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ミスター・ダンディ

「マスター、お代わり」
「はいはい」
 オレの父親より少し若いくらいのマスターは、いつも通りの笑顔でコーヒーをついでくれた。蝶ネクタイに黒ベスト。寂れた喫茶店のマスターというよりは、バーテンダーといった方がしっくりきそうな容貌だ。
「精が出ますね。ミスター・アルドリッチ」
 コーヒーをつぎ終えた彼は、多分この店唯一の常連であるオレに親しげに声を掛けた。
「明日テストなんですよ」
「お若いのに真面目だ」
「いやいや、ふだん真面目じゃないから今苦労してるわけで」
 マスターはくすりと笑ってオレの側から離れていった。足音は控えめで、やはり彼のすべてがダンディズムを具現化している。

 だから、オレは密かに彼をこう呼ぶ──ミスター・ダンディと。

 オレがこの喫茶店をねじろにしている理由はお代わり自由のコーヒーだ。何時間粘っても、何杯飲んでもマスターはいやな顔ひとつしない。……しかし採算は取れているのだろうか。たまに不安になる。
「マスター」
「はい」
「マフィンひとつ」
「はいはい」
 つい腹も減らないのに頼んでしまった──これもいつものこと。……案外大丈夫なのかもしれない。
 こじんまりした狭い店内。明るさもちょうどよくて、インテリアは清潔でシック。本当に居心地がいい。なぜいつも客がほとんどいないのか、世の中解せないことが多いものだ。
 しかもオレ以外の客と来たら、本当に風変わりなやつらばかり。そして今日の客も──だいぶおかしかった。
「ねー、金なら出すって言ってるじゃない……」
 カウンタの方から、ぐずぐずとした声が聞こえて来る。
 派手な女だ。赤い、まるでドレスのようなワンピースは着崩れ、ショールで何とか保っているというところ。長い茶髪も傷んでボサボサになっている。顔は突っ伏しているせいでよく見えない。まあ美人なら風情もあるが、そうでなかったら……オレは考えるのをやめた。夢は無闇に壊さない方がいい。
 マスターは丁寧に、しかし断固とした口調で答える。
「うちは喫茶店ですよ」
「……まだ、シラ切るってのぉ……?」
 昼間から酔っているのだろうか。当人は不幸なつもりかもしれないが、ある意味幸せな人だと思う。
「シラを切るも何も」
 マスターがマフィンを運んできた。またこのお手製マフィンがうまいのだ。ただし、オレ以外の客が食っているのを見たことはない。
 少なくとも、その女はマフィンに興味はなさそうだった。コーヒーすらオーダーしていない。
「ねえ、本当にさあ……あいつがいる限り、アタシ幸せになんかなれないのよぅ……」
「コーヒーなら奢りますから、元気を出して」
 マスターのありがたい申し出にも、女は怒りの声を上げただけだった。
「コーヒーなんて要らないわ!!」
 ──ここは喫茶店なのだが。
「今日は帰りなさい。ね?」
「せっかく……せっかく見つけ……金……貯めて……ころ」
「はいはいはいはい」
 マスターは女を遮り、よいしょと立たせた。
「車を呼びますか?」
「うん……いや、要らない……」
 マスターに支えられ、彼女は足を引きずりながら店の出口に近付く。
 ──不意に、彼女の羽織るショールが肩から滑った。むき出しになる白い肌。点々と散る痣とヤケドの痕。オレは思わず目を背ける。……なんてこった。
 憶測だけど、あれは男にやられたんだろう。女に手をあげるとは最低な野郎だ。女も男が寝ている隙に急所を踏んづけるくらいしてやればいい。せっかくのヒールを有効活用しないでどうする。オレなんか想像しただけで卒倒できるぞ。
「あなたの名前は?」
 マスターが低い声で尋ねた。
「ヘンリエッタ」
 女の手にメモを握らせる。
「あんた、まさか……!」
 死体のようにぐったりしていた女──ヘンリエッタは急に生色を取り戻した。そんな彼女を、マスターは半ば強引に送り出す。彼女は最後にくるりと振り向いた。泣きはらしたような顔……だが、彼女は美しい。
「ありがとう──ミスター・ダンディ」
 ──あんたもかヘンリエッタ。オレが頭の中でつけたのと同じあだなに、オレは思わず吹き出した。

 マスターはやれやれといった表情で戻ってきた。
「大変そうですね、彼女」
「他人に気を取られていると、明日の試験に差し障りますよ」
 おっしゃるとおり。
 オレはノートに目を落とす。だが頭の中は別のことで占められていた。

 採算のとれない喫茶店。
 ミスター・ダンディ。
 ヘンリエッタ。

 ひとつの物語が浮かんだ。──殺し屋が現役を引退して道楽の喫茶店を始めた。しかし依頼人たちは噂を聞きつけやってくる。元殺し屋は知らないふり、しかし事情によっては……。

「ミスター・アルドリッチ?」
 オレははっと顔を上げた。マスターが不思議そうにオレを見ている。どうやらコーヒーのお代わりがいるかどうかを聞きに来たらしい。もちろんお願いした。

 ミスター・ダンディ。

 彼の正体が何だってかまうものか。美味しいコーヒーはお代わりし放題。お手製マフィンも言うことなし。十分だ。
 コーヒーを注ぎ終えたマスターが、ふと顔を上げた。目が合う。

「──これからも、どうぞご贔屓に」