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サンセット・カフェを訪ねて

 岬にぽつんと佇むその店には、「サンセット・カフェ」と描かれた古びた看板が掲げられていた。なるほど、この立地ならきっと水平線に沈む美しい夕日が見られるのだろう。生憎、今は土砂降りの雨だが。
 私は傘を持っていなかったから、車から降りると慌てて店内に駆け込んだ。たかだか十数秒、それでも私のシャツはほとんど余すところなく濡れた。先程まで轟いていた雷鳴が遠ざかったのは不幸中の幸いだ、少し待てば雨も上がるかもしれない。
 木の扉を押し開けると、雨音をバックグラウンドにして、透き通るようなベルの音が鳴った。
「おや、いらっしゃい」
 店の中にはグレイヘアのレディがひとり。天候のせいか、私の他に客はいないようだ。多分、彼女が店主だろう。
「タオルを貸してあげるから、少し待っていてね」
 年齢を感じさせないきびきびとした動きでバックヤードに入っていく。私はきょろきょろとあたりを見回した。壁に貼られた数枚の色褪せたポスター、さすがに現役ではないであろうジュークボックス、壁際にはところ狭しと並べられた様々な種類のボトル、こだわりを感じさせる小物の数々があちこちに飾られている。どこをとっても年季を感じさせる、なかなかに風情のある佇まいであった。
 戻ってきた彼女は、私にタオルを渡すとカウンターに戻っていった。
「冷えたんじゃない? なにか温かいものでも?」
「いえ、むしろ冷たいものが……あ、その前に。タオルをありがとうございます」
「どういたしまして」
 さっと身体を拭いた私は、メニューの書かれた黒板を眺めた。ところどころ薄くなっていて読めないが、ここに来る地元の常連にとってはそんなことは何の問題にもならないのだろう。
 私はあるものをメニューに見つけ、それを口にした。
「ええと、コーヒーレモネードをもらえますか」
「本気?」
 彼女は振り返って言った。その青い瞳はやや眇められ、訝しんでいるように見える。
「そのオーダー、珍しいですか?」
「一見さんはまず頼まないわね」
「そうですか? 家族にそれが好きだって者がいて」
「…………」
 彼女は少し口を噤み、やがて私をじっと見つめた。
「真夏の夕立だからきっとすぐ止むわね。雨宿りしていくでしょう? 名前は?」
「レイ」
「私はジェーンよ。よろしく、レイ」
 彼女はそう言うと、グラスを取り出して氷を入れ、アイスコーヒーとレモネードを加えた。比重の関係なのだろうか、下がレモネードで、上がコーヒーの層になっている。それを私の前に置くと、グラスの外側とコースターがすぐに水気で濡れた。空調の効いた店内だけれど、夕立のせいで湿気がひどいのだ。
「レイはどこから来たの?」
 故郷の街の名前を答えると、ジェーンは目を丸くした。無理もない。ここは大陸西海岸、私の生まれは東海岸だから。
 彼女は雨にけぶる外を一瞥し、私のちいさな愛車を見て更に目を丸くした。
「もしかして、ここまであれで?」
「ええ、まあ……旅の途中なんです。長い休みをとったから、どうせなら大陸を横断してみようって」
「ひとりで?」
「いえ、連れがいます」
 そう言った後少し間を開けて、私は付け加えた。
「まあ、なんていうか……新婚旅行みたいなもので」
「あら、おめでとう」
 ジェーンは目を細めて言った。
「なら、そのコーヒーレモネードは私の奢りね」
 私は驚いてグラスから口を離した。勢い、氷がからんと揺れる。コーヒーの苦みとレモンのさわやかな酸味、そこに刺激的な炭酸がプラスされて、とても美味しかった。私の良く知るコーヒーレモネードの味だ。
「そんな、申し訳ないですよ」
「何言ってるの、二杯以上飲めばいい。奢るのは一杯だけだから」
 ジェーンは冗談めかして笑う。
「で、彼女さんは今どこに? 車の中ってわけじゃないでしょう?」
「……モーテルで休んでいますよ。あ、そこのパイを持ち帰ることはできますか? お土産にしようかな」
「いいよ、パックしてあげるから待っていて」
 ジェーンは、よいしょ、と声を出して立ち上がると、ケースの中からアップルパイを二切れ出してペーパーボックスに詰めてくれた。
「それにしても、どうしてこの店に?」
「どうしてって?」
「大きな道路に面しているわけでもないし、旅行客が来るのは珍しいのよ」
「ああ……それなら」
 私はポケットからスマートフォンを出して彼女に見せた。
「この近くに住む知り合いが、ここがお薦めだって教えてくれたんですよ」
「メールで?」
「メールというか……そうですね、SNSのダイレクトメッセージ機能で」
「ダイレクト……? 老いぼれにはついていけないよ」
 ジェーンは軽く首を振った。私は笑って、「まあ、メールみたいなものですよ」と言った。嘘はついていない。
 私はもう一度店内を見回す。そして、よく磨かれたグラスの並んだ棚の上に、一つの写真立てを見つけた。今よりずっと若いジェーンと、多分その夫であろうハンサムな、線の細い男性。そして彼らの手を両肩に置かれて微笑む、幼い少女。家族写真だな、と私は思った。正直なところ、少女は両親のどちらにも似ていなかった。まあ、そういうこともあるだろう。
 ジェーンは私の視線を追って、静かに微笑んだ。
「夫と娘よ。夫は去年亡くなったの……癌でね。娘は留学中」
「……それは残念です」
「娘に教えてもらって、何とかメールは使えるようになったのよ。SMSとかいうのは無理だけど」
「SNSですよ。ソーシャルネットワーキングサービスです。SMSだとショートメールサービスになっちゃう」
「新しい言葉が増えるばっかりで、頭が痛くなるわね」
 ジェーンは肩をすくめた。
「ところで」
 ――グラスの中で氷が溶けて揺れ、からんと音を立てた。
「あなたの、そのコーヒーレモネードが好きだという、家族のことなのだけど」
 ジェーンは少し目を伏せていた。
「どなたのことなの?」
「……父ですよ」
 短く答える。
「もともと祖母がよく作って飲んでいたようですが」
「そう」
「父には姉がひとりいたんです。少し年の離れた姉が」
 ――ずっと知らなかった。私も、それどころか母も写真すら見たことがなくて、まるでそもそもそんな人はいなかったかのような扱いをされていた。
「突然父がそんな話をしたのは……少し前に病気が見つかって、多分来年までもたないだろうと言われて。きっと、心残りだったんでしょうね」
「…………」
 黙々とグラスを磨いていたジェーンの手が、一瞬だけ止まり、また動き出す。だが、それはまるで油をさし忘れた機械のような、ぎこちない動きだった。
「姉……つまり私からすれば伯母にあたるひとですが」
 私はぽつぽつと語る。
「ハイスクールを卒業した後、姿を消してしまったらしくて。祖父も祖母も、その日を境に伯母の話をしなくなってしまったんだそうです。でも、不自然ですよね。親なら、子が失踪したら探すでしょう。何としてでも、どれだけの年月が掛かってても探し出そうとするでしょう。違いますか?」
「…………」
 ジェーンは答えない。
「でも、父は親を問い詰めることはしなかった。何故なら――父は姉がある計画を立てていることを知っていたから。それは街を出て行く計画だった。そして、父は知った――それがどうやら最悪の形で頓挫したということを」
「…………」
 私の向かいに腰掛けたジェーンはただ黙っていたけれど、その沈黙は私の話の続きを促すのも同然だった。
「父はまだ幼くて、当時はあまり良く理解できていなかったようですが……伯母はひとりで街を出ようとしたのではなかったんです。恋人と一緒でした。でも、祖父も祖母もその恋人のことをどうしても認められなかった……なぜなら、そのひとは女性だったから」
 私の掌がじわりと濡れる。自分が汗ばんだせいなのか、グラスについた水滴のせいなのか、どちらだろうか。
「父はそのひとの名前を覚えていました。サックス――本名はアリス・ブレイク。今でいうトランスジェンダーだったのでしょうね。体は女性として生まれついたけれど、その精神は男性のものだった。半世紀も前のことだから、当然今よりずっと理解されなかったでしょうね」
「……そうだろうね」
 ジェーンはぽつりと言った。
「そういう時代だった」
「ハイスクールで知り合ったふたりは恋仲になったけれど、誰にも認めてはもらえなかったし、そもそもサックスが男として生きることすら認めてもらえなかった。それこそ子供だった父以外には、誰にも。きっと、いろいろと酷い目にもあったのでしょう。ふたりは出奔し、サックスは誰も知らない土地で男として生き直すことを選ぼうとした」
「それで?」
 ジェーンは促した。
「何があったの?」
「ふたりがいなくなった日、祖父は夜遅く帰宅したそうです。今日みたいにひどく雨の降る夏の日で、帰ってきた祖父はびしょ濡れだった。それからばたばたと警察やら消防やら、いろんな人たちがやってきて、ベッドルームに追いやられた父は耳を澄ませて大人たちの会話を聞こうとしたけれど、雨音がうるさくて途切れ途切れにしか聞こえなかった。結局、後からわかったのは、ふたりは祖父の車を盗んで出て行こうとしたこと、それに気付いた祖父は知り合いの車を借りて追いかけて……そして……」
 最後まで溶け残っていた氷が、音もなく形を失ってグラスの底に消えた。
「慌てたのか、ふたりは運転を誤って車ごと街の外れの橋から落ちてしまった。車はあっという間に沈んでしまって、雨のせいで水かさも増していたし、流されていたら死体も見つからないかもしれない」
「……死んでしまったの?」
「川底で車は見つかったけれど、死体はあがらなかった。でも、祖父母は死んだものと思っていたようで、探しもしなかったようですね。祖母は随分と落ち込んでいたようですが」
「…………」
「父もまた、そのように振る舞っていました。でも、本当は……」
 私は言葉を切り、言い直す。
「本当は、父はずっと姉のことを探し続けていた。どこかで生きていると信じていた」
 沈みゆく車から抜け出して岸に泳ぎつき、名前を変えてでもどこか遠くで生きているのではないかと。
 ふたりで、幸せに。
 祖父母にとっては、伯母を死んだものと思っていたほうが気が楽だったのかもしれない。いくら男装していたとはいえ女性と出奔した伯母を理解し受け入れようと努めるよりも「事故」で亡くしたのだと、いっそそう思い込む方が。しかし、父はそうではなかったのだ。
 父はサックスのこともぼんやりとではあるが覚えていた。当時、父は彼女――彼が「女性」だとは知らなかった。本を読んでくれたり、ボールをくれたりする、親切で優しい「お兄さん」を心から慕っていた。サックスが本当は男性か女性かなんて、それこそどうでもいいことだったのだ。
 ジェーンは先を促す。
「それで? 伯母さんは見つかった?」
「ええ。たまたま知り合いがSNSに旅先の写真をアップしているのを見て、そこに姉としか思えない人を見つけたんだそうです。それが一年ほど前。会いに行きたい、せめて連絡を取りたいと思いながらもなかなか行動に移すことができず、そのうちに……」
「病気になってしまった、ってことね」
 ジェーンはため息をつく。
「……あなたは、最初から私に会いに来るつもりでここに?」
「はい」
 そう言って微笑む。ジェーンは更に深いため息をつく。
「じゃあ最初からそう言えばよかったのに」
「しらばっくれられても困るし」
「今だってしらばっくれようと思えばしらばっくれられるよ」
「それもそうですね。……まあ、正直私も父の話は半信半疑だったんですよね。いくら姉弟とはいえ、数十年会っていないのに写真だけでわかるものかな? って」
「そうよね、私もびっくりよ」
 ジェーンは力の抜けた笑みを見せた。
「でも、実際に会ってみたら懐かしい味のコーヒーレモネードは出てくるし、あなたはどことなく父にも似ているし、これは間違いないなって。特にあの写真」
 私は棚に置かれた写真の中の男性を示す。
「あのひとがサックス?」
「……そうよ」
 ジェーンはあっさりと認めた。やはり、娘は養子なのだろう――まあ、どうでもいいことだが。
「お会いしたかったな」
「ありがとう」
 ジェーンは少し目を細めて、眩しいものでも見るように私を見る。
「ジミーに――お父さんによろしく言っておいて」
「えっ、会ってはくれないんですか?」
「そりゃあ会いたいけれど、店もあるしここは遠過ぎるわ」
「いや、そうじゃなくて。ビデオ通話すればいいでしょう?」
 スマートフォンをかざしてみせる。
「……ハイテクは苦手なのよ」
 ジェーンは苦笑した。ああ、やはり父とよく似ている――その横顔に、窓から差し込んできた夕陽が当たっていた。いつの間にか雨は上がっていたのだ。私は外を眺め、感嘆の声を上げる。
「なるほど、これはサンセット・カフェの名にふさわしい光景だ」
「そうでしょう?」
 ジェーンはどこか誇らしげだった。
 故郷を遠く離れたこの町で、彼女はどのような人生を過ごしてきたのだろう。身上を偽り、夫の戸籍上の性別を偽り――様々な苦労があっただろう。この「サンセット・カフェ」には彼女の思い出が詰まっている。彼女と、夫と、そして娘の。だからこそ、彼女はこの店をとても大切にしているのだ。それは、この短時間の滞在でも良くわかった。
 ジェーンが窓を開ける。雨上がりの風が吹き抜けていった。
 夏の太陽が水平線に溶けてゆく。宝石をこぼしたようにきらきらと煌めく水面は目映く、美しい。私は目を細め、そしてふと思いついたことを口にした。
「ところで――父にオンラインで会ってもらう前に、私のパートナーに会って欲しいんですが、いいですか? モーテルから連れてきます。すぐ近くなので」
 せっかくパイも詰めてもらったけれど、やっぱりここで食べることにしよう。それに、コーヒーレモネードを奢ってもらった分の二杯目も飲まなくては。
「いいけれど……」
 戸惑うジェーンに、私は微笑みかけた。
「良かった。彼もきっと喜びます」
「…………」
 ジェーンは父とよく似たブルーアイを丸くして、やがて優しい笑みを浮かべた。

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