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ほたる灯篭

 夏になると、ぼくはまたこの町に戻って来る。

 都会から車で二時間ほどかかるこの町は、温泉も出ないし他の観光資源もない。ただ長閑なことだけが取り柄の、のんびりした場所だ。
 ここに帰って来ると、あまりにも去年と何も変わっていないから、この町では時間が止まっているのではないかとさえ思う。
 知り合いがいないせいかもしれない。ぼくはこの町の人間ではなく、父が元町民。でも、ほとんどここには帰っていなかった。

 それなら何故……、
 ぼくはここに戻って来るのだろう。

 ぼくが町に帰って来ると同時に、夏祭りが始まる。期間は八月十二日から十五日までで、毎年同じだ。
 ここ数年は最終日に打ち上げる花火の効果で、ちらほらと町の外の人も訪れているらしい。
 浮き足立つ町のそこここにのぼりが立ち、公園にはやぐらが組まれ、道行くひともそわそわと落ち着かない。
 毎年、ぼくはそんな町を祭りの中心から少し離れた場所から眺めている。

 町の者ではなく、観光客でもなく。
 ぼくはこの町にとって、一体何なのだろう。
  
  × × ×

 八月十二日、夜。
 屋台の並ぶ辺りを避けて、ぼくは町の西を流れる川辺を歩いていた。人影はなく、祭りの喧騒もここまでは届かない。
 山の中腹にあるこの町の夜は、少し肌寒いくらい涼しくなる。ぼくは半袖シャツから出た腕をさすりながら、それでも気分はひどく爽やかだった。
 ぼくは、この町のこういうところが好きなのかもしれない。
 水音と、時折風に吹かれて葉がこすれる音。
 暗闇に慣れた目にも、世界はそのシルエットすら明らかにしない。
 自分の輪郭が曖昧になっていくような、そんな感覚。
 心地よい。

 ──不意に、ひかりが舞った。
 小さなひかり。
 それは一つではなく、数え切れないほどに。
 川面に映り、揺れる。
 ぼくはその正体を悟り、目を疑った。

 ──蛍……?

 まさか。
 蛍の季節は梅雨の前、初夏の頃ではなかったか。
 今頃蛍が、それもこんなに……?
「蛍は」
 立ち尽くすぼくの目の前に、すうっと人影が浮かび上がる。
「かつて、亡くなったひとの魂だと言われていた」
 ひかりが形をなしたようなそれは、白いワンピースを着た女だった。声は若い。肌が服と同じくらいに白く、まるでうっすらと闇を透かしているようだ。
「…………」
 彼女が姿を現すまで、ぼくは何の気配も感じていなかった。当惑して、黙り込む。
「もしそうなのだとしたら、蛍は、帰ってきたのかもしれない……ひとの魂と同じように、西方の浄土から」
 微笑。蛍の灯りに浮かび上がるそれは、なまめかしいほどに。美しかった。
 
  × × ×

「お祭りに行かない?」
 翌日も、同じところに彼女はいた。
 別に会いに来た訳ではなかったが、何となく彼女がいそうな気がしていたのも事実。彼女がいなかったら、きっとぼくは落胆していただろう。
 今日は蛍はいない。その代わりでもないだろうが、彼女は紺地に蛍が描かれた、浴衣を着ていた。
「…………」
 黙って首を横に振ると、彼女は少し顔を曇らせた。
「…………」
 何となく彼女にそんな顔をさせたのが悪いような気がして、ぼくは考えるように首を傾げた。
 彼女は軽い足取りでぼくに近付く。足元に、赤い鼻緒が覗いていた。
「行きましょう?」
 高く結われた髪を飾る花の名前を、ぼくは知らなかった。

 彼女は人混みを少しも苦にしていないかのように歩く。ぼくはその後を黙ってついていった。
 屋台の匂い、こどもたちの歓声、和太鼓の音。
 夏の夜を焦がすほどの熱気だった。

 これは、
 生きている者のための祭り。
 
 ここでは蛍は舞えない。

 彼女は足を止めなかった。
 いつしか祭り会場を通り抜け、喧騒は近付いてきたときと同じくらいゆっくりと遠ざかる。
「もう少し」
 彼女の声にうなずく。振り向かない彼女には見えなかっただろうけれど。
 やがて、かすかなさざめきが風に乗って聞こえてきた。
 村の外れ、古い公民館に灯りが灯っている。彼女の目指すところはそこなのだと、ぼくは直感した。
「……間に合ったようね」
 やはり、彼女の下駄はそこを目指している。
 
「おや」
 彼女が扉を開けると、中にいたひとたちが一斉に顔を上げた。
 年配の者が多い。少なくとも、全員が彼女よりは年上だろう。
「ほたる」
 中でも年長の類に入るであろう、一人の老婆が彼女を見て微笑んだ。
 ――彼女の名前がほたるというのだと、ぼくはそのとき初めて知る。
「お客さんかい?」
「ええ」
 彼女は振り向く。ぼくに話しかけるためのようだ。
「ここでは灯籠を作っているの。明日の夜、あの川で流すために」
「…………」
「魂がお帰りになる、みちしるべになるのだよ」
 老婆はゆっくりと言った。
 その間も手を休めない。
 白い木切れと、薄い和紙。
 それをどろりとした糊で張り合わせ、形を作っていく。
 辺りの者も皆同じで、静かに会話を交わしながら手を動かし続けていた。

 亡くした者を惜しみながら、
 それでもまた、彼らを在るべき場所に帰すために。
 彼らは灯籠を作るのだろう。
 
 手のひらに少しだけ余るその大きさは、
 まるで彼らの想いの収まりきらないさまをあらわしているようで。
 
 気がつくとほたるは広い部屋の一角に陣取り、自ら灯籠を作り始めていた。
 薄い唇を真一文字に結び、真剣な瞳で手元をじっと見つめている。
 ぼくはそれを、彼女の背後からただ眺めていた。

 彼女の髪を飾る花は、朱色。
 
「ほたるちゃんの作る灯籠は、特別だからねえ」
 誰ともわからぬ者が、そう言った。
「そうそう。昔から手先の器用な子だと思っていたけれど」
 ここにはほたると同年代のものはいない。けれど、彼女は完全に場に溶け込んでいた。
「全部、みんなに教えてもらったことよ」
 ほたるは、そう言って笑っていた。
 照れた様子もなく、かといって誇る様子もない。
 多分、彼女は心の底から「みんな」に感謝しているのだろう。
 そのある意味いさぎよい態度が、何だか心地良かった。

 彼女の白い手が紙を折り、刷毛でゆるりと糊を混ぜ合わせる。
 骨組みにぴたりと張り合わせられた紙は張り詰め、少しもたるむことがない。
「今年は何の絵を描くんだい?」
 最初に彼女に声を掛けた老婆が、静かに尋ねた。
「今年は、いいものが見られたのよ」
 細筆に絡みつく指。まるでそれは別の生きもののようで。
 和紙に滲む紺、ほのかな黄。
 薄く刷かれたみどりからは、草の匂いを感じた。
 
「蛍だね」

 老婆は深く頷く。
 ほたるはまるで聞こえてもいないかのように、一心に筆を動かし続けている。
 
 ぼくの脳裏には……、
 あの景色が、蘇っていた。
 
 夜の河原を舞う蛍と、
 それに彩られた、白い彼女。
 
 ――蛍は、かつて亡くなったひとの魂だと言われていた。
 
  × × ×
 
 次の日。
 同じ河原に、彼女はいた。
 だが、彼女だけではない。

 ――光が。
 
 蛍ではない。
 これは、
 灯篭の。
 
 昨日灯篭を作っていた人々がそれぞれ持ち寄ってきたのだと、ぼくは気付いた。
 
 彼女は昨日と同じ浴衣を着ていた。
 長い髪を飾る花は、今日はない。ただ風に靡くままに。
 
「ああ、やっぱり来てくれた」
 彼女はぼくを見て、静かに微笑む。
「…………」
 ぼくは彼女と少しの距離を置いて佇み、じっと見返した。
「はぐれるんじゃないかと、ひやひやしていたのよ」
 ほっそりとした手に抱かれる灯篭。描かれた、蛍。
 その中には、炎が瞬いている。
「貴方が来てくれなければ、意味がないの」
 左右非対称な表情。
 多分それは、泣き笑いだった。
 
「だって、これは……」

 さああああ。
 蛍が、舞った。
 ぼくを囲んで。
 
「貴方のための、灯篭なんだから……」

 ――夏になると、ぼくはまたこの町に戻って来る。

 何故なら夏は……、
 死者がこの世に還るための季節だから。
 
「さあ、」

 彼女の手がぼくを宿した灯篭をそっと、
 
「お還りなさい」

 さらさらと、
 蛍が……、
 灯篭が……、
 散っていく。
 
 魂が……、
 還っていく。
 
 ぼくは……、
 還っていく。
 
  × × ×
 
 ひとり、またひとりと家路に着く中、少女はただじっと川面を見つめていた。
 揺らめく炎がひとつずつ消えていく。
 そのうちのどれが彼女の灯篭なのか、既に少女にはわからない。
 だから、
 いつ彼が還ったのか……、彼女にはわからなかった。
 
 ――やがて、彼女は踵を返す。
 既に、灯篭はひとつも見当たらない。
 
 元の闇を取り戻した川面の上を、蛍が一匹、飛んでいた。