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イディレン地区

 大陸南部、セーデル地方には豊かな穀倉地帯が広がっている。大陸環状観光列車(トゥリス・トーグ)の走る線路の脇にも、見渡す限りに緑の穂が波打っていた。北方のノレステル地方では見られない光景である。
「セーデルで収穫される穀物は、大陸全体の七十パーセントを占めている」
 窓際に座るエイワズが、独り言のように言った。ここは二等客車に併設されたラウンジである。二等客車の乗客なら自由に立ち入ることができるし、ちょっとしたソフトドリンクと軽食をセルフサービスで楽しむこともできる。窓の大きな、景色の良い客車であるが、今ここにいるのはオローの双子とイェラだけだった。
「セーデルには大規模な農場が多いことも特徴だね。一軒一軒が独立した農場を営むのではなく、広大な農地を法人で所有し、経営する。効率的なやり方だ」
「確かに、その方が思い切った設備投資もできるだろう」
 アッシュが頷いた。
「昔から、工業の北部、農業の南部って言うものね」
 イェラはそう言った後、エイワズをじっと見つめた。
「それにしても本当にいろいろと物識りなのね、エイワズは」
「……知識を得ることが好きなんです。それがなんであっても」
 エイワズはそのあざやかな紫眼を控えめに伏せた。
「物を知れば知るほど、世界が僕に優しくなる気がして」
「……優しく?」
「うまく言えないけれど」
 エイワズは珍しく、少し困った顔でアッシュを見た。助け舟を求めているようでもある。
「知らないものって怖いでしょ?」
 アッシュがにこやかに笑ってそう言った。
「人間が死ぬのを怖がるのは、一度しか死ねないから。死を知りようがないからだ」
「……まあ、確かにそれはそうかも」
 イェラは苦笑する。――夫は怖かっただろうか。怖がる暇が、彼にはあったのだろうか。あの事故では即死だっただろうと聞いたけれど……。
「アッシュよりも僕の方が怖がりだから」
 エイワズは言った。
「だから、僕は知識をかき集めたくなる。知っておけば、怖いものが減るような気がして」
「僕はエイワズが教えてくれるから、それに甘えているのさ」
 アッシュはそう言ってエイワズの肩を叩いた。
「もし僕がひとりだったら、きっと自分で調べていたと思う」
「仲良しね、ふたりとも」
 イェラが微笑むと、ふたりは顔を見合わせた。
「……こんなものでしょう」
「うん、こんなものだよ」
 返ってきた台詞までもがあまりにそっくりで、イェラは思わず笑いだしそうになるのを、あわててストローをくわえることでかろうじて耐えてみせたのだった。

「次のイディレン駅――というか、セーデル地方の中でもイディレン地区は、ちょっと変わっていて」
 エイワズはフルーツジュースを飲みながら、とつとつと語った。
「あそこはヒューマノイドの立ち入りを禁じているんですよね。トーグの乗員も下車はできません」
「ああ、そういえばそうだったわね……」
 イェラはかつて読んだニュース記事を思い出す。
「確か、歴史あるイディレンにはそぐわないとかなんとか……?」
「イディレン地区の歴史ってったって、ロメリオより古くはないんだけどね」
 アッシュが言って肩をすくめる。
「でもまあ、そのへんは自治区の自由だから」
「ヒューマノイドに頼らず労働力が維持できるなら、それもひとつの選択ではあるよね。……いつまでそれが維持できるかはともかくとして」
「でも、どうやって識別するの? わざわざひとりひとりスキャンするのかしら?」
「確か、IDの提示と登録を義務付けているんじゃなかったかな」
 大陸に住む人間には、ごく一部の例外を除いて必ずIDナンバーが割り振られている。様々な情報――家族、教育、医療、そして納税に至るまで――がIDに紐づけられ、そのナンバーを登録したチップが各個人の、ちょうど左手の親指の根元の窪みにあたる場所に埋め込まれているのだった。それを体表からスキャンすることで、簡単に個人が特定される。IDは個人情報の最たるものであるから取り扱いは厳重に行われなければならず、わざわざ自治区への立ち入り程度でIDへのアクセスが求められるのは、やや大袈裟にも思われた。当然ながら、ヒューマノイドにはそういったIDは存在せず、代わりに製造物として識別するための固有の機体番号が与えられている。
「……『解剖学的嗅ぎ煙草入れ』ってやつね」
 イェラがちょうどIDチップの埋め込まれている部位を撫でながら言うと、双子はきょとんとした顔で彼女を見た。――あら、博識な双子にも知らないこともあるのね。イェラは少しばかり嬉しくなって、説明する。
「その、IDチップが埋まっているところ。『解剖学的嗅ぎ煙草入れ』って言うのよ。昔はその窪みに嗅ぎ煙草の葉を置いて吸っていたんですって」
「へえ」
 ふたりは己の左手をじっと見つめた。
「嗅ぎ煙草……か」
「煙草そのものも、もう見かけないものね。セーデルのどこかにはまだ習慣として残っているっていう噂もあるけれど」
 イェラは懐かしげに目を細めた。
「私の祖父はまだ吸っていたけれど……、でも祖父が亡くなって間もなく、見掛けなくなってしまったわ」
「嗜好品というには害が大きすぎましたね」
 エイワズが遠慮がちに言う。イェラは頷いた。
「そうね。祖父の死因にも、煙草が関わっていたらしいから」
「いっぺんくらいは吸ってみたかった気もするけどな」
 アッシュはそう言って笑う。
「エイワズは、どう?」
「……僕は、いいかな」
 エイワズは首を横に振った。
「アッシュに感想を聞かせてもらうとするよ」
「ま、そうなるか」
 アッシュは声を立てて笑った後、やがてふっと真顔になった。それはアッシュの思考が何かに集中し始めた合図だ、とイェラは既に知っている。彼はそういう少年だ。彼の思考はいつだって軽やかに飛翔する。
「ところで――さっきの、ヒューマノイドの識別の話だけど」
「ああ」
 エイワズが頷く。
「IDと機体番号で識別するのは簡単だけど、それ以外ではどうなんだろう」
「見た目……ということ?」
 見た目だけでは難しいだろう、とイェラは思う。最近のヒューマノイドはとても精巧にできていて、一見しただけではそれが人間なのかヒューマノイドなのかは区別できない。いや、まじまじと見つめたとしても、きっと難しい。最新の人工皮膚や人工筋肉をまとった彼らの骨格は、既に触感すらも人間に近いのだ。
 だが、エイワズは首を横に振った。
「見た目もそうですけど……たとえば」
 人間でも、病気や怪我を理由に体の一部を機械に置き換えることがある。たとえばそれは臓器であったり、四肢であったりもする。そういった技術の開発や進歩に、ヒューマノイドの存在は不可欠だった――と言われている。逆説的であるようだが、ヒューマノイドを運用する過程で人工臓器や義肢の技術は飛躍的に発展したのだ。
「ヒューマノイドはあくまでロボットです。でも、彼らの素体のモデルは人間だ。人間が、自分たちに使える材料で作った人間。それがヒューマノイドなんですから」
 ――神話の神が自らの姿に似せて骨と肉で作り上げたもの、それが人間だったというのと同じように。
「ひとの体をどんどん機械に置き換えていったとして」
 アッシュはその紫眼を細めた。
「どこまで置き換えたら人間でなくなるのかな? それとも、どれだけ置き換えてもそれはやっぱり人間なのかな?」
「それは」
 イェラは思わず唾を呑んだ。
「どれだけいっても、人間……なんじゃないかしら」
「脳を置き換えてしまっても? ヒューマノイドと同じ、人工頭脳に置き換えたら? それでも人間? IDさえあれば、人間?」
「…………」
「現実には、そういった行為は許されていないがな」
 エイワズがアッシュを窘めるように言った。
「脳死した脳を人工頭脳に置き換えることは禁止されているよ」
「知ってる」
 アッシュはあっさりと言う。
「でも、これはただの思考実験だから」
「…………」
 イェラは思わず手元のグラスに目を落とした。溶けた氷が薄い色水となって、グラスの底を覆っている。
「反対に、ヒューマノイドが人間として扱われるためには何をクリアする必要があると思う?」
 アッシュは恐れを知らない。彼の脳裏に浮かんできたのであろう疑問を、次々に提示してくる。
「……ヒューマノイドには本当の人格があるわけじゃないでしょう? だから……」
 イェラはどこか息苦しさをおぼえながら言った。
「彼らには人格の基本となるプログラムがあって、それに対して周囲の人間が反応する、それを体験し記憶することでプログラムを自己修正し、変化させていくんだって……」
「そうだね、中央サーバからのフィードバックもあるし」
「でも」
 エイワズがぽつりと言った。
「もし、サーバから独立させたとしたら……?」
 イェラには、エイワズが何を言おうとしているのかわからない。
 だが、アッシュには問題なく理解できているようだった。
「うん。サーバから独立して、周囲の反応からのみ自己を改変していく人工頭脳があったとしたら」
「……したら?」
「それって、人間と何が違うの?」
「え?」
 イェラは聞き返した。違うに決まっている。イェラは直観的にそう思った。だが、アッシュはゆっくりと説き明かしていく。
「人間にも、生来『本能』だとか呼ばれる基本プログラムが内蔵されているわけだよね。それを持って生まれた僕らは、親や周囲の人々から様々な刺激を受け、その反応を学習し、記憶して、自我というものを発達させていく」
「…………」
「こうすると相手は嫌がる、逆にこうすれば相手は喜ぶ、こうされると自分は快適だ、不快だ、そこからさらに、相手を自分の思うように振る舞ってもらうためには自分がどう行動すればいいのか、どのように自分を表現すれば自分にとってこの世界は都合のいいものになるのか。僕らは常に、周囲の刺激から自己を変化させている。それが意識的であれ、無意識下であれ、ね」
「それって、ヒューマノイドと同じことだ。彼らは人間の反応を元に自己を組み替えていく。所有者にとって、つまり所有されている自分にとって都合が良いように」
 エイワズが付け加えた。アッシュが頷く。
「そう。今のところ、ヒューマノイドには個がない。彼らの制御プログラムは全て中央サーバに一元化されていて、共有されているから。個人の特徴というものは持ちにくくなっているよね――それでも、個人所有のヒューマノイドには多少持ち主のクセがつくものらしいけど」
 ――イェラは先日バーで出会った、あのヒューマノイドとその持ち主を思い出す。老紳士と、そしてあの「妻」……。
「でももし、彼らが個性を得たとしたら……彼らが『個』としての自己を認識するようになったなら」
 アッシュは笑う。
「人間とヒューマノイドの違いなんてますます判らなくなるんじゃないかって、僕はそう思うんだ――」
 ちょうどその時、トーグはやや長めのトンネルに入った。室内に影が満ち、やがてすぐに自動で照明がつく。それでも少しは薄暗かった。
 イェラはほっと息をつく。今はこの薄暗がりがちょうどいい。
 少し時間が欲しくなった。今の話をゆっくりと咀嚼し、嚥下するための時間が。
「……部屋に戻るわね。下車の準備をしないと」
「はい」
 アッシュはいつもの人懐こい笑顔で、エイワズは落ち着いた真顔で、立ち上がったイェラを見上げている。――何故だろう、彼女は不意に、この子たちが怖い、と思った。

 イェラが立ち去った後、アッシュは席を移動してエイワズの真向かいに座った。
「イディレンか――見どころはどこなの?」
「街外れの遺跡かな。古い寺院や闘技場の跡があるよ……二千年以上も前のものだそうだ」
「それは楽しみだ」
「…………」
 エイワズは少し沈黙し、やがてぽつりと言った。
「僕の知識欲も、同じようなものなのかな」
 それはあまりにも言葉不足に過ぎる台詞だった――だが、アッシュにはすぐに理解できた。エイワズの言葉を、彼が理解できないはずがなかった。
 ――エイワズが知識を得たいと思うのも、彼がその「入力」によって個を確立したいと願う故なのか。
 アッシュは微笑む。
「それなら、僕があれこれ思考実験したがるのも同じことだ」
 思考し、それを口に出して相手に反応してもらうことで、それをフィードバックとして受け止める。そうやって、アッシュは己の形を探っている。
「みんな同じってことさ」
「そうか」
「うん」
「それなら、いい」
「うん」
 アッシュは自分の左手の、「解剖学的嗅ぎ煙草入れ」をゆるくこすった。
「大丈夫だよ、エイワズ」
「…………」
「僕らはイディレンに入れる」
「……ああ」
「僕らは人間だ」
「ああ。人間だ」
「うん」
 ふたりは繰り返す。
 まるで、互いに言い聞かせているかのように――。