instagram

バーカウンターにて

 ディナータイムを終えた食堂車は、やや照明を落としてバーへと趣を変える。イェラがこの時間帯に食堂車を訪れるのは、今回の乗車では初めてのことだった。客車のシャワーを浴びた体にはさらりとしたワンピースを纏い、薄手のカーディガンを羽織る。どうせ薄暗いのだし、と化粧は控えめにした。別に誰も彼女の顔に注目などしない。
 食事時には避けていたカウンター席に腰掛け、バーテンダーに弱いアルコールを注文する。そのヒューマノイドは畏まりましたと言って、手際良くリキュールを混ぜ始めた。イェラは周囲を見回す――客の影はあまりない。乗客に老夫婦が多いからだろうか。
 大陸環状観光列車(トゥリス・トーグ)は大陸最大のハグリング砂漠を抜け、草原地帯を走っている。このあたりには特に街や遺跡もなく、ただ走り抜けるのみである――時折野生の動物の遠影が見えて、昼間ここで出会った例の双子たちは双眼鏡を取り出してそれらの観察に勤しんでいたが、まあその程度だ。次の駅に停車するのは明日の昼頃。今日は少しばかり夜更かしをして、明日寝坊をしたってかまわないというわけなのだった。
 ――気が付くと、彼女の前には丈の高いグラスが置かれていた。彼女がぼうっとしている間に、カクテルができあがっていたらしい。ちらとバーデンダーを見遣ると、控えめな微笑みが返ってきた。彼女はそのオレンジと、黄色と、桃色が層になった美しいグラスをまじまじと見て、そしてマドラーでふわりと混ぜた。ストローでひとくち吸う――フルーティで美味しい。イェラはあまりアルコールに強い方ではないから、このくらいの度数のものがありがたかった。
「いらっしゃいませ」
 バーテンダーの声につられて振り向くと、ちょうどイェラの入ってきたのとは反対側のドア――つまり、一等客車の並んでいる方だ――から、ふたりの客が入ってくるところだった。ひとりは身なりの良い老紳士、もうひとりはその腕に片手を添えた、中年に差し掛かったくらいの女性。少し年の離れた夫婦かしら、とイェラは思った。ふたりの様子は、到底親子のようには見えない。あまり不躾に眺めるのも、とイェラは視線を前に戻した。くるくるとマドラーでグラスをかき混ぜる。
 ふたりはカウンターの、イェラとちょうど反対側に席を決めたようだった。ちらと見遣ると、ちょうど席に腰掛けるところだった老紳士がイェラに軽く会釈をした。イェラも微笑みを返す。老紳士は落ち着いた声でバーテンダーに注文をしていた。女性の方は口を開かなかったから、多分ふたり分の注文を彼がしたのだろう。バーテンダーは頷き、ふたつのグラスを取り出して二種類のアルコールを作り始める。
 車内にはかすかな走行音と、そして控えめな音楽とが流れていた。静かだ。イェラは思う。とても、静かだ――。
 再び、車内に新たな客が現れた。今度はイェラが入ってきたのと同じ方向から――つまり、二等客車か三等客車の乗客だろう。イェラは振り返り、目を見張った。
「ソーン」
 イェラに名を呼ばれたその男もまた、驚いたように彼女を見つめた。
「やあ……こんばんは」
 少し間の抜けた挨拶をつぶやき、男は困ったように立ち尽くす。既に十分顔見知りといっていい間柄ではあると思うのだが、席を共にするかどうか迷っているのだろう。イェラはくすりと笑った。
「ご一緒にどうですか? それともおひとりの方が気楽かしら」
「い、いえ、そんなことは……」
 ソーンはそのアッシュグレイの髪を掻きながら、イェラの側に歩み寄った。
「よろしいんですか?」
「ええ。話し相手がいればいいな、って思っていたところだったの」
 イェラは思ってもいなかったことを言ったが、しかしそれはまるきりの嘘ではなかった――ひとりで飲むのも良いと思っていたが、ソーンの姿を見たとき、話し相手になってくれるかしら、と期待したのは本当のことだったからだ。
「それじゃ」
 ソーンは遠慮がちにスツールに腰を下ろすと、バーテンダーに向かって聞き慣れない酒の名をオーダーした。バーテンダーはすぐに頷いたから、その酒の種類をイェラが知らないだけなのだろう。
「…………」
 どこかそわそわとした様子で、ソーンが辺りを見回す――その視線が、ある一点で止まり、彼は大きく目を見開いた。彼が見ているのは、老紳士の連れの女性だ。知り合いだろうか、それとも。イェラが何か言うより先に、ソーンははっとした様子で目を逸らした。
 イェラはややわざとらしく口を切った。
「アッシュとエイワズはどうしているの? もう眠ってしまったかしら」
「まさか」
 彼が保護者として預かっている双子の名に、ソーンは笑みを浮かべた。
「野生動物の中には夜間動き回るものも多いですからね。何とかその姿を見ようと張り切っていますよ――窓に張り付いて双眼鏡を見ている」
「夜なのに見えるのかしら?」
「あいつら、夜用のものも持っているんですよ……暗視装置つきのね」
「すごいわね」
 イェラが素直に感嘆すると、ソーンは苦笑した。
「昔から、好奇心旺盛な子たちでね。オロー博士の方針もあって、彼らが興味を持ったことに対してはできるだけの援助をしてやれと」
「それが実を結んだからこそ、あの年齢で大学へ進学ということになったのね」
「少しブレーキを掛けたくらいです。あまり周囲から浮いてしまって、ふたりだけで過ごすようになっても良くないかと思って」
 イェラはわずかに首を傾げる。
「アッシュはあんなに人懐こいのに? エイワズはまあ、少しとっつきにくいところがあるのもわかるけれど……」
「人懐こいからといって、誰とでも仲良くできるかというと……」
 ソーンは苦笑を深めた。
「みんながみんな、貴方のように暖かく彼らを受け容れてくれるわけではないですから」
「……そういうものかしら」
「そういうものですよ」
 ソーンは手元に置かれたグラスを手に取り、ぐっと飲んだ。イェラの前のものよりもずっと小さなそれは、容積のほとんどを氷で満たされている。私のカクテルよりもずっと強いお酒なのだろう、とイェラは思った。
「大変だったでしょうね、子供たちの面倒を見るのは」
「……楽しかったですけどね」
 ソーンは笑う。
「俺はヒューマノイドの研究者でもあるから、どうしてもそういう目で彼らの発達を観察してしまうところもあって……勉強にもなったし」
「ひとの子供の発達が? そういうものなのね」
「ええ……、ただ……」
 言いかけたソーンの唇が、不自然に凍り付く。
「…………」
 言葉を探すように数秒間蠢いたそれは、やがてぴたりと閉ざされた。
 ――ただ、何なのか。イェラはそれを問うことなく、目の前のグラスのストローをくわえた。少しずつ減っていくグラスの中身。かちゃりと氷が小さな音を立てる。
 気が付くと、ソーンはちらちらと例の中年女性の方を見ていた。やはり、知り合いなのだろうか。それとも、ただ好みのタイプだというだけだろうか。イェラは不思議に思いながらも、黙って前を向いていた。壁際に並んだ様々な種類の酒瓶のラベルを、眺めるともなく眺める。――そういえば、ソーンは……亡き夫のソーンは、ほとんどお酒が飲めなかった。ふたりでバーに行っても、彼は申し訳なさそうにソフトドリンクを頼んでいたっけ。それでも、彼と共に過ごすバーでの空気が彼女は好きで、たびたびふたりで出掛けたものだった。

「……お気付きになられましたか」
 突然の声に、イェラは驚いて振り向いた。
 老紳士が、じっとソーンを見つめている――ソーンは少し険しい顔をして、彼を見返していた。
「ええ……僕は専門家なので」
「なるほど」
 老紳士が頷く。傍らの中年女性は、曖昧な笑みを湛えてソーンを見ていた。
「今までほとんど気付かれることはなかったのですがな……専門家に出会ってしまうとは、分が悪い」
 老紳士は不思議そうな顔をしているイェラに気付いたのだろう、わずかに頷いてみせる。
「私の妻は、ヒューマノイドなのです」
「…………」
 思わぬ言葉に、イェラは目を見開く。老紳士は連れの婦人の腕を優しく撫でた。
「特別製の、ね」
「それは……」
 ソーンが低い声で尋ねた。
「亡くなった奥様に似せて作らせた、ということですか?」
「そういうことです。……あまり老けないようでね。妻はいつまでも若々しい」
 愛しげにつぶやき、老紳士は目を細める。
「私の知る限りの妻を教えて、そっくりに振る舞うようになってくれた。こうして旅にも付き合ってくれる」
「……なるほど」
 ソーンが気遣うようにちらとイェラを見た。彼女が同じように配偶者を亡くしていることを思ってのことだろうか。別にそんなこと、気遣ってくれなくてもいいのに、とイェラは思った。
 もし、亡き夫にそっくりなヒューマノイドが作れると言われて……自分はそれを望むだろうか。それは夫の代わりになるのだろうか。
「個人所有の、個人製作のヒューマノイドにはいろいろと規制がありますが、その辺はクリアしておられるのでしょう? だったら何の問題もありませんね」
「もちろん、非合法な真似は一切しておりませんとも」
「でしたら、ただの僕の不作法です。立ち入ったお話を、申し訳ありませんでした」
 ソーンは頭を下げる。老紳士は、いやいや、というように手を振ってみせた。
「謝っていただくことはない。それに、いずれはそう珍しいことでもなくなるかもしれませんよ」
 ――ヒューマノイドを、家族として迎えるということが。
 老紳士に寄りそう「妻」は、優しい目で夫を見つめていた。
「元の妻を亡くして十数年が経ち、そしてこの『妻』を迎えて数年が経ちます。私はこの『妻』を愛しているが、それが元の妻に似ているから、ただそれだけで愛せているのか、それとも彼女そのものを――彼女と過ごした年月そのものを愛しているのか、自分でももうよくわからないのです」
 もしくはそのどちらも――なのかもしれない。
 イェラの目は、そのヒューマノイドの顔に浮かんだわずかな寂寥の影を見逃さなかった。……「彼女」自身も、もしかしたら葛藤しているのかもしれない。重ねられ続ける亡き妻の影に。ヒューマノイドに、そこまでの心の機微があるのかどうか、イェラにはよくわからなかったが……。
「そろそろお暇しようか、アイシャ」
「ええ」
 老紳士は妻の手を取り、ゆっくりと立ち上がった。
「それでは、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
 イェラは黙って会釈を送る。アイシャと呼ばれたそのヒューマノイドは少しだけ彼らを振り返り、そして夫に腕を絡めて一等客車の方へと立ち去っていった。

「……なんか、すみません」
「別に、謝られるようなことは何も」
 頭を下げるソーンに、イェラは苦笑してそう答えた。
「あの方も怒っていたわけではなさそうでしたし。むしろ、誰かに話せて少しほっとされていたような気もしますよ?」
「そうでしょうか……」
「ええ」
 イェラは頷く。別に、ソーンの気を軽くしようとして嘘を言ったわけではない。何となく、そんな気がしたのは事実だった。
「でもよくわかりましたね? 私、全然気が付かなかった」
「……実は」
 ソーンは小声で言った。
「あのヒューマノイド、オロー博士のところで見たことがあって」
 個人所有の特別製のヒューマノイドで、その調整を頼まれているとオロー博士が話していたのを、ソーンはぼんやりと覚えていたのだという。
「ああ……」
 そういうわけで、とイェラは頷く。
「でないと、今のヒューマノイドは見た目だけでは人間と区別はつきません」
「そう……ですよね」
 イェラはつぶやいた。
 ――もし、自分に十分な資金があって、亡き夫そっくりのヒューマノイドが作れるとしたら。自分はそれを望むだろうか。自分の記憶の中の夫をありったけ詰め込んで、そうしてできあがった「夫」を、私は……。
 わからない、とイェラは思った。夫の好きなものを私は良く知っている。嫌いなものだって知っている。どんなふうに話すか、どんなふうに笑うか、どんなことに興味があって、どんなひとが好きで、どんなふうに歩いて……だけど、それは全部私を通してみたあのひとでしかない。私から見たあのひとでしかない。それを元に「夫」を作ったとしても、それはもう元の夫ではなくて、私の思い描く「夫」に過ぎなくなってしまう。それでもきっと、私は「夫」を愛するだろう。そして、ヒューマノイドである「夫」は私の愛に応えて、私の思う「夫」により近づこうとするだろう。それこそが、ヒューマノイドの原点なのだから。けれど……そうだとするならば、「夫」はどんどん本来の夫から遠ざかってしまうのではないか。私も気付かぬうちに、別人へと変貌を遂げてしまうのではないか……。
 ――本当の夫のことを、私は忘れてしまうのではないか。
 それはいやだ、とイェラは思った。
 あの老紳士の選択を非難するつもりはない。そんなことはできない。でも、自分はきっと同じ選択はしない。
 ほんとうに?
 ほんとうにそうと言い切れる?
 イェラの脳裏に、彼の言葉が蘇る。
 ――いずれはそう珍しいことでもなくなるかもしれませんよ。ヒューマノイドを、家族として迎えるということが。
「イェラ? 少し顔色が……」
 ソーンの気遣わし気な声に、イェラははっとした。
「ご気分が悪いのですか?」
 バーテンダーが、じっと彼女を見つめている。このヒューマノイドが彼女の健康に問題があると判断すれば、すぐに医務係へと連絡をとるのだろう。
 イェラは笑って首を振った。
「いいえ。少し夜更かしをし過ぎたみたい。もう戻って寝ますわ」
「送りますよ」
 ソーンが立ち上がる。
「何かあれば、いつでもご連絡を」
 部屋に備えられた緊急用ボタンの位置を簡単に説明して、バーテンダーは一礼した。
「おやすみなさいませ」
「ええ」
「ごちそうさま」
 口々に言って、イェラとソーンはバーカウンターを後にした。

「イェラ、本当に大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。眠ればすっきりするわ」
 イェラの客室の前で、ソーンは心配そうに彼女の顔を見下ろす。
「それならいいけど……」
「おやすみなさい、ソーン」
 イェラは微笑む。ソーン。大丈夫だ、私はこんなにも普通にこの名を呼べる。貴方と同じ、この名前を。
「――いい夢を」