から解放される、ほんの少し前のことだった。
 なんのことでしょう、と尋ねる彼に、彼女はまるでいたずらっこのように声を立てて笑う。頬は白く、こけている。鼻の下には酸素を吐き出す管、そして下瞼には消えることのない隈が浮いていた。
「今から、あたしのする話よ」
「…………」
 言葉を切り、荒い息をつく。細い指に取り付けられたモニターは、92という数字を示していた。良くはない、と彼は内心で眉をひそめる。
 どうやら、彼女は彼に何か話を聞いて欲しがっている。今日が休日なのは、きっと偶然ではない。日頃多忙な彼が彼女に少しばかり長く時間を割いてくれるとすれば今日だ、と判断したのだろう。
 彼女は頭のいいひとだった。――否、頭のいいひとなのだった。
 彼女は息を整え、ゆっくりと口を開いた。
「今日から始まるお薬。息苦しさを和らげてくれるんですってね?」
「ええ」
 彼の返答を聞いて、彼女は微笑んだ。透けるような笑みだった。
「うれしい。最近、少し話をしたり動いたりするだけで、とても息が苦しくなるの」
 ――その症状が彼女の三年に渡る闘病生活に終止符を打つものになるであろうという見立ては、彼女本人に伝えないでほしいと、彼は家族に強く望まれていた。
 彼女は今年四十二歳になる。――なるはず、だった。病気がわかって、最初の手術を受けたのは三十九歳になる少し前のこと。そして、きっと今年の誕生日を迎える頃、彼女は……。
 実のところ、彼は未だに彼女が発病した年齢よりも年下なのだった。
「せんせ?」
 彼女は黙り込んだ彼の顔を覗き込み、首を傾げた。彼は慌てて穏やかな笑みを浮かべる。悟られてはいけない。それが彼女の老いた両親の願いなのだから。
 彼女は未婚である。結構仕事を頑張っていたのよ、とあるとき彼女はそう言っていた。その通りなのだろう、今も時々かつての職場の仲間たちが彼女の病室を訪れ、その窓際を花で飾っていく。
「それで……、お話とは?」
「先生は、モルフェウスって知ってる?」
 突然のカタカナに、彼は首を横に振った。
「いや、知らない」
 その響きはギリシア神話の神々を想起させるものだったが、実際のところそれがどういったものなのかは彼にはさっぱりだった。
「そう」
 彼女は彼が知らないことに満足したかのようにくすくすと笑った。
「先生が今日から私に使おうとしているお薬は、その神様の名前からとったものなのにね」
「……ああ、そうなんだ」
 彼は内心の動揺を悟られぬように気を付けながら、うなずいた。
 ――塩酸モルヒネ。
 なるほど、モルヒネとはモルフェウスから取られたものであったか。
 モルヒネは医療用麻薬の一種である。疼痛緩和、呼吸苦の軽減などに主に使用される。モルヒネの使用イコール末期癌というわけではないのだが(特に経口剤の場合は)、静注薬は実際のところ彼女のような癌末期の患者に使用されることが大半であった。
「モルフェウスは夢の神様なんだって。何だかロマンチックですよね」
「……そうですね」
 彼は同意する。彼女はそんな彼の顔を奇妙な無表情に眺めていたが、やがてすい、と目を逸らした。窓の外には夏のまぶしい日差しが降り注いでいるが、病室の中は人工的な、ややひんやりとした温度に包まれていた。空気は、乾いている。
 彼女は目を伏せた。
「あたしねえ、先生。もう三年になるかしら。この病院に通うようになって……」
 手術は三回。抗癌剤はもう数えきれないほど。彼女はまるで歌うようにそう言った。あたしのお腹の中、随分なくなったわよね。撫でる手の下の傷は、彼がつけたものだ。彼の奮うメスが彼女の皮膚を切り裂いてきたのだ。治療のためだといってところで、それは確かな事実だった。
 彼は何度彼女を傷つけただろう。病名を告げた時、再発を告げる時、抗癌剤が効いていないと告げた時、病状を説明するたびに彼のメスはきっと彼女の心に消えることのない傷跡をつけてきたに違いない。それでも彼女は必ず笑顔を浮かべ、彼の話に耳を傾けてきたのだった。――今もそうだ。彼女はその傷跡の存在をちらりとも伺わせなかった。少し弾んだような声で、言葉を継ぐ。
「もともと接客業だったからかな。お友達もたくさんできたのよ。ほら、先生の患者さんの――」
 彼女のあげる名前は、どれも彼にとっては聞き覚えのあるものだった。その中には今も自分の外来に通ってきている者もいる。一方で、既に鬼籍に入ってしまった名前もあった。彼にとっては懐かしく、その一方で古い傷痕を尖った爪でなぞられるような痛みをもたらす名前を羅列したあと、彼女は細く長く、息を吐いた。
「あの人たちのところにも、夢の神様は来ていたわね」
 ぽつり、とつぶやかれた言葉。その言葉に、彼は戦慄した。――やはり、彼女は察している。自分に間もなく訪れる運命を、彼女は正確に知っている。モルフェウスが何をもたらすのか、彼女はちゃんと知っているのだ!
「お忙しいのにごめんなさいね、先生」
 彼女はにこりと笑う。その笑顔は、以前と少しも変わらない。彼はゆるく首を横に振った。
「別に、構わないけれど」
「そう? でも、別にたいした話じゃないの。すぐ終わるから」
 彼女はそう言い、再び彼から目を逸らした。唇だけは笑みの形に刻まれている。その唇は、少し前から赤みを失っていた。
「あたし、先生に謝りたいの」
「え?」
 意外な言葉に、彼は聞き返す。彼女は困ったように眉を下げた。
「あたしたち患者はね、先生が思っているよりずっといろいろなことがわかっているのよ。でも、わかりたくないから――わからないふりをしているの。わからないままでいたいって、そのほうが家族も安心するしね、そうでしょう? だからね、そう、気付かないふり」
 自分の体のことだもの、自分が一番よくわかるのよ――特にそう、悪いことはね。
「…………」
 彼は絶句する。
 彼女は本当に淡々と、静かに言葉を紡いでいった。
「でもねえ、やっぱり怖いの。『そのとき』が来るのが、たまらなく怖いのよ」
 三年の時をかけて、ゆっくりと覚悟を決めてきたつもりでも、それでも――死は未知だ。そうして、死は死であって、その先には何もないのである。未来がない、ということ。時間が尽きる、ということ。自分がもうすぐこの世から消えてしまう、ということ。それは、たとえようもなく、そしてどうしたって逃げ場のない、言うならばただ純粋な恐怖なのだった。
「…………」
 夏の昼下がり。窓から差し込む太陽は、無遠慮に彼らを照らし出している。彼は額に冷たい汗が浮かぶのを感じた。もっと、ここには影が必要だ。彼女の表情を隠すために、いや、おれの表情を彼女から、どうか――。
「だから……あたしたちねえ、約束したのよ」
 「あたしたち」――誰との約束なのか、彼女は言わなかった。
 薬で眠り続けるだけの状態になってしまったら、ただ力尽きるのを待つだけとなってしまったら、その時は。
「その時は――」
「失礼しまあす」
 明るい声が、その場の空気を割いた。振り向くと、病棟の看護師が薬の――モルフェウスの名を冠する薬の準備をして立っていた。微量ずつ持続静脈注射するための機械を携えている。彼女の視線が鋭くそこに向くのを、彼は見逃さなかった。
「お薬準備できましたから、つなぎますね」
「お願いします」
 彼女は丁寧に頭を下げる。点滴台に機械を取り付けながら、看護師が言う。
「お話の途中でした? ごめんなさいね」
「いいえ? もう終わりました。ね、先生」
「え? ……ええ……」
 実際のところ、終わったのかどうなのか、彼にはよくわからなかった。ただ、彼女は話を終わらせたいのだ。そのことを彼に知らせようとしているのは間違いない。彼は引き下がることにした。――今はこれ以上ここに留まりたくない。強くそう思った。
 簡単な別れの挨拶をかわし、病室を出る――その時。
「あら、よく知ってるのね、この機械の使い方」
 看護師の声が背中から聞こえて、彼は少しだけ足を止めた。
 ――あたしたち、約束したの。
「ええ、よく知ってるわよ。だてに病院生活長くないもの」
 何度か看護師さんたちが使っているのを見れば、すぐに使えるようになるわ。
 彼女の少し掠れた笑い声と、そのあとに続く乾いた咳。扉の閉まる音が、それらを断ち切った。

 休日の病棟の廊下にひとけはない。
 彼は足早に歩いた。
 
 モルフェウスは夢の神。
 神のもたらす、覚めることのない夢。それならば、その神はさながら死神のようでもあって。
 死神が、顔をあげる。
 そして、
 彼女と同じ顔で、わらった。

「――まさかな」
 彼はつぶやく。足元から這い登る冷気に、体を震わせた。
「まさか、」
 モルヒネの静注速度を一時的に速めれば、呼吸は止まる――おだやかに、止まる。苦痛もなく。静かに。眠るように。
 そんなことが? 可能? まさか! あり得ない! あり得ない――あり得てはならない――

 彼はふと、立ち止まった。振り返る。
 ――彼女の部屋の扉が、ちょうど閉まる。誰かが入ったところだ。
 誰、が?
 彼は引き返さなかった。