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やわらかな傷痕

 物心ついたときには、わたしには「それ」が視えていた。というより、何の疑いもなく誰にでも視えるものだと思っていたので、そうではないと気付いたのは、かなりあとになってからのことだった。

 「それ」に関するわたしのいちばん古い記憶は、母のものだ。わたしがまだ幼児だった頃。細かいことは忘れてしまったが、とにかく、その時母の腕に「それ」を見たのだった――深々と、わたしの掌ほどの長さに裂けた「傷」を。
「まま、いたくない?」
 尋ねたわたしに、母はぎょっとしたような顔をした。
「なんのこと?」
 よくよく思い返してみれば、もとより奇妙な「傷」だった。何しろ、血は一滴も滲んでいない。あんなにぱっくりと割れていれば腱や筋肉に達していてもおかしくないし、かなりの量の出血があってもいいはずなのに……でも、幼いわたしにはそんなことはわからない。わたしは、受話器を握り締めたままソファに腰掛けている母の膝によじ登って、そうしてその腕にひらいている「傷」の上を絵本の見様見真似で、
「いたいのいたいの、とんでいけ」
 とさすったのだった。
「…………」
 母が戸惑ったようにわたしを見下ろす。そして、わたしの名を口にしかけて――ふと、口をつぐんだ。
「……いたいの、とんでいった?」
 わたしは手を退ける。そこに、もはや「傷」はなかった。ほっとしたわたしの頭上から、穏やかな母の声が降ってくる。
「ええ、どこも痛くないわよ。……どうしたの? そんなところなでて」
 ちらと見ると、受話器をきつく掴んでいた母の手からは力が抜けていて、強張っていた表情もほどけていた。良かった、とわたしは安堵する。母はやさしく笑って、そうして、おやつにしましょう、と言ったのだった。
 
 ――あの「傷」がいったいなぜできたものなのか、今もわたしは知らない。ただ、あの時のことを何度も思い返しているうちに、わたし自身も成長したせいか、何となく想像はつくようになった。多分、母の「傷」は、直前まで話していた電話の相手のせいだろう。父の母親――つまり、母にとっては姑で、わたしにとっては祖母のひとりということになる。明らかな不仲ではなかったように思うのだが、それは両者がわたしに隠していただけなのかもしれない。とにかく、あのとき母は「傷」を負った。当然、その部位は心で、腕にではないはずだ。だが、わたしにはそれがはっきりと、実在する「傷」として視えた、というわけだ。
 ――それは、そのときだけのことではない。
 わたしにはひとの心に負った傷が、その体、大抵はどちらかの腕や手、肩口などに「傷」として視えて――それの具体的な原因までは、さすがにわからないのだけど――わたしはそれをさすることで、その「傷」を治してしまうことができるらしい。その深さや大きさは、多分、そのまま心の「傷」のありさまを表しているのだと思う。確かめたことはないけれど。
 そのことをはっきりと自覚して、そもそもその「傷」とやらは普通は視えもせず、触れられることもなく、触れて治すのも、少なくともわたしの知る周囲ではわたしにしかできないことなのだ、と理解したのは、わたしが十を超えたか超えないかくらいのことだ。
 だからといって、その後のわたしの人生が別に非凡なものになったわけではない。わたし自身、わたしだけに見える「傷」のこと、あるいは「傷」の見える自分のことを、他人に言い触らしたりはしなかった。なんとなく、そのほうがいいような気がしたのだ。まだ誰しも「傷」が視えて当たり前だと思っていた、幼い頃にしでかしたちょっとした失敗の数々、それらを経験するうちに、わたしは何となくそう思うようになっていた。そのことに関しては、わたし自身も何度か「傷」を負ったのである――まあ、自分自身の「傷」はわたしの目には視えないのだけど。
 わたしがそれを秘密にした要因は、他にもある。実は、わたしが「傷」を治したひとたちは、自分に「傷」のあったことを忘れてしまうらしいのだ。つまり、わたしが「傷」の上に手を翳して、「いたいのいたいの、とんでいけ」とやったら、彼らはそれきり自分にあった「傷」を忘れてしまう。だから、わたしが彼らに何かしたなんて、彼らの記憶には残らない。
 だからわたしは、誰かに少し深い「傷」を見つけては、こっそりと、怪しくないようにそこに手を軽く当てて、口の中で小さく小さくつぶやくようにした――「いたいのいたいの、とんでいけ」。その呪文を唱え終わればたいていのひとがちょっとすっきりした顔をして、わたしはそれを窺い見て少しばかり満足する。人助けというほどのことでもないが、ちょっとした善行のうちの一つだと思っていたのだ……あの日までは。

 そう、あの日――わたしが「彼女」とその短い、それでいて忘れ得ぬ会話をしたのは、自分の能力との付き合い方にも慣れてきた、高校生の時分だった。

 当時もわたしは相変わらず、大小様々な「傷」を視ていた。毎日、毎日、いやでも目に入ってくる――それでも、小さなものはできるだけ目に留めないようにしていた。きりがないし、本人も多分そんなに苦にはしていないだろう。ふつうに生きていれば、「傷つく」ことなんて無数に存在するし、ひとはその「傷」に耐えながら生きていくものだ。そんなことくらい、わたしにだってわかっている。だけど、ある程度大きなものになると、その原因はわからなくてもやはり痛々しく見えてしまって……おせっかいかな、と思いつつも、その「負傷者」がわたしの見知ったひとであれば手を伸ばさずにはいられないのだった。
 「彼女」の名前は……まあ、それはいい。特別仲が良かったわけではないし、ただたまたまその年クラスが同じになっただけの女子だった。彼女は少しだけクラスで浮いていた。いじめられている、とか、そういうのではなくて、どちらかというと遠巻きにされていた、に近い。いつも静かに本を読んでいて、誰にでも話しかけられれば普通に応対するのだけど、その年齢の女子にありがちな、誰か特定の友人とべったり過ごすということはしていなかった。独りでいることが苦痛でも、恐怖でもないのだろう。――そんな彼女の姿は、ちょっとばかりひとには視えないものが視えるだけの、それ以外は普通としか言いようがないわたしには、少し眩しく映っていたのだった。
 ある朝、登校してから始業までの間を友人と他愛無い話をしながらぼんやりと過ごしていたわたしは、「それ」に気が付いて一瞬ぎょっと身を凍らせた。
 ぎりぎりになって登校してきた例の彼女が、もう、それはそれは満身創痍としか言いようがないほどに――「傷」だらけだったのだった。
「どうかしたの?」
 思わず目を見開いてかたまったわたしに、友人がいぶかしげに声を掛ける。
「や、あの……忘れ物したかもって……思い出して」
「あ、そうなの? 今日って何か特別な持ち物ってあったっけ――」
 曖昧に笑って誤魔化しながら、わたしはちらちらと彼女を見遣った。彼女がどうしてあんな「傷」を負っているのか、わたしにはわからない。昨日はどうだっただろうか――いや、今日は月曜だから先週末になるか、とにかく、少しずつ増えてきたのか、深くなっていったのか、それとも急にできた「傷」なのか。わからないが、あんなにひどい「傷」はそうそう視ないから、放っておいていいとは到底思えなかった。わたしの視える「傷」は血を流さないけれど、彼女の半袖シャツの袖からのぞく両腕には深い「傷」が無数にはしっていて、ぱっくりと割れたその奥はまるで底なしの漆黒のようだった。あんなに「傷」だらけなのに、彼女自身の表情はいつもと変わらず物静かで、そこには少しも苦悩の影はなく、そのことがますますわたしの焦燥感をかきたてた。
 ――で、できるだけ早く治してあげなきゃ。
 使命感のようなものに突き動かされて、どうにか彼女に触れられる機会を作るべく考えた――実は、こういうときのための技を、既にわたしは思いついていた。というのも、「傷ついて」いるのを見て見ぬふりができるほど他人行儀ではなく、だけどそう簡単に腕に触れられるほど近しくもない、そういうひとの「傷」に触れたい、というのは、今までにも何度かあったことだからだ。
 ……とはいっても、そうたいしたことをするわけではない。へんに目立つのも良くないし、警戒されてしまっても意味がない。休み時間、教室内でちょっとばかり移動するとき、わたしはさりげなく彼女の座席の近くを通り、ついうっかりを装って、ペンケースを取り落して中身をぶちまけた。
「あっ、ごめん!」
 床に転がったシャーペンとカラーペンが数本。そのうちの一部が彼女の椅子の下に転がっていく。彼女は無言で腰を屈め、それを拾い上げてくれた――わたしの目論見通りに。
「ありがと!」
 差し出されたそれを受け取りながら、わたしは、あっ、と声を上げた。……いささかわざとらしくなってしまったかもしれない。
「やだ、虫? なんかついてる」
「え?」
 つぶやくように彼女は言い、そしてわたしの手が彼女の無数の「傷」の中で最も深そうなものに軽く触れる。あとはつぶやくだけ――「いたいのいたいの、」
「――いや」
 彼女は静かに、それでいてきっぱりと遮った。
「そういうのは、いいから」
「えっ」
 わたしは驚いて、思わず真っ直ぐに彼女を見つめてしまった。――彼女の瞳の中に、間の抜けたわたしの顔がはっきり映っている。ということは、つまり……彼女もまた、わたしを見つめていた。
「だから――とにかく」
 声を潜めて、彼女は言う。多分、それは――わたしのためだったのだろう。
「『それ』を、やめといてほしいって言っているの、あたしは」
 いつの間にか、彼女はやんわりとわたしの手を握って、自分の腕から遠ざけていた。わたしがそのことに気付いたのを察してか、彼女はぱっと手を放す。でも、やっぱりその腕にはたくさんの「傷」があって、とても痛そうで、それで――。
「え、えっと……」
「ま、そういうことだから」
 彼女は真顔のままそう言い切ると、話は終わったとばかりに立ち上がり、混乱して黙り込むわたしを置いて教室をすたすたと出て行ってしまったのだった。
 残されたわたしはおもう――いいから、って何が?
 ただ、触られたくなかった、というだけのようには思えなかった……まるで、彼女はわたしのしようとしていたことを知っていたようだった。ということは、彼女はわたしと同じように「傷」の視えるひとなの? だとしても、なぜ断った? やめてほしいって――どういうこと?
「…………」
 ぼんやりとしているうちに予鈴が鳴って、わたしは自分の席にすごすごと戻っていく。鞄の中に入れっぱなしにしていたスマートホンを一瞥して――着信LEDが点灯しているのに気付き、わたしはさっと画面に指を走らせた。表示されたのは、見慣れたトークアプリのポップアップ。だがその差出人からメッセージが来たのは、多分初めてのことだろう。わたしはそこに書かれた素っ気ない文字列を読み、そして「了解」とだけ返事をした。絵文字もスタンプも使わないなんて、滅多にないことだけれど、でも今はそれでいいのだと思った。――彼女から来たメッセージにも、どちらも使われていなかったし。

 放課後、わたしは適当な理由をつけて友人たちと早々に別れ、駅前のファストフード店に向かった。あまり食べると夕飯に響く――とは思いつつ、ついつい匂いに惹かれてポテトのスモールサイズをオーダーしてしまう。炭酸飲料とポテトの載ったトレイを手に持ってきょろきょろしていると――やっぱり夏は薄着な人が多いから、「傷」が目立って良くない。目がちらついて、なかなか目的の人物を探し出せなかった――「こっち」と、小さいが良く通る声がして、視線をその方向にやると、その先の席に彼女が座っていた。彼女の目の前にもやっぱりスモールサイズのポテトがあって、わたしは思わず笑ってしまう。
「ごめん、待たせたかな」
「いや、そんなに」
 彼女とこうして向きあって話をするのは、初めてのことだった。何しろ、わたしたちは特別仲が良いわけではなかったから。わたしは少し緊張していたのだけど――何しろ、目の前の彼女の腕は見ていられないほど「傷」だらけだし――彼女はというと、平然とポテトをぱくついている。そうしながら、ちらりと上目遣いにわたしを見た。
「で? あたしに何か用があったんじゃないの」
 「話があるならきくけど」、と彼女がメッセージの中で指定したのが、この店だったのだ。
「う、うん――用っていうか、その」
 わたしは口ごもる。一体何から話せばいいのか……。
「さっきさ……その、突然触ったりして、嫌だった?」
「別に」
 彼女は端的に答えた。
「それが嫌だったわけじゃないよ――ただ、何となく妙な予感がしたんだよね」
「妙な?」
「うん」
 彼女は頷いて、わたしを真っ直ぐに見たまま言葉を続けた。
「なんか変に聞こえるだろうけど……、あの時急に何かをなくしてしまうんじゃないかって、そんな気になって」
「なくす……?」
「そう」
 それが勘だとすると、かなり鋭い――それは多分、「傷」にまつわる記憶のことなのだろう、とわたしは思った。それは別になくしてもいいものじゃないだろうか。むしろ、なくなった方が良いものだと思うのだが。
「…………」
 わたしはちらちらと彼女の腕を、そこにある「傷」を見てしまう。痛々しいそれを、治してあげたいと思う――せっかくわたしにその力があるのだから、だから……。ああ、でももし本当のことを言ったとして、彼女は信じてくれるだろうか? 今まで誰にも理解されなかった、意を決して話しても途中でへんな空気になって、冗談よ、と誤魔化して終わらせてきた、この力のこと。彼女は受け入れてくれるのだろうか。馬鹿にされないだろうか。気味悪がられないだろうか。
 わたしがだらだらと悩んでいる間、彼女はまるでわたしの決断を待つように、じっと黙ってポテトを食べ続けていた。みるみるうちに、ポテトは減っていく……。
「……あのね」
 そうして、わたしは決めた。話そう。
「…………」
 彼女は目を丸くして、それでも真剣に聞いてくれているようだった。
 傍からは女子高生がファストフード店でただおしゃべりに興じているだけに見えるだろうが、その中身はといえば、「自分には心の『傷』が視えるのだが、あなたの腕にたくさんの深い『傷』が視えたので消したいと思った」――だなんて、まるきり非現実的なことなのだった。
「あー、それで」
 わたしが話し終えると、彼女はしたり顔で言った。
「あたしの腕に触れて、その『いないいないばあ』をやろうと思ったのね」
「違う、『いたいのいたいの、とんでいけ』――よ」
 改めて口に出してみると、何とも恥ずかしい。そう、それよ、と彼女は鷹揚に頷く。
「……信じてくれるの」
 おそるおそる尋ねると、彼女はあっさりと答えた。
「まあ、別に本当でも嘘でも、どっちでもいいし――でも、もともと仲良くもないあたしに関わろうとしたり、わざわざここまで来たりするあたり、本気みたいだし」
「…………」
「触れられた時のあの変な感じ、『なくしそう』と思った感じが、その、『忘れそう』になったときの感覚なんだって考えると、それはそれでしっくりくるような気もするし――ね」
「…………」
 彼女があまりにも平然としているものだから、わたしは困って誤魔化すようにストローをくわえる。氷がだいぶ溶けて、炭酸も抜けたせいか、味が薄くなったように思った。
「そういうことだとするなら」
 彼女もまた、ひとくちストローを啜って、すぐに口を放した。
「あたしが言いたいのは――まあ、放っておいてってこと」
「えっ、なんで?」
 わたしは思わず強めの口調で聞き返した。
「なんで、そのままにしておくの――そんなに」
 と、わたしは思わず顔をしかめてしまう。
「そんなに、痛そうなのに」
「そんなに痛そうなんだ、あたし」
 彼女は苦笑した。わたしは食い下がる。
「何があったのか知らないし、聞く気もないけど……でも……」
 せめて、傷を治すくらいのことはしたっていいんじゃないかしら。――弱々しく主張して、ああ、これ余計なお世話と言われるだろうな、と予想して気分が落ち込んだ。でも、なぜ彼女はそう頑なに「傷」を治すことを拒むのだろうか。それとも、その原因を忘れることを嫌がっているのだろうか。
「別に、無理矢理治してもらわなくてもさ」
 彼女の口調は特に気分を害したふうでもなく、穏やかで、むしろ優しかった。
「時間が掛かっても、自然に治るよ――治せるよ、多分」
「でも、時間が掛かるでしょう……?」
「掛かったっていいじゃない? 忘れて、なかったことにする方が、あたしはいやだな」
「…………」
「そりゃあ、あたしだって好き好んで傷つきたくはないよ、それは本当。正直、今もいろいろ辛いことはある――でも、傷つくたびにそれを忘れて、傷つかなかったことにして生きていくことなんてできないでしょ?」
「小さい『傷』なら、それでもいいと思うけど……でも……」
「大きい傷こそ、だよ」
 彼女はきっぱりとそう言い切った。
「そいつはあたしを変えるわ――いいようにか、悪いようにか、それとも善悪ではあらわせないような影響を与えるのか、それはわからないけど……とにかく、あたしはそいつによって変化する。成長する。少なくとも、あたしは負けはしない。忘れてなんてやらない」
「…………」
「それに、なんていうか……」
 彼女は少し、はにかむように視線を逸らした。
「傷ついたときに思い切り泣いたり、怒ったりした自分のこと、自分が忘れちゃったら可哀相でしょ……あのときはつらかったけど良く頑張ったね、ってさ、自分が覚えておいてやらないと、行き場がないような気がして……」
「…………」
 わたしはじっと自分の手を見下ろした。……たくさんのひとの「傷」を、わたしは消してきた。もしかして、わたしはものすごく間違ったことをしてしまっていたのだろうか。徹頭徹尾、余計なお世話をしてしまったのだろうか……。
 沈んだ顔のわたしに気付いて、彼女は少し困ったような顔をした。
「いや、別にあなたは何も悪いことをしてないんだから、そんな顔しないで。あたしには『傷』視えないから、あなたの『傷』は消せないよ?」
「うん……でも、そうね」
 「傷」を消そうなんてことは、しない方がいいのかもしれない――わたしはそう思った。
「何のために、こんな……」
 ぽつり、と独り言のように呟く。
 心の「傷」なんか、視えたって仕方ない。今までは治すことを大義名分にしていたけど、それもどうやら違うらしい。ただ視えるだけなら、本当に意味がない……。
「まあ、確かにそういうのが視えるといろいろ気になって厄介そうだけど」
 彼女は穏やかに言った。
「でも――あなたにそれが視えたから、今こうしてあたしたちは話をしている」
「…………」
 確かに、こんな機会でもなければ、わたしたちがこうしてふたりで話をすることなんて、きっとなかった。
「なんか、あたしも少し気が楽になった」
 ――誰かに気にかけてもらう、心配してもらうって、それだけでちょっと気分が良くなるね。
 わたしは顔を上げて、そしてはっと息をのんだ。
「『傷』……少し、小さくなって……」
「そう?」
 彼女が笑って両腕を上げてみせる。変わらずひどい「傷」だらけではあるけれど、朝視たときより――いや、さっき店の中に入ってすぐに視たときよりも――「傷」は少しだけ、治りかけているようなのだった。
「じゃあ、さ――見守っていてよ。日々ちゃんと治っていくかどうか」
「…………」
「ね?」
「わかった」
 わたしは頷く。
 そうか……。
 こそこそと「傷」を治すなんて真似をしなくても――忘れさせなくても、「傷」を負ったひとを気に掛けて、声を掛けることはできる。多分その方がずっと難しくて、だけど、きっとその方がいい。
「ありがと……」
「それはあたしのセリフよ」
 彼女はそう言って、残りのジュースを一気に飲み干す。その腕の「傷」はやはり痛々しくて、だけどわたしはもうその「傷」を見つめたり、変にちらちらと窺ったりはしない。その「傷」の持ち主から目を背けなければいいってことが、そのときようやくわかったのだから――。

 以来、わたしは「いたいのいたいの、とんでいけ」と唱えるのをやめた。その代わり、その「傷」の相手をよく見るようにした。声を掛けるのがいいのか、それともしばらく見守っているのがいいのか――その判断は時にとても難しくて、何度も失敗したけれど、そのたびに励ましてくれたのは彼女だった。
「自分の『傷』は視えない――って、都合がいいんだか悪いんだか、ね」
 相変わらず時々深い「傷」をつけて――結局その「傷」の理由は聞かずじまいなのだけど――彼女は笑う。きっと、あなたも「傷」だらけだと思うわよ。そう言われて、わたしは笑って言い返す。
「満身創痍でも、案外大丈夫なものよ」
 「傷」はいつか治るものだ。そう願いさえすれば、そう努めさえすれば。
「ふふ、」
 彼女は笑って腕を組んだ――前そこにあった深い「傷」は新しくできた薄い皮膚に覆われて、既に「傷痕」になっている。
 そのやわらかな「傷痕」こそが、彼女の生きている証なのだろう……。