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Case.9 flu

 冬の救急外来は混み合う――研修医である柴崎は、そのことを身をもって思い知っていた。
 明塔病院救急救命センターは重症患者に対応する為の三次救急医療体制を整えているのだが、だからといって独歩で来院する患者の受け入れを制限しているわけではない。軽症から重症まで、また小児から後期高齢者まで、様々な患者が二十四時間受診している。
 そんな中、特に冬に受診患者が増加する要因はひとつではない。高齢者の肺炎・心不全の増加、ノロウイルス・ロタウイルス感染症の流行、なかでももっとも無視できないのは、毎年流行する例の「あれ」――インフルエンザなのだった。

 その日も発熱、関節痛、咽頭痛などを主訴にした患者たちが続々と訪れ、当直である柴崎は彼らに次々インフルエンザ迅速検査を行っていった。鼻腔拭い液を綿棒で取り、検査液の中に良く浸したらキットの上に滴下する。待つこと十分。A型陽性、B型陽性、あるいは陰性。陽性の患者には希望を聞いて抗ウイルス薬とアセトアミノフェン系の解熱剤を処方し、陰性の患者の場合には「インフルエンザである可能性は否定できない」と説明しつつアセトアミノフェン系の解熱剤を処方する。本人が強く希望すれば抗ウイルス薬を処方することもある。特に、発熱し始めてから数時間も経過していない患者の場合には、「体内のインフルエンザウイルス量がまだ検査で検知できる量を超えていない可能性がある」ことを伝える――また、陽性陰性いずれの患者の場合にも、今後重症化した場合は再度受診するよう伝えておく。特に小児はインフルエンザ脳症、高齢者の場合はインフルエンザによる肺炎は時に致死的だ。だからといって全例入院させるわけにもいかないから、現時点でその兆候がなければひとまずは警告にとどめておく。
 もはやルーティンワークのように次々と患者を診ていく柴崎の前に、そのサラリーマン風の男が現れたのは午後十時を過ぎた頃だった。
 男は三十代で、赤らんだ顔にマスクをつけている。問診票の体温計の欄には三十八度八分とあるから、かなりの高熱だ。スーツ姿だから、仕事が終わってそのままここに来たのだろう。
「夕方くらいから急に寒気がし始めて……」
 男はそう言い、顔を顰めた。
「体の節々も痛くて」
「なるほど」
 柴崎は相槌を打ちながら問診を進めた。
「周囲にインフルエンザの方は?」
「あー、会社で流行ってますね」
「熱と関節痛以外の症状は何かありますか?」
「いえ、今のところは……何も」
「なるほど、なるほど」
 大きく開口してもらって咽頭を確認、軽度発赤のみ。扁桃の腫大や発赤はない――扁桃炎は否定的。聴診上、呼吸音に雑音は混じっていない。肺炎を疑う初見なし。腹痛なし。胃腸症状なし。
「インフルエンザだったら、診断書が欲しいんですよ」
 なかなか休めなくて……と男は呟いている。インフルエンザでなくともこの熱では辛いだろうに、と柴崎は思った。
「わかりました。じゃあ、ひとまず検査しましょうか」
 検査結果が出るまでには十分程度掛かる。男には一度待合室に戻ってもらって、柴崎は診察室の中でふっとひと息ついた。……そういえば今日も夕飯がまだ食べられていない。お腹が空いたなあ、とぼんやり思う。とりあえず水分だけでも取っておこうと、ディスプレイの陰に置いていたペットボトルのお茶を一口飲み干した。
「おい」
「ひっ」
 驚いて柴崎は飛び上がる。振り返ると、そこにはこの救命救急センターの長である、神津誠一郎の姿があった。先ほど彼は心不全の急性増悪疑いで運び込まれていた患者の対応をしていたはずだが、そちらはひと段落ついたのだろうか。
「おまえ、インフルエンザ適当に診てないか」
「え……」
 眼鏡の奥の切れ長の目をさらに細めて、神津が柴崎を睨む。
「そ、そんなことは……」
 反論しかけた柴崎は気圧され、思わず口ごもった。
「おまえのカルテ見てたんだがな」
 神津は患者用の椅子にどっかりと座り込んだ。
「検査陰性患者の場合があまりにも画一的すぎる」
「え」
 柴崎は硬直した。……この医者、あの目の回るような忙しさの中、柴崎の書いたカルテを逐一チェックしていたというのか。
「たとえば今の患者。検査キットはどうやら陰性のようだ」
「…………」
 言われて、柴崎はちらと机の上のキットを見遣った。確かに、検査終了線は既にくっきりと表示されているが、A型の欄にもB型の欄にも線は出ていない。
「で? おまえは何て返す」
「発熱からまだ時間が経っていないので、検査に出なかった可能性があります……が、インフルエンザの可能性は否定できません」
「明日からの仕事はどうさせるんだ」
「それは、休んでもらったほうが……」
「『ほうが』?」
 神津が繰り返し、柴崎は口を噤んだ。
「診断書はどうする? あの患者、診断書が欲しいって言ってたよな」
「……はい」
「インフルエンザ、と書けるか?」
「それは……」
 柴崎は躊躇う。神津は両手を白衣のポケットに突っ込み、首をぐるりと回した。
「本来あってはならんことだが、診断書がないと休み辛い職場なのかもしれん。お前が診断書を書かなければ、あの人は明日出勤するかもな」
「……じゃ、じゃあ明日の朝もう一度病院受診してもらって、検査を」
「おまえはばかか」
 神津はため息混じりに言った。柴崎はうっと言葉に詰まる。
「それに一体何の意味がある」
「え……いや、発症から時間が経てば、検査の感度も上がるから……」
「まさか、百パーセントになるとでも思ってんのか?」
「それは、思ってませんけど」
「じゃあどの程度だよ」
 神津の追及の手はやまない。
「インフルエンザの迅速検査キットにおける偽陰性は、どの程度ある」
「…………」
 知らない、とは言えなかった。だが、知らないものは知らない。柴崎は黙り込む――その沈黙が何よりも雄弁な応答になるだろうとはわかっていても、そうするより他ない。
「検査を使うなら、偽陰性や偽陽性の確率はおおまかにでもある程度知っておかなきゃならん。でなきゃ、検査をする資格なんてない」
 神津は厳しい口調で言い切った。
「最近のキットは精度がいいが、とはいえ三割弱が偽陰性になるといわれている。偽陽性は数パーセント以下だが」
「……そんなにですか」
「そんなになんだよ。な?」
 神津はわずかに苦笑した。
「いいか。キットを使った検査といえども、それはおまえが実施する身体診察による所見と同じで、検査結果のひとつに過ぎないんだよ。絶対のものじゃない」
「…………」
「さっきの患者で言えば、だ。周囲にインフルエンザの感染者はいるんだったか?」
「あ、はい。いるって言ってました。職場で流行っていると」
「じゃあ検査前確率は高くなるよな? 症状や身体所見はインフルエンザに合致するのか?」
「はい」
「だったら、だ。鼻に突っ込んでごちゃごちゃ検査するまでもなく、インフルエンザの可能性が高いに決まってる。無論そうじゃない可能性だってあるが、それをこの検査キットひとつで覆せると思うか?」
「……思わないです」
「現に、お前自身あのひとはインフルエンザっぽいなと思ってんだろうが」
「……まあ、はい」
 神津は椅子から立ち上がりつつ言った。
「昔のことを言うのは好きじゃねえが、少なくともインフルエンザの迅速キットが普及してきたのは俺にとっちゃ最近のことだ。キットが発売される前は当然、医師が自分で診断していた。キットの存在によって診断の精度は上がった――まあ、検査結果陽性だったらそういえるだろうな。見落とされることは少なくなったろうよ。だが、陰性だった場合はどうだろうな? 以前だったらインフルエンザと診断されていたものが、そうと診断されなくなっているかもしれない。或いは、不必要に何度も医療機関を受診させることになっているのかもしれない。それは患者にとってメリットか?」
「…………」
「あの患者に再度明日病院を受診させることに何の意味がある? 体はきついわ、インフルエンザなら周りの患者への感染のリスクもあるわ、デメリットしかねえように思えるんだがな」
「……確かに」
 柴崎はため息をついた。
「でも、診断書……どう書いたらいいんですかね……」
「別に検査が陰性でもインフルエンザって診断書を書いて悪いことはないと思うが……おまえがそう言うなら、疑い病名じゃ駄目か」
「……『インフルエンザの疑い』で書くってことですか」
「ああ。『インフルエンザの疑いが強いと診断し、解熱後四十八時間までの経過観察を必要とする』ってな」
「なるほど……」
「それでごねるようなら俺を呼べ」
「はい。すみません」
 頭を下げる柴崎に、神津はかぶりを振った。
「いいから、さっさと呼んでやれ」
「は、はい!」
 神津はそのまま白衣を翻して待合と反対側の廊下へと出ていき、柴崎は先ほどの患者を呼び込みに行ったのだった。

 結局、患者は柴崎の書いた診断書と、抗ウイルス薬等とを持って帰宅することになった。無論、抗ウイルス薬の効果も万能ではない――とはいえ、発症から四十八時間以内に服用を開始すれば、約一日程度は早く回復するというデータがある。柴崎も昔インフルエンザに罹ったことはあるから、あの辛さが一日でも早く緩和されるというのなら、十分意味のあることだと思う。
「仕事、休めそうですか」
 最後に尋ねた柴崎に、男は熱のせいか潤んだ目をぱちぱちとさせながら頷いた。
「休みます……明日からはゆっくりします」
「そうしてください。水分、しっかりとってくださいね」
 柴崎はほっと溜息をつく。……明日、もう一度病院へ行かせようとしなくて良かった。
「お大事に」
 柴崎は心からそう呟いたのだった。

 診察室から出た柴崎を、神津が待っていた。無言でシガレットチョコを手渡される。食え、と促されて柴崎はもぐもぐとそれを食べた。チョコの甘さが疲れた体に沁みていく――まるで乾いたスポンジが水を吸い込むようだ、と柴崎はぼんやり思った。
「勘や経験って言葉は好きじゃないが」
 と神津は言った。
「だが、検査に頼らない診断ってのはあるもんなんだ――検査するにしても、自分なりの検査前確率ってのは意識しておいて損はない」
 柴崎はチョコをもぐもぐと頬張りながら頷いた。
「身体所見からだったり、問診からだったり、既往歴――家族歴からだったりもするな。そういう所見を全部ひっくるめて総合的にみて、可能性の高いものから、可能性が低くても見逃すとやばいものまでの鑑別を並べ、次の検査を組み立てたり、治療を考えたりするのが俺たちの仕事だ。そうだろう?」
「……はい」
「鼻ぐりぐりしてぽたぽたするだけのお仕事なんて、そんな楽なもんはねえんだよ」
「はい」
 神津の言い方が可笑しくて、柴崎はついくすりと笑ってしまう。神津はにやりと笑うと、ぽん、と柴崎の背を叩いた。
「次、救急搬送来るぞ。準備しろ」
「はい!」
 大股に歩き出した神津の背中を、柴崎は慌てて追いかけるのだった。