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ナツ恋。

 少しも変わっていない、なんて言えなかった。
 僕の記憶の抜け殻を脱ぎ捨てようとするかのように、彼女はゆるく頭を振って髪をなびかせる。振り向いたその顔は眼鏡をかけていないことを除けばやっぱり彼女で、だけどやはり十年の歳月が僕らの間にはあった。
 彼女が目を見開いて、僕の名を呼ぶ。僕の名を覚えていてくれたことが、とても嬉しかった。
 ――二十八歳の僕らが再会したのは、入道雲の広がる空の下。灼けるような真夏の日差しが、僕らを頭上から照らしていた。

 彼女とは、小学校から高校まで同じ地元の公立校に通っていた。彼女だけではなく、地元の者はほとんどが同じ学校の出身者だ。十二年のうちには何度か彼女と同じクラスになったこともあるが、別にさほど親しかったというわけではない。特に思春期特有のある時期に差し掛かってからは、僕は彼女を少し避けるようになっていた。彼女の姿をいつもどこか目で追っていたのにも関わらず、だ。何故彼女を僕が気にしていたのか、それはよくわからない。たぶん、大したきっかけがあったわけですらないだろう。彼女のぱっちりとした瞳が僕の目を引いたとか、明るい笑顔が眩しかったとか、その程度の理由なのだと思う。正直な話、僕は彼女のことを今の今まで忘れていた。
 高校を出ると同時に、同級生は皆それぞれの進路に分かれた。両親が公務員で、自身の成績も中庸だった僕は、地元の公立大学に進学した。卒業と同時に家業を継いだ者も、それなりの割合でいた。僕と同じように地元の大学に進んだ者も多かった。都会の大学へと出て行ったのは、圧倒的に少数だった。そしてその中に――彼女もいた。
「久しぶり」
 彼女は真っ直ぐに僕の方に歩み寄ってくる。僕は少し、驚いた。彼女と会話するなんて、何年ぶりのことだろう。
「……うん」
 僕は短くうなずく。
「こっちに帰ってくるの、何年ぶりかな。いろいろと変わっていて、驚いちゃった」
 足元に視線を落とすと、彼女の赤いサンダルが目に入った。爪先には赤い――なんていうんだったっけ、足はマニキュアとは言わないんだと、以前付き合っていた恋人が教えてくれたのだけど、僕はもうすっかりその呼び名を忘れてしまっていた。
「今は、」
「うん。東京」
 あのままあっちで就職したの、と彼女は笑った。先ほどから、彼女は良く笑う。こんなに良く笑う人だっけ、と僕は思った。そもそも、そんなに僕は彼女のことを知らないのだけれど。
「ずっとこっちにいたの?」
「うん。……教師になったんだ。中学の」
 僕らの通っていたあの中学で、僕は今生徒に社会を教えている。
「へえ、そうなの」
 彼女は言って、くるりと辺りを見渡した。
「明日、お祭りなんだ?」
 舗装された細い道路の脇には、咲き誇る向日葵と、祭りを報せるのぼり。
「そうだよ。花火大会があるんだ」
「行きたいな」
 彼女はつぶやいて、やがてじっと僕を見た。
「うん?」
 彼女の意図がわからなくて、僕はただ彼女を見返す。視線の先の彼女は、屈託なく微笑んでいた。綺麗になったな、と僕はぼんやりと思う。垢抜けた、というのだろうか。日に焼けていない、白い肌。少しだけ明るい色に染められた、長い髪。記憶の中の彼女までもが、少しずつ輝きを増していくようだった。
 彼女は僕の目を覗き込むようにして、言った。
「明日、誰かと約束している?」
「……別に、そういうのはないけど」
 照りつける日差しに、僕の背中はじっとりと汗ばんでいく。蝉の鳴き声が、うるさい。
「じゃあ、一緒に行かない? お祭り。花火見たい」
「……うん。いいよ」
 断る理由が見つからなかった。僕と彼女は連絡先を交換して、別れた。明日の夕刻、二十年前から変わらずある煙草屋の店先を暫定的な待ち合わせ場所にして。
 ――何故、彼女は僕を誘ったのだろう。僕は考える。祭りに行きたいだけなら、他にも友人はいるだろうに。久しぶりに地元に帰ってきたのだ、同性の友人とは会わないのだろうか。
 もしかして、僕のことを探していたのか……? 都合の良すぎる妄想を抱いて、僕は自分の顔が気持ち悪くにやにやと歪むのを感じた。
 何しろ、彼女は本当に、綺麗になったのだ。
 
 
 待ち合わせ場所に現れた彼女は、白いTシャツにジーンズを履いていた。浴衣姿を想像していた僕は、少し肩透かしを食ったような、同時に浮かれすぎていた気持ちを戒められたような気がした。
 彼女は長い髪をポニーテールにまとめていて、その髪型は確か昔もしていたような気がするのだけれど、あの時と印象が違うのはきっと髪にゆるくパーマがかかっているからだろう。
「ごめん、待たせた?」
「いや、時間通りだよ」
 僕は言って、横目でちらりと煙草屋のおばちゃんを見た。おばちゃんは少し黄ばんだ歯を見せ、笑う。――うまくやりなよ、そう言っているように見えた。
 僕らは肩を並べて、でも決して体が触れない距離で、祭りの会場に向かって歩いて行った。もしここで教え子に会ったとしても、彼らは彼女が僕の連れだとは思わないかもしれない。その程度の温度しか、僕らの間にはなかった。縮めることは、僕にはできそうにない。
 彼女は昨日と同じ、赤いサンダルを履いている。
「花火大会なんて、昔なかったよね?」
 彼女は不意にそう言った。
「始まったの、五年くらい前かな」
「そっか」
 大学出て以来全然帰っていなかったから、と彼女はまた笑った。
「仕事、忙しいの?」
「うん、まあね――」
 彼女が言った社名は、僕らが誰でも知っているような、いわゆる一流企業のものだった。彼女は多分、キャリアウーマンというやつなんだ。僕は少し、気後れしてしまう。
「今年は休めたんだね」
 そう言った僕に、彼女は少しだけ顔を曇らせた。
「……まあ、ね」
「…………」
 祭りの会場で、彼女は焼きそばとかき氷を買った。女の子には奢らないといけないかな、と思ったのだけれど、彼女はそんな隙を見せることもなく、さっさと自分の財布を出していた。
「こういうところで食べる焼きそばって、美味しいよね」
 彼女の、汗でうなじに張り付く髪に気を取られていた僕は、少し遅れてうなずいた。
 遠くから響く、雷のような音。はっと夜空を振り仰ぐと、そこにふわっと花火が咲いた。
「始まった」
 僕が言うと、彼女は頷いた。
「始まったね」
 ――その後は、無言だった。
 夜空を焦がす、打ち上げ花火。笑顔マークの形の花火が上がった時に、彼女はくすりと笑った。その屈託のない笑みに、僕は何故か安堵する。
 東京で過ごした十年間、彼女に何があったのだろう。ここ数年間は盆にも帰省できないほど忙しかったという彼女。今年は何故、帰ってきたのだろう。そして何故、僕を祭りに誘ったのだろう。何故、僕だったのだろう。
 花火とともに、浮ついていた僕の気持ちが弾けていく。彼女の白いTシャツが色とりどりの花火で染まるのを、僕はぼんやりと眺めていた。
「――……くん?」
 名前を呼ばれた僕は、はっと顔を上げた。彼女は不思議そうに僕を見ている。
「花火、終わったよ?」
「あ、ああ」
 そうだね、と僕は言った。
「帰ろうか?」
 出かける前の浮ついた気持ちなど、夜を迎えた朝顔のようにすっかり萎んでしまっていた。
「……そうね」
 彼女はそう言うと、サンダルの踵を鳴らして歩き始めた。
「送る」
「ありがとう」
 散り散りになっていく人びとの間で、僕らの距離は少しも縮まることはなかった。きっと、もう縮まることはないだろう。
「ごめんね、強引に誘って」
「え? いや、別に」
 突然謝った彼女に、僕は慌てて首を横に振った。
「でもさ、他の友達は良かったの? もう会った?」
「……ううん」
 彼女は口元で笑ったまま、俯いた。
「結構みんな、結婚しているみたいなんだよね。そうじゃなくても彼氏のいる子も多いし……誘いにくくて」
「ああ……」
 僕はあいまいに頷いた。確かに、僕も去年は恋人と一緒に花火を見に来たものだった。ちょうど春頃別れてしまったのだけれど、その理由も実は結婚だった。いつまでも結婚を口にしない僕に、恋人は焦れて、離れていった。僕自身にもその理由は分からなかったのだが、その恋人と結婚する未来を僕はどうしても描くことができなかったのだ。それは、どうにも仕方がないことだ。
 僕らはしばらくの間、黙って歩き続けていた。そして沈黙を破ったのは、やはり彼女だった。
「私、婚約していたんだ」
「…………」
 僕はごくり、と唾をのむ。
 いつの間にか、彼女は手の中に指輪を――ころころと、何でもないもののように転がして、それでいてその白い指先は小さく震えているのだった。
「この夏は、彼と一緒に帰ってくるつもりだった」
「…………」
 言葉が浮かばない。僕は押し黙って、彼女の隣を歩いた。
「まあ……結局、ひとりで帰ってきたんだけど」
 彼女は笑う。また、笑う。きっと何も可笑しくなんてないだろうに、彼女は笑うのだ。その笑顔は、まるで儚く消える花火のようで。
 でも――何となくわかった。女友達よりも、あまり親しくない異性の僕の方が気楽だったのだろう。こういった話をしても、僕はあれこれ突っ込んで聞いたりしない。慰めたりもしない。そんなこと、僕にできるはずもなくて、だけどそれがかえって彼女には都合が良かったのだろう。
 生暖かい風が、僕らの間を吹き抜けていく。
「……次は、いつ帰って来るかなあ」
 ぽつりとつぶやいた彼女の言葉に、僕は思わず立ち止まる。彼女もつられたように足を止めた。彼女の背後には大輪の向日葵が、夜闇の中でも明るく揺れていた。
「いつでも、さ」
 少し、声が震えた。僕は知らないうちに随分緊張していたらしい。
「いつでも、帰って来いよ」
「…………」
 彼女は目を見開いて、僕をじっと見つめた。
「帰ってきたくなったら、いつでも――帰ってくればいい。そうだろう?」
「…………」
 大きな目。それがゆらり、と揺れた。
「……ありがとう」
 彼女は軽く目をこすって、そして突然走り出した。僕は驚いて後を追う。彼女の赤いサンダルが、アスファルトの上で鮮やかに閃いた。
 小さな用水路にかかった橋の上で、彼女はぴたりと止まった。僕も、彼女の数歩後ろで立ち止まる。
「えい」
 小さな掛け声とともに、彼女は手の中のそれを放った。かすかな光が、夜の中に吸い込まれていく。もちろん、花火のように花開くことはない。ただ、暗い水面に吸い込まれていくだけの。
 彼女の背中を見つめたまま立ち尽くす僕に、彼女は半分だけ振り返った。
「明日、帰るの」
「……そう」
「だから――」
 彼女は、笑った。一瞬で消える花火のように、夜空に残像を刻む花火のように。儚くも強く、笑った。
「ありがとう。さようなら」

 あの夜から、僕は彼女に会っていない。あれ以降、彼女がこの街に帰ってきたことがあるのかどうかも、僕にはわからない。
 けれど、僕は鮮明に覚えている。あの日の向日葵。あの夜の花火。彼女の笑顔。一瞬の涙。
 彼女は、覚えているだろうか。忘れただろうか。――忘れられただろうか。
 今はもう、煙草屋のないあの場所で。僕は今年も、夏を迎える。