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わたしのおにいちゃん

 私には兄がいる。ずっと年の離れている、優しい兄だ。私が物心ついた時には既に社会人だったのだけれど、在宅でできる仕事だとかで、私が学校から帰って来る時間にはいつも家にいた。だから、学校から帰るとすぐに兄の部屋を覗くのが私の日課だった。両親は、仕事で留守にしていることが多かったから。
「ただいま!」
「おかえり」
 兄の笑顔は、いつだって私を癒してくれる。私はダイニングテーブルに用意されたおやつを持って兄の部屋の床に座り込み、学校で起こったことをあれこれと話した。そういうとき、兄は椅子をくるりと回して私と向き合い、相槌を打ちながら耳を傾けてくれる。母の用意した夕飯をレンジで温めて食べる時も、兄は私の向かいに座ってにこにこと笑っていた。ひとつだけ不満だったのは、兄が私と同時に食事を摂ってくれなかったこと。それでも、兄はいつも私が食べ終わるまで待っていてくれた。

 兄との一番古い思い出は、物心がついたばかりの頃――多分、まだ三歳か四歳くらいのことだった。当時母は結婚後に辞めた仕事に復帰しようとしていて、反対する父と毎晩喧嘩をしていた。深夜、ふと目を覚ますとぼそぼそと言い争いの声が聞こえる。日によってはそれが徐々に大きくなることもあって、当時の私には話の内容までは理解できなかったものの、その尋常ではない雰囲気に布団の中で身をすくませていた。子供心に不安になって、寝つくことができない夜もあった。
「眠れないのかい?」
 しくしく泣いていると、兄がそっと部屋に来る。そして、その大きな手で私の耳を塞いでくれるのだ。
「ほら、もう何も心配しなくていいんだよ。ゆっくりおやすみ」
 その暖かさに安心して、私は目をつぶる。兄が側にいてくれると、私はいつだってすぐに寝付くことができた。
 やがて、両親の喧嘩は減った。母は父の反対を押し切って復職し、最初は文句を言っていた父もやがて諦めたようだった。けれど、どこかふたりの関係は徐々に冷えていっていた。私は早々にそのことに気付いていたけれど、気付かないふりをした。せめて私はいい子でいよう。母に心配を掛けない、父に嫌われない、いい子でいよう。そう思っていた。私には兄がいてくれる、だから大丈夫。悩み事を相談する相手はいつも兄だったし、秘密を打ち明けるのも兄にだけだった。兄は誰よりも信頼できて、誰よりも私をわかってくれる。
「私、お兄ちゃんが大好き!」
 そういうたび、兄は少しだけ寂しそうに笑った。
「ありがとう。でも、いつまでそう言ってくれるかな?」
 その言葉を聞き流すには私は大人過ぎて、その中に含まれている本当の意味を悟るには子供過ぎた。
「ずっとだよ。だってお兄ちゃんは私のお兄ちゃんなんだから」
 どんなときも、兄は私の側にいてくれた。学校でいじめられた時も、勉強で悩んでいた時も、失恋した時も……いつだって私の話を聞いて、優しく労わってくれた。母は自分にも他人にも厳しい人だし、父は仕事人間であまり子育てに関心がなかったから、私が安心できるのは兄の側以外にはなかったのだ。兄がいたからこそ、私は頑張って来れたのだと思う。

 高校に入った頃、私は兄についてほとんど何も知らないことに気が付いた。私はそれまで兄に自分の話をしてばかりで、彼の話を聞こうとしたことなど一度もなかったのだ。
「お兄ちゃんもたまには自分の話をしてよ。いつも私ばっかり話してるじゃん」
 そう言うと、兄は苦笑いを浮かべた。
「僕の話? いいよそんなの」
「駄目。聞きたいの」
「うーん……」
 兄は困ったように首を傾げる。私は言い募った。
「仕事の話でもいいし、友達の話でもいいよ。好きなものは何かとか、嫌いなものはとか……。あ、小さい頃の話も聞きたい!」
「好きなものは、妹かな」
 兄は済ました顔でそう答えた。
「嫌いなのは、妹を傷つけるもの全部」
「…………」
 私は思わず顔が赤らむのを感じた。
「お兄ちゃん、それは言い過ぎ」
「言えって言ったから言ったのに」
「もういい!」
 それ以来、私は兄のことを尋ねなくなった。何となく聞かれたくないのではないか、そんな気がしたから。いつだって自室に籠もっていて、父や母とは一線を画している。私も兄の話を両親としたことがない。兄が出掛けるところを見たことはないし、そういえば友達がいるのかどうかも怪しい。それまで考えもしなかったけれど、兄は相当変わっている。
 けれど、兄は兄だ。私は兄を信じているし、兄もそれに応えてくれる。それがわかっていれば十分だった。

 大学に入学して間もなく、彼氏ができた。兄はそれをとても喜んでくれて、いろいろと相談にも乗ってくれた。喧嘩した時は、意地を張る私をたしなめてもくれた。交際は順調に進み、やがて私は彼を兄に会わせたいと思った。もしかしたら、彼とは一生一緒にいることになるかもしれない。それまでにも付き合った相手はいたけれど、こんな予感は初めてだった。だからこそ、それまで誰にもしたことのなかった兄の話を、彼にだけは打ち明けたのだ。
「素敵なお兄さんなんだね」
 彼は笑ってそう言った。
「ぜひ会ってみたいな」
 両親に会わせる前のクッションになるかもしれない。私の頭にはそういう考えもあって、その日のデートから帰るとすぐ、私はいつものように兄の部屋へと駆け込んだ。
「お兄ちゃん、あのね――」
 私の足が止まった。私の視界に、兄は映らなかった。
「お兄ちゃん?」
 頭が真っ白になる。こんなことは、はじめてだった。
 兄が仕事で使っていたパソコンのディスプレイ。それが、弱々しく点灯していた。私は慌てて駆け寄る。画面には、短いテキストが表示されていた。
 
『僕の大好きな妹へ。
 驚かせてごめんね。実は、仕事の都合で遠くに引っ越すことになりました。本当は前々からわかっていたのだけど、つい言い出せなかった。自惚れかもしれないけど、きっと悲しませると思ったから。
 でも、多分もう大丈夫だね。君には素敵な彼氏がいる。これからは、彼が君を守ってくれる。僕は遠くから、君のしあわせを祈っているよ。君に会えないのは寂しいけど、いずれこうなるはずだったんだ。だから、どうか悲しまないで欲しい。
 いつか、君がまた僕を必要としたら……、その時はいつでも帰ってきます。そんな日は、来ない方がいいんだけどね。
 じゃあ、さよなら。
 君のお兄ちゃんより』
 
 何度も何度も読み返して……。気が付くと、パソコンの画面は消えていた。私はびっくりしてもう一度点けようとしたけれど、そのパソコンが起動することは二度となかった。
 
 
 それが、数年前の話――私は当時付き合っていた彼氏と、昨年無事に結婚した。結局彼を兄に会わせることはできなかったけれど、私の話を聞いた彼は静かにつぶやいた。「それは、責任重大だね」って。
 兄がいなくなってから、いろんなことがあった。まず、両親が正式に離婚した。精神的に参りそうになっていた私を、彼は――夫は影に日向に支えてくれた。本当に感謝している。
 そしてその時、私は気が付いた。むしろ、何故今まで気が付かなかったのか不思議だった。うちの戸籍には、両親と私しか記載されていない。兄の存在は、どこにもなかった。
「なんで……?」
 そういえば、両親と兄の話をしたことはない。彼らが話しているのを見たことすらない。そもそも私は兄の名前すら知らないのだ。これまでは疑問にも思わなかったけれど、あまりにも妙な話だった。
 実家から母の荷物を運び出す日、私は久しぶりに兄の部屋を訪れた。兄の姿は当然のようになかったけれど、兄の使っていたパソコンはまだそこにちゃんとあった。――いや、パソコン以外のものもたくさん置かれていた。兄の部屋は、物置だったのだ。何となく捨てる機会を失ったもの、そういったものが雑然と置かれていた。パソコンもそのひとつだった。それはひどく古めかしい年代もので、つい数年前まで使えていたとはとても思えない。ここはいつから物置だったのだろう。確かに、かつては兄の部屋だったはずなのに。
「……おにいちゃん」
 私はつぶやき、その画面にそっと手を触れさせた。暗い画面。その奥に映る私の顔は、かつて見慣れていた兄の顔に良く似ている。兄妹なのだから、当たり前だ。兄にもう一度会えるのかどうか、私にはわからない。会いたい気もする。けれど、会ってはいけないような気もする。
 そういえば、お腹の子供は男の子だという。もしかしたら、兄に似ているかもしれない。
 私は少しだけ泣いて、それから笑って。画面から指先を離した。

「ありがとう……わたしの、おにいちゃん」