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セイシした闇の中で

 おや。
 なんでしょう、急に電気が。それに、どうやら停まってしまったようだ。これはもしかして停電かな。
 あなた、大丈夫ですか。
 こんな真っ暗な密室に閉じ込められては気分も良くないでしょう。ああ、非常用ボタンですか。どこにあるのかな。はい、きっと壁沿いに、そうですね、ありましたか。押してもだめ、反応しませんか。ボタンを全部試しても。それは困りましたね。動き出す気配もないし。
 携帯もつかないのですか。それはまた、間の悪い。電池切れですか。おや、おかしいですね。なぜ急にそんなことが……。私ですか、私は、ええ、実は持っていなくて。はは、現代人には珍しいでしょう。
 仕方ない、少し様子を見ましょうか。きっと誰か気付いてくれますよ。停電なら復旧を待つしかありませんし、故障だとしたって、いくら深夜とはいえここはマンションなのですから、誰かエレベーターを使おうとする住人もいるでしょう。最悪、この時間なら朝までそう長くもない。ずっと止まりっぱなしだったら、誰かがおかしいと思ってどこかに通報してくれますよ、そうでしょう。
 すみませんね、うるさくしてしまって。あまり話さないほうが良ければ、そうおっしゃってくださいね……つい、こう光の一筋も射さない場所では、おしゃべりになってしまう。
 そうでもしなければ、この闇に呑まれてしまって、そして何も残さず消えてしまうのではないか。そんな風にも思えてしまってね……あなたもそうは思いませんか。大丈夫ですか。
 私は昔から暗闇が怖くて、それでいてわざと真っ暗なところに入るのが好きだったんですよ。子供って、どこかそういうところがありますよね。押入れに入って、襖をぴったりと閉めて。それでも少しは光が入ってくるから、布団を頭にかぶって、両腕を宙に突き出して。そうすると、普段ははっきりと見えている、把握していると思っているはずの自分の体の境界線、それがどことなく曖昧になる気がしたんです。視覚に頼らず、触れることもなく、自分のかたちを把握するのは案外難しいことで……あなたはそうは思いませんか。私を覆い囲んでいる皮膚の位置、たとえばそれが私の内と外の境界線だとしたら、今この光のない場所では1ミリ外側だと認識してしまっているかもしれないし、逆に少し内側だと思い込んでいるかもしれない、そうでしょう。だとすると、1ミリぶんの厚さの闇が、今は私に混じっているのでしょうか。もしくは、1ミリぶんの私が闇の側に溶け出しているのか。さて、どちらが正しいのでしょうか。そもそも、普段目で見ている私のかたちが、本当に正しいのでしょうかね。どう思われます。
 ああ、退屈ですよね、こんなくだらない話をぺらぺらと。時々試してみてください、非常ボタン。もう何度も、そうですか、それは失礼しました。何しろ私にはあなたが見えないものだから……あなたに私が見えないように。
 あなたはここにお住まいで。はあ、そうですか。けれど、ここ、オートロックですから、お知り合いをお訪ねになるところだったとか……いえ、余計な詮索ですね、気にしないでください。ええ、もしそうだとしたらお知り合いが心配なさるかと……違うのなら、いいのです。私ですか。私は、ええ、昔ここに住んでいたことがあって。
 ここは良いマンションですよね、この辺りでは一番の高層で。私が以前住んでいたのは33階だったんですけれど、ああ、あなたが行くのも同じ階ですか。それは奇遇ですねえ。
 あのベランダから真下を見るとね、すうっと肝が冷えるような気がしたもんですよ。食道から胃に冷たい水がちょろりと流れ落ちて溜まり、そしてぬるくなるまでの数瞬、それを味わうような、ね。おわかりになりますか。私はそのスリルが好きで、殊更何度も見下ろしたものです。足場がしっかりしたベランダで、十分な高さの柵もある、だからこそできたことですがね。それでも、空想せずにはいられなかった。今この瞬間、私が掴んでいるこの手すりがふいに消えてしまったら、ぐらりと外側に倒れたら、私はどうなるのだろうって。
 どうなるもこうなるもないですよね。落ちるだけだ。
 落下といえば、高校で物理を習った時、どこか高い場所からの落下速度を求めるのが流行りませんでしたか。東京タワーだとか、スカイツリーだとか……まあ、その頃まだスカイツリーはありませんでしたけれど。せいぜいが地元の展望台、ん、そんなことはなかったって。あ、笑っているでしょう、見えなくてもわかりますよ。まあ、どうせ暇なんですから少し聞いていてください。よろしいですか。
 こういう時のお決まりで、空気抵抗は無視するものとします。1階が大体3メートルだとすると、33階はおおよそ100メートルになりますね。重力加速度はおおよそ9.8ですが、計算しやすいように10としましょうか。そうすると、落下時間tは√2h/gで求められますから、ええと、√20、2√5、おおよそ4.5秒ですか。あっという間ですね。それとも、意外と長いなと思いましたか。ちなみに地面に達する寸前の速度は、45メートル毎秒。時速でいうと、これはちょっとすごいですよ、160キロ。
 とまあ、こんなことを考えている間に4.5秒などゆうに経っているのですけどね。落下し始めてから地面に到達するまでのその4.5秒で、人は一体何を考えるのでしょうね。そもそも、落下しながら何かを考えることなどできるのでしょうか。
 どうされました。つまらない計算など始めてしまったものだから、退屈されましたか。それとも、どこか具合が。大丈夫ですか。
 ええ、私ははじめからここにずっといましたよ。あなたが気付かなかっただけでしょう。あなたが乗ってきた時から、私はここにいました。大丈夫ですか。ああ、それならよかった。いいえ、謝るようなことでは。
 それはそうと、ご存知ですか。このマンションで、一年ほど前に死亡した住民がいたと……ご存知ないですか。まあ、これだけ大きなマンションですからね、住民が亡くなることもあるでしょう。でも、その事件は結構な騒ぎになったんです。そう、その通り。飛び降りたんだ。さっきの4.5秒、時速160キロをまさに体感したんですね。もちろん即死、地上は相当ひどい有様になったとか……。そりゃあそうでしょう、地面にそれだけの速度で激突するんだ、人体なんてひとたまりもなく粉々だ。身元の確認にも手間取ったでしょうし、お葬式なんてどうしたんだろう。まあ、余計なことですけれど。
 飛び降りてから死ぬまで、4.5秒。たった4.5秒だけれど、でも一瞬と呼ぶには長すぎる時間ですよね。その4.5秒の間に、ねえ、一体何を考えたでしょう。
 地面までの4.5秒間。
 あなたは、何を思うのでしょう。
 大丈夫ですか。私が、何か。いえ、私はただ、たまたまこのエレベーターに乗っていて。それだけですよ。はい、それが何か。
 ところで、あなたは今から昇るのでしたっけ、降りるのでしたっけ。どちらでしたかね。
 どちらでしたか、ね。
 あ。電気、点きましたね、良かった。
 おや、いつの間に。ここは33階ですね。例の。
 眩しいのですか。そんなに目を瞬いて、どうしました。
 はい、私はここにいますよ。声が聞こえるでしょう。もしかすると、私の姿はあなたには見えないかもしれないけれど。私は確かにここにいます。いるんですよ。ええ。
 私は確かに存在していた。たとえ最期は粉々になったのだとしてもね、それは間違いないことだ。
 それからね、私、あなたのことは前から良く知っているんだ。だって、あなたが訪ねていくその部屋は、私がかつて住んでいた部屋なんだもの。
 あなたは今からあの部屋を訪ね、そう、その合鍵を使って中に入り、ベランダから飛び降りるつもりだったのでしょう。私のしたのと同じに。理由なんか知りません、男へのあてつけだか何だか……まあ、そんなことはどうだっていいのです。私の知ったことではない。私はあなたの邪魔をしたいのではないから。
 ただ、あなたならわかるかと思って。
 私が落ちていく間の4.5秒に、何を思ったのか。何を考えたのか。
 想像に過ぎなくても、いっそでたらめでもいい。何でもいいから、ねえ、教えてくれませんか。
 あの4.5秒が、私にはどうしても思い出せないのだ。それさえ思い出せたなら、知ることができたなら。私は。
 泣いているのですか。どうして、あなたが泣くのです。
 飛び降りるのが怖くなった。それは私のせいですか、申し訳ない、決して邪魔をするつもりでは、あ、そうじゃないと。
 え。なんですって、良く聞こえない……。
 後悔。
 私はあの4.5秒で、後悔を。それは、どういう……飛び降りたことを。自ら死を選んだことを。
 後悔、後悔……はあ……後悔。そうか……ああ、後悔。なるほど、それで。
 それで、私は今もここに。
 動き出しましたね。あなたの望んだ通りに、降りていきますよ。
 32、31、30……ああ、ゆっくりだなあ。こんなにゆっくりだったろうか。もっと、あっという間だったと思うのだけど。
 それにしても……はあ、なるほどねえ。
 確かに、私は後悔したのかもしれません。あの4.5秒で。どうしようもなく後悔して、恐怖して、悲しくって、怒り狂って。そして、どうしようもないままに木端微塵になった。
 そう……きっと、そうだった。きっと。
 私は、後悔したのだ……。
 さあ、そろそろ地上に着きますよ。
 もう一度昇るご予定は。そうですか。合鍵も……そう、それがいいでしょうね。
 何もかも捨ててしまえばいい。何もかも、ね。後のことは、捨てた後で考えればいい。
 私ですか。はい、私もそろそろここを降りようかと思います。もう、用はないので。
 ですから、あなたともお別れですね。永遠にお別れです。
 いいえ、とんでもない。私はお礼を言われるようなことは何もしていませんよ。
 それでは、さようなら。
 お帰りの際は、くれぐれも気を付けて。特に、頭上には十分気を付けてくださいよ。何かが落ちてくるかもしれませんからね……誰かが……ね、よく見て。ほら、誰かが、落ちてきた。どうです、見覚えのある顔ではありませんか……あれは誰。誰でしょう。落ちてくる。4.5秒、時速160キロで。あれは、誰。
 さあ、私にはわかりません、
 だって、私にはあなたが見えないのだから。

 ね、意外と長いでしょう。4.5秒って。