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ブロー海岸

 その日の午後、大陸環状観光列車(トゥリス・トーグ)はブロー駅に到着した。ここは海岸近くの駅で周辺に都市らしい都市もないから、ここからトーグに乗る乗客はほとんどいない。ただ乗客をしばらく散策させるための停車であって、この駅も大陸随一の豪華観光列車と名高いトーグを停めるためだけに作られたもの。そもそも、他路線の乗り入れすらないのだった。
 イェラは日除けのためにつばの広い帽子を被って列車を降りる。ホームは彼女と同じく降りてきたばかりの乗客らで混みあっていたが、彼女は少し離れた場所で手を振る少年の姿に気付いた。
「こっちだよ、イェラ!」
「アッシュ、あまり大声を出すんじゃない」
 ソーンに窘められても、少年はたいして気にする様子もない。イェラは微笑んでその声の方に歩み寄った。
「皆さんも海岸へ?」
「ええ」
 答えたのはアッシュの双子の兄弟――そういえばどちらが兄でどちらが弟なのだろう――エイワズだった。
「ブロー海岸。このトーグ沿線の中でも必見の絶景ポイントらしいですから」
「海なんて滅多に見られないからなあ、楽しみだ」
「遊泳は禁止だからな、泳ぐんじゃないぞ」
「泳がないよ。泳げないし」
 アッシュは即答し、そして少し考えるように首を傾げて言った。
「でも、靴を脱いで少し足を浸すくらいはいいだろう?」
「まあ、それくらいなら」
 しぶしぶと言ったようにソーンが頷く。
「けど、思いのほか強い波が来て足元を浚われないとも限らないんだから、気を付けろよ」
「大丈夫、気を付けるよ。なあ、エイワズ」
「ああ」
 ――目に見えてはしゃいだ様子のなかったエイワズも、海には入るつもりだったのね、とイェラはおかしくなった。
「さあ行こう、イェラ。停車時間は三時間だ」
 言いながら駆け出しかねないアッシュに促され、イェラは駅の西側に広がるブロー海岸へと向かったのだった。

 一面に眩しいほどの白い砂浜が広がっている。イェラは目を細めた。
「わあ……」
 アッシュは息を呑んだようだった。
「海、だな……」
 エイワズの平坦な声にも、隠しきれない感動が滲んでいる。
 砂浜に打ち寄せる波の音が、良く晴れた青空に響いていた。水平線は何にも阻まれることなく、緩やかな円弧を描いている。陽光によってふんだんに装飾されて、まるで豪華なティアラのような輝きだわ、とイェラは思った。
「ここは夕暮れが本当に美しいのよ」
 イェラの言葉を聞いていたのは、傍らにいたソーンだけのようだった。
「日没後の出発ですから、見られそうですね」
「ええ、そうね」
 双子はというと、早速浜の上に靴や靴下を脱ぎ棄てて、じゃぶじゃぶと海水の中に足を浸している。乗客に他にも子供がいればきっと同じような行動を取ったのだろうが、目に映るのはイェラらのようにゆっくりと海岸を散策する老夫婦の姿ばかりであった。
「やれやれ」
 ソーンは困ったように肩をすくめながらも、手にしたバッグの中にはタオルが見えている。きっと彼らの足を拭くためのものなのだろう。この分だと、砂や貝殻で足を切ったときのための応急手当セットも準備されていそうだ。
 イェラはくすりと笑った。
「貴方は本当にいい『お兄さん』ね」
「もう十年以上の付き合いになりますからね……」
 ソーンは眩しげに目を細めた。それは何も日差しのせいばかりではなく、過去を思い返しているからでもあっただろう。
「三歳くらいだったかな、あいつらと出会ったのは。恩師であるオロー博士から孫を頼むと言われれば断れないですし……最初はチャイルドシッターの助けを借りながら、何とか」
「大変だったでしょう」
 ソーンは独り身なのかしら、とイェラは思った。少なくとも子育ての経験はなさそうだ。何故、オロー博士は自分の弟子とはいえソーンに自分の孫たちを託したのだろう……。だが、詮索するような不躾な真似はしない。
「大変でした。でも、楽しかったです」
 ソーンのその言葉にも表情にも、嘘があるようには見えなかった。それで十分だ。
 風に乗って潮の匂いが鼻腔を満たす。内陸都市であるノレステル出身のあの双子にとっては、この海岸にあるもの全てが珍しくて仕方がないに違いない。
 ――しばらくして、双子は海辺から戻ってきた。手に靴を持ち、足は濡れて砂だらけである。
 アッシュは満足げな表情だった。
「冷たくて気持ちが良かった。ふたりは入らなくていいの?」
「いや、遠慮しておく」
「私もよ」
 イェラは笑って、海岸に立つ小屋のような建物を指さした。
「そこでシャワーが借りられると思うわ。足の砂を落として来たら?」
「うん、そうする」
「あと、あそこでアイスが買えるわよ」
「アイス?!」
 アッシュがぱっと目を輝かせた。
「それは食べないといけないね!」
「ああ、食べたい」
「……じゃあ行こうか」
 ソーンは苦笑しながら言った。そして、ちらとイェラを見遣る。
「何なら貴方もどうですか? 以前のお返しに、奢りますよ」
「そう? じゃあ、遠慮なく」
 イェラは微笑んだ。

 その小屋は、トーグの乗客向けの簡素な休憩所のようなものだった。空調の効いた室内にちょっとした軽食、帽子やサングラス、タオルなどの小物の販売。十年前とあまり変わっていないわ、とイェラは言う。変わったといえば、店員がヒューマノイドになったことだけ。それも、アッシュとエイワズにアイスを手渡した店員の名札を見て初めて気付いたことだ。
 ソーンとイェラはアイスコーヒーを頼み、イェラはそこに小さなバニラアイスをトッピングした。
「本当に綺麗なところね」
 海岸に面した席に四人で座る。ガラス張りの壁を通して、徐々に水平線に陽の近付いていくさまが良く見えた。
 無事シャワーで砂を洗い落とし、ソーンの持参したタオルで足を拭って靴を履き直した双子は、冷たいアイスを舐めながら海岸を見つめている。二人の金髪は海風になぶられてひどく乱れていた。
「……ブロー海岸」
 ぽつりと言ったのはエイワズだった。
「こんなに綺麗なところだったとは」
「そうだね」
 アッシュが頷く。
「僕らが歴史で学んだのは、ここの血生臭い歴史だったから……」
「…………」
 なるほど、さすがにこの年で大学への入学が決まっただけのことはあって良く知っている、とイェラは思った。
 十年前、亡き夫ソーンはここでイェラに言ったのだった――「今でこそここはただの観光名所だけど、かつては悲劇の海岸だったんだよ」と。それはあまりに後ろ暗いためにほとんど語られることのない歴史、だが間違いなく正史だ。
 このブロー海岸のあるバストランデン地方には、少数民族である「緑の髪の民(グレーントール)」が棲んでいた。その名の通り、緑の髪と日焼けした小麦色の肌が特徴的な、閉鎖的ではあるが牧歌的な民族であったという。数百年前、その「緑の髪の民」を大陸の多数派である「白い民(ヴィート)」が「発見」した。
「彼らにとって、『緑の髪の民』は同じ『人間』ではなかった……少なくとも、同じとは考えなかった。見做さなかった」
 文化が、言語が、見た目が違うから。だから、違うものなのだと。それだけではなく、彼らは自分たちよりも劣っているのだと決めつけた。まるで家畜のように……。
 エイワズがぽつりと言う。
「だから、彼らは『緑の髪の民』を強制的に労働力に――奴隷にすることにした。逆らうものは、この海岸で命を絶たれたという」
 それが、ブロー海岸に残る血生臭い歴史。
「今はもう、『緑の髪の民』はこの大陸にはいない」
 アッシュは寂しそうに言った。
「奴隷にされた者たちは搾取され、虐待を受けて次々に命を落としたし、運良く『白い民』の手を逃れたとされる者たちの行方も杳として知れない。夕暮れに紛れてこっそりと船を出し、この大陸から離れたという伝承もあるようだけど……でも、行き先はわかっていない。この大陸、パンゲア以外に陸地なんて見つかっていないからね。でも、絶対にないとはいえない」
「ないことの証明は難しいからな」
「そうだね」
 エイワズの言葉に、アッシュは頷いた。そして微笑む。
「僕は、きっとあると信じているよ」
「……そうね」
 イェラも同意した。――かつて、夫は「緑の髪の民」は滅びてしまった、と言っていた。正史はそうなのかもしれない。だが、人知れず脱出した者がいてもいいと思う。アッシュと共にその伝説を信じてみてもいいと……いや、信じたいと思う。
 湿っぽくなった空気を、エイワズの声が変えた。
「それを教訓にしてのことかどうかはわからないけど、ヒューマノイドの運用規則には『虐待防止』が盛り込まれている」
 全てのヒューマノイドには、自身が「虐待」と見做されるような暴言・暴力行為を受けた場合、速やかに当局に通報する機能が備わっている。ネットワークに接続されている以上、通報は持ち主の意思に関わらず自動的に行われるのだ。
「当然、違反には厳しい罰則があるんですよ」
「違反した例があるの?」
 ヒューマノイドは決して安価な買い物ではない。それなのに、わざわざそれを傷めつけるような真似をする人間がいるというのか。
「ええ」
 イェラの問いにエイワズが頷くと、アッシュは少し寂しげに笑った。
「人間同士でもあんな歴史があるんだよ、イェラ。端から人間でないもの相手なら、もっと極端な行動に出るものがいてもおかしくないさ」
「…………」
 確かにそれはもっともだ、とイェラは認めざるを得なかった。人間は他者を虐待する。搾取する。それは時に家族であり、他人であり、他民族であり、動物であり、そして自らの作り出したヒューマノイドでさえも……。
「いっそヒューマノイドをもっと普及させて、彼らに私たち人間の行動を監視してもらった方がいいのかもしれないわね」
 イェラはふと言った。
「自分たちに対する不法行為だけじゃなくて、それ以外の不法行為全般も取り締まってくれれば……」
「それを人間が受け容れますかね? いえ、受け容れてしまっていいんでしょうかね?」
 ソーンが言った。はっと見上げた横顔は、いつになく険しいものだった。
「それは、言い換えればヒューマノイドによる監視、統治――支配ということになり兼ねません」
「…………」
 イェラは息を呑む。そこまでは考えていなかった、というのが正直なところだ。
「今のところ、ヒューマノイドからの虐待の通報があった場合、記録された映像と録画を人間が見て、虐待の有無を判断することになっています」
 ソーンは言葉を続け、表情を和らげた。
「彼ら自身に何かを判断させるほど、ヒューマノイドの歴史はまだ長くないですから」
「……いずれはどうなるかわからないけどね」
 ぽつりとアッシュが言った。
「計算上、ヒューマノイドの知性はひとのそれを簡単に凌駕できるはずなんだ。そうしたら、いずれは……」
「アッシュ」
 エイワズが声を上げ、彼の肩を叩いた。
「見ろよ」
「…………」
 ガラス越しに海岸に視線をやったアッシュが、あっと小さく叫んだ。
 日没――。
 西の空は鮮やかなオレンジに染まって、海との境界を曖昧にしている。水平線に接した夕陽はその輪郭を波間で揺らめかせながら、刻一刻と夜の(とばり)にその領域を譲っていくのだった。
「……かつて」
 ぽつりとアッシュが言う。
「あの夕陽を目指して、彼らは旅をしたのかな……」
 アッシュの言う彼らとは、「緑の髪の民」のことだろう。イェラは黙って夕陽を見つめる。
「会ってみたいなあ。どんな人々だったんだろう」
 呟くアッシュに、エイワズが優しい声音で告げる。
「いつか、会いに行くか」
「うん。探しに行こう」
 肩を寄せ語り合う双子を微笑ましく見ていたイェラは、ふと目を上げてソーンを見遣った。
「…………」
 ソーンは夕陽ではなく、双子を見ていた。彼のアンバーの瞳も、今は夕陽で赤く染まっている。その眼差しがどこか不吉なものに見えて――イェラは慌てて目を反らした。