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Case.8 terminal stage

 深夜、明塔病院救急救命センターに向かって近付いてくるサイレン。患者を載せた救急車を迎え入れるのに、緊張しないわけではない。当たり前だ、藤田自身は医師になって一年半程度しか経っていないのだから。それでも、今日は自分が慌てふためくわけにはいかない――。
「よろしくお願いします、藤田先生」
 彼の傍らには、ちょうど一年下の後輩がいる。研修医一年目、山北。おどおどと、落ち着かない様子だ。多分、一年前の自分もそうだったし、あの頃の自分は一年上の先輩を――つまり今の自分の位置ということだが――何よりも頼りにしていた。
「ああ」
 藤田は頷いてみせる。
 先程、この患者のカルテは見た。六十七歳男性、胃癌(MK)術後再発、抗癌剤治療中。ファーストラインの抗癌剤(ケモ)はしばらく奏功していたようだが、やがて増悪(PD)となり、セカンドラインへ。それも長くは奏功せず、サードラインへ――次治療はそろそろ厳しい、と主治医のカルテには記載されていた。
 今回救急車を呼んだ主訴は、呼吸苦である。さて肺炎か、あるいは担癌状態による凝固能亢進による肺梗塞か、肺転移の急性増悪――いや、この前撮られたCTでは呼吸苦をきたすほどの肺転移巣はみとめられなかった。いくら急激な増大が可能性としてはあり得るとしても、可能性としては低いだろう。他の可能性は……。
 考えつつも、藤田は救急車の後部ドアを軽くノックして開け、救急隊員と共にストレッチャーを運んだ。横たわる患者の口には酸素マスクが付けられている。
 救急隊員が手元の用紙を見ながらすらすらと読み上げた。
「二三日前からの呼吸苦、数時間前からほとんど体動不可となり奥様が救急要請。体温三十六度七分、血圧百四十六の九十八。脈拍(プルス)百一です。酸素飽和度はルームエアーで八十九だったんで、七リットル投与して今は九十七」
 山北がメモを取っているのを横目に、藤田は患者に声を掛けた。
「わかりますか? 今苦しいです?」
「…………」
 患者は目を開け、頭を横に振った。
「順番に検査していきますからね!」
 藤田がそう言うと、患者は、うん、うん、と頷いてみせた。意識は清明(クリア)のようだ。
 ストレッチャーを処置室に運び込むと、藤田は山北に向き直った。
「検査、何する?」
「え、ええっと」
 山北は順に答えた。
「採血と、胸部レントゲン写真(胸写)……あと血ガス……ですかね」
「だな」
 発熱はないから感染症はやや否定的、だが定期内服薬に解熱鎮痛剤やステロイド――いずれも進行癌患者にはしばしば処方されているものだ――が含まれている場合は、症状がマスクされている可能性もある。できれば血液培養、痰培養、尿培養も取っておきたいところではある。
「そのへんの結果見て、CT撮るか決めよう」
「はい!」
 山北の静脈ラインを取る手つきは、手慣れているというほどではないが覚束なくはない。生理食塩水の点滴ルートを繋ぐ前に、採血のためにシリンジで血液をじんわりと吸引し、赤黒い色で満たされたそれを介助のナースに手渡す。
 次は動脈血ガス採血だ。基本的な手技とはいえ、一般的な静脈採血とは違ってちょっとしたコツがいる。採血に適した体表に近い動脈といえば、大腿動脈か、或いは手首をはしる橈骨動脈か。大腿動脈は太さもあり安易だが、患者の衣服を下半身まで寛げなければならない。橈骨動脈で採れるに越したことはない。
 藤田はちらりと山北を見遣った。
「山北」
「はい?」
 藤田はやや声を低めて自分の手首を指し示した。
「血ガス、採れるか?」
「いや、やったことないです……」
 大腿ならありますけど、と付け加えた。
「やる?」
「は、はい!」
 誰にだって初めてはある。藤田もそうだ――初めての時は、いつも年上の先輩に指導してもらってきた。採血も、静脈ライン確保も、動脈血ガス採血も、胃管の挿入も、縫合(ナート)も、それから……。
 無論、相手が実際の患者である以上、無理にやらせて患者に危険が及ぶようなことがあってはならない。指導する立場の者は、それを見極めて十分な監視の元でトライさせ、もし途中で無理だと判断したらすぐに自分が交替して安全に完遂しなければならないのだ。
 自分も、そうやって育てられてきた。育ってきた。これからも、もっともっと成長していくだろうし、していかなければならない。だが、これからは自分が教わるだけでなく、教える役割も担わなければならないのだ。
 藤田は高揚した声で、山北に手順を告げた。口早に、コツを伝える。山北も、真剣な面持ちで聴いていた。採血する手首の角度、狙う橈骨動脈の押さえ方、採血針の刺入角度、そして――。

「おい」

 不意に、藤田の独壇場は終わりを告げた。
「そこ退け」
 ぶっきらぼうな声が藤田の言葉を遮り、その手から採血針を奪う。藤田は呆気にとられて相手の顔を眺めた――神津誠一郎。この明塔病院救急救命センターにおける唯一の救急医。つい先程まで別の重症患者を診ていたと思ったのだが。
「すみませんね。……少し痛みますよ」
 神津は患者に声を掛け、アルコール綿で手首の皮膚を拭うと、垂直に近い角度で針を沈めた。真紅の水面が、シリンジの中をすうっと上がってくる。
「おい」
 針を抜いて刺入部を圧迫しながら、神津がぎょろりと藤田を睨んだ。
「測定。行ってこい」
「は、はい」
「山北も」
「はい!」
 神津に手渡された動脈血ガス採血キットを、藤田はナースの用意した氷水に漬けて慌ただしく測定器の前に移動した。

 ――しかし、なんだって神津は彼の邪魔をしたのだろう。藤田は訝しく思う。
 今まで何度も藤田は神津に手技を教えてもらってきた。まだ、藤田が教える側に回るには早いということだろうか。そうだとしたら、悔しい。
「神津先生、なんか機嫌悪いんかな」
 藤田は敢えて明るく、山北に傍らに話を振った。
「ごめんな。また、今度機会があれば――」
「藤田先生」
 山北が小さく呟く。
「俺、さっき気が付いたんですけど」
「何に?」
 きょとんとする藤田に、山北はどこか気まずそうな表情で言った。
「あの患者さん……俺らの話聞きながら、めっちゃビビった顔してたんですよ」
「…………」
 藤田は虚を突かれたように黙り込む。
「当たり前ですよね、俺が明らかに教えてもらってるんですもん。初心者丸出しで」
 そしてその、「初心者」は教えられた通りのことを自分に対して実践しようとしている――「ぶっつけ本番」にしか見えない状況で。
「俺だったらめちゃくちゃ怖いと思います……」
「…………」
「おいお前らァ」
 神津が彼らを呼ぶ声がする。
「測定終わってンだろ、さっさと戻って来い」
「は、はい!」
 藤田は慌てて測定結果の用紙を手に持ち、神津の元に戻った。
「で? 結果はどうだ」
 藤田はさっと結果に目を走らせる。
「……酸素投与が効いてるのか、そう大きな狂いはなさそうです……CO2も溜まってないですし、電解質もそんなに狂ってない」
「胸写は?」
「まだです」
「どちらにせよ入院だな。ついでにCTも撮っておくか」
 とりあえず単純でいいだろう――と神津は言う。
「はい。じゃあ行ってきます!」
 ナースとともにストレッチャーを搬送する山北を見送った神津は、その場に残る藤田をじっと見据えた。
「……気付いたか?」
「……はい」
 短い言葉ではあるが、神津が何を指しているのかはわかる。――藤田が気付いていなかったこと。それは、自分たちを見ている、患者の心情だった。自分たちが一番診ていなければならないはずの相手のことに、彼は気付いていなかった。

 自分たちだけが患者を()ているのではない。
 患者もまた、自分たちを()ている。

「お前の心情もわかるが、患者がアウェイク――起きている場合は特に気を付けろ」
「……はい。すみませんでした」
 藤田は素直に謝罪する。そんな彼を見下ろしていた神津は、不意ににやりと笑った。
「わかったら、後で山北に血ガスのやり方教えてやれ。ああ、なんならお互い練習し合うといい」
「えっ」
 静脈採血はよく同期の間で練習し合ったものだが、それと違って、動脈採血はとても痛い。藤田はさっと顔を蒼褪めさせたが、わかりました、と呟く。
 ――その痛みを、苦痛を、診療行為の名のもとに自分は患者に常日頃強いているのだ。その自覚を、忘れてはならない。それなのに、たかだか一年間のあいだに、自分は忘れかけていた……。
「CT、できたぞ」
 神津に促され、藤田はディスプレイに駆け寄った。
「……これは、」
 目立つのは、両肺に散らばる肺転移巣と、背側にうっすらと溜まった胸水。
「前回と比べて肺転移巣の増大は軽度ですし、この程度の量の胸水だけで、あの呼吸苦は出現しませんよね……」
「そうだな」
 神津は同意する。
「だが、小葉間隔壁の肥厚が目立つな。癌性胸膜炎かもしれない」
「…………」
「厳しいな。場合によっちゃ、今回の入院が最期になるかもしれん」
「…………」
 藤田は黙り込む。
 ――そんな病状のひとに、自分は。

「おい藤田、」
 神津は振り返ることなく歩き出す。
「次来るぞ」
「……はい!」
 落ち込んでいる暇はない。全ての経験は、次に活かすしかない――。
 神津の白衣の背を追って、藤田は駆け出した。