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Case.7 cancerous peritonitis

 お腹が痛くて、とその人は言った。

 明塔病院救急救命センター、日曜の昼下がり。次から次へと訪れる独歩来院の軽症患者の診療に追われていた二年目研修医、月本は、診察待ちの問診票入れに立つ一番右端のファイル――つまりは次の診察順だということだ――を取り上げ、さっと目を通した。
 四十代女性、主訴は腹痛。数日前から。看護師が記載済みの、体温含めたバイタルサインに異常はない。同じ筆跡で付されたメモ書きには、下痢、嘔吐、便秘なし、とあった。消化器症状はないということか。
 月本はそれを手にして診察室に入るまでの数十秒の間に、めまぐるしく仮説を立てる。――問診票からある程度のあたりをつけて診療に臨むためだ。無論先入観をもつのは良くないことではあるが、前もって疾患鑑別のためのフロウチャートを脳裏に置いておくことは決して診断の妨げにはならない。研修医生活も後半に入り、月本は自分なりの初期診療のスタイルを身につけ始めていた。
 女性。腹痛。――女性を見たら妊娠を疑え。冗談やセクハラではない、先輩から必ず語り継がれている箴言である。世に出ている診療マニュアル本にも必ず書いてあるし、月本自身も既に何人かの後輩には直接伝えた。何しろ、妊娠初期にはありとあらゆる症状が起こり得るし、本人がそうと自覚していないことも多い。閉経前の女性に放射線検査を行う前には、全員妊娠テストをしたほうが良い、とすら言われている。一度の検査で即座に胎児に影響が出るものかどうかはともかく、早い話が医療訴訟対策でもあるのだった。四十代、妊娠の可能性はある。こういう時自分が女性なのはありがたい、と月本は思うのだった。男性研修医なら、女性看護師に立ち会いを頼まねばならないところだ――実際、男性医師が一対一で質問したところ、「セクハラだ」と激怒した患者がいたのである。確かに、なかなかにデリケートな問題ではあるのだが。
 発熱なし、下痢嘔吐なし。一見感染症らしくはない。だが決め打ちは禁物だ。
 後は、尿路結石――腰背部痛を主訴に受診することが多いが、腹痛と表現されることもある。妊娠検査も兼ねて、一緒に尿潜血の検査はした方がいいだろう。
「ひとまずこんなところかな」
 月本は呟く。問診、その後尿検査。その後は随時検査を追加。妊娠が否定できれば臥位立位での腹部レントゲン撮影を考慮。方針を定め、患者を呼ぶ。
 園部、という名のその患者は、ほっそりとした身奇麗な女性であった。
 一見して顔色(がんしょく)は悪くない。歩行にも支障はなさそうだし、重篤感はない。日曜にわざわざ救命センターに来るような状況なのだろうか、そもそも今日は専門医もいない。明日では駄目だったのか、或いは金曜までには来られなかったのか。今日既に何度となく思い浮かべたことを、月本はまた思ったのだった。だが、それをおもてに出さないだけの忍耐強さくらいは、彼女も既に十分持ち合わせている。
「腹痛はいつ頃からですか?」
「気になりだしたのは先週から……ですね」
 実際はもう少し前、一カ月ほど前から腹痛はあったように思う、と園部は言った。部位は下腹部全体で、ちくちくとした痛み、断続的で、増悪寛解因子ははっきりしない、発熱も消化器症状もない。徐々に痛みは強くなり、数日前には近医で胃薬と整腸剤をもらったという――だが、少しも改善しなかった。特に今まで大きな病気に掛かったことはない、腹部の手術歴もない。
 ベッドに寝かせて腹を触る。下腹部を押すと痛がるが、どこといって圧痛点があるわけではない。まあ、わかっていたことだがかたくもない――腹膜刺激兆候はない。
「失礼ですが、妊娠の可能性は……」
 月本が問うと、園部は一瞬きょとんとしたあと苦笑した。
「私、未婚です。あと、ここしばらく心当たりのあるようなこともないです」
「一応、閉経前の女性の方には尿による妊娠検査をお願いしているんですけど」
 検尿検査もしたいので、お願いできませんか。――月本の依頼に、園部は頷いた。別に構いませんよ、と。月本は内心安堵した。人によってはかたくなに拒まれることもあり、そうなるとカルテに長々と説明内容を記載して、なおかつ拒否されたという事実を書き留めておかねばならなくなる。
 園部に検尿カップを渡し、月本はいったん診察室を出た。別の患者――ひとりは感冒、ひとりは切創、それらの診療を終わらせ、園部のカルテに戻る。今日は重症患者が少なくて助かるな、と月本は思った。救急外来での彼女の上司にあたる、明塔病院救急救命センター唯一の救急医である神津は、子供の発熱に対応しているはずだ。ここに、一刻を争うような重症患者が救急搬送されてくると、このぎりぎりの均衡の中で成り立っているペースは一瞬にして滅茶苦茶になってしまう。無論、そういった患者への対応は最優先にするしそうされてしかるべきなのだが、そうしている間にも軽症の患者の待ち時間はどんどん長くなり、彼らは次第にいらつき始める――事務や看護師にあたり始める者もいる。それでも医師には遠慮するものが多いようだが、月本は女性だから与し易いと思ってか、食って掛かられることもある。救命センターでなくて休日診療所にいけばいいのに、と月本などは思うのであったが、患者には病院を選ぶ権利がある。検査機器が揃っている、何かあっても専門医がいる――それなら待ち時間も受け入れてほしい、と思うのだった。こちらはそもそも朝からずっと働き詰めで、神津からたまに渡されるシガレットチョコレートが頼りである。
 園部の検尿結果を見て、月本は内心首を傾げた。尿潜血はマイナス。白血球も、亜硝酸塩も出ていないから尿路感染でもなさそうだ。
 妊娠反応陰性であったため、腹部レントゲンも撮った。特に気になるところはない。血液検査も、少し白血球が多いくらいで他の数値は動いていない。月本は途方に暮れた。
(今日はひとまず帰らせて、明日再診でもいいのだろうけど……)
 園部はおとなしく待合室で待っているが、その顔を、時折しかめていた。やはり、痛みはあるのだろう。大げさに訴えはしないが、症状は確実にある。
 明日また来て下さい――別にそれでも構わないはずだ、原因不明の腹痛として消化器内科へ。それでも決して悪くはない――のだが。
(気になる)
 どこが、とはうまくいえない。だが、彼女の病歴、症状、身体所見、その全てから漠然とした違和感が漂ってくる。何かある、そう彼女の直感が告げている。
 月本は、単純腹部CTをオーダーした。

 撮影されたCTを見ていた月本は、思わずマウスを握る手を止めた。
「……これ、」
 何度も上下させて確認する。だが、それはどう見ても「そう」としか――。
 骨盤内に映っている、本来あってはならないはずのもの。年齢と性別を考慮してなお、多過ぎる腹水。腹膜の脂肪織はうっすらと混濁し、動静脈に沿って目立つ結節は、恐らく腫大したリンパ節。それらの指し示すものとは、……。
「…………」
 月本は立ち上がった。これは自分一人で対処するのは無理だ――否、対処してはいけない。園部を待合室に待たせたまま、月本は考える。神津を呼ばなければ、と診察室を出ようとしたところで、まさにその神津とばったり出くわした。
「見たか?」
 神津は短く問う。月本は頷いた。何のことか、誰のことかを確認する必要もなかった。神津はいつもの無表情で尋ねてくる。
「読影所見は?」
「ら――卵巣に、腫瘍が」
 造影していないので少し見にくいですけど、と付け加えて言う。
「あと、腹膜播種らしき結節と……腫大リンパ節は転移が疑われます。腹水もやや多めかと」
「診断」
「……最も疑わしいのは」
 月本はぽつり、とその単語を口にした。
「……卵巣癌、です」
「…………」
 神津は眼鏡の奥の目を僅かに細めて、ふっ、と短く息を吐いた。
「そうだな」
「……ご本人に何と説明をすれば」
「その通り言うしかねえだろ」
「告知を? ここで?」
「告知……ってお前、若いのに古いことを言うなあ」
 神津は僅かに苦笑した。
「伝える内容が何であれ、病名や診断が何であれ、言うべきことは同じだ。現時点での見立てと、今後の方針。そうだろう?」
「それは、そうですけど……」
 ――気弱げな園部の顔を思い出し、月本は躊躇った。
 神津は言う。
「なんなら、産婦人科当直に相談してみたらどうだ。どうせ明日以降受診させなきゃならんだろう?」
 きちんと診断をつけて、治療に入らなければ。言う神津に、月本はこくこくと頷いた。PHSを取り出し、当直医に連絡する。
 ――程なく、産婦人科当直の医師が救急外来に到着した。月本よりも十ほど年上の女性医師である。月本から一通りの説明を聞き、画像を見、彼女は頷いた。
「わかった。今日の段階でわかっていることを説明して、明日来てもらう段取りをしておく」
「ありがとうございます」
(カルチ)が疑わしいことも言うんだろ?」
 神津の言葉に、もちろん、と彼女は言った。
「もちろん現時点で診断がついているわけではないけれど、限りなく疑わしいのは事実だからね。肝心なことを伏せて疑心暗鬼にさせたり、むしろ軽く見積もらせてしまって病院に来なかったりしたら大変でしょう」
「……な?」
 神津は月本をちらりと見遣る。
「そういうもんだ」
 ――救急外来で癌が見つかることなんて、そう珍しいことでもないんだからな。
「けど、よくCTまで撮ったね?」
 聞かれ、月本は思わず口ごもった。
「何となく……何となくですけど、妙だなって思って。何かある気がしたんです」
「へえ?」
「そこんところを説明できるようにならなきゃならねえんだがな」
 神津は言いつつ椅子から立ち上がり、手にしていたファイルで、とん、と月本の背を叩いた。
「よし、次行くぞ」
「へっ?」
「デパートで倒れた痙攣発作の患者だ。人手がいる、手伝え」
「は、はい!」
 園部のことはひとまず産婦人科医に託し、月本は慌てて神津の背を追い掛けた。迫りくる、救急車のサイレンに向かって。
 ――搬送されてきた患者がひとまず落ち着いたところで、月本はふと待合室を覗いた。しかしその時もはや園部の姿はそこにはなかった。

 三ヶ月後。
「先生!」
 院内の廊下を呼び止められ、月本は振り返った。この病院に先生は数多くいるが、今のはきっと自分のことだと思う。
 振り向いた先に、一人の女性がいた。薄ピンクのキルティング地の、厚手のパジャマ。頭にすぽりとかぶったニット帽は、癌患者に特有の――やはり、その下から覗く顔の、眉も睫毛もかなり疎らであった。静かに微笑み、彼女は口を開く。
「あの、私以前先生に……」
「あっ」
 月本は大きく頷いた。彼女だ。園部――そう、園部かすみ。
 あの日から、一度たりとも忘れたことはなかった。気になって、電子カルテをいいことにずっと経過を追っていた。翌日、彼女はきちんと産婦人科外来を受けていたし、その後様々な検査を受けた後に試験開腹術に臨み、やはり卵巣癌と確定診断を受けて、そうして今は化学療法中である。まさに陰ながら、ではあるが――月本はずっと彼女を応援するような、祈るような、そんな心地で画面越しに見つめていたのである。
 ――そうすることが、あの時彼女を診た自分の責任であるような気がしていたから。
「その節はお世話になりました」
 月本の様子から、自分のことを思い出したと判断したのだろう。園部は点滴スタンドを押しながら、月本に歩み寄ってくる。
「い、いえ」
 その後いかがですか――と続けようとして、月本は言葉に詰まった。いかがも何も、見たままである。園部は闘病中だ。決して予後は楽観できるものではない。それはきっと、園部自身がよく知っている。
 園部は月本の戸惑いを気にすることもなく、笑顔で月本を見つめた。
「先生にまたお会いできてよかった」
 ――あの時、ちゃんとお礼が言えなかったから。
「……え?」
 月本は思わず聞き返した。
「先生があの時検査してくださらなかったら、私、仕事も忙しかったし、そのまままたしばらく放っていたかもしれない。どうにもならないところまでいってしまっていたかも」
 だから、あの日どうしても気になって病院を受診して、そうして先生に診てもらえて。
「本当にラッキーだった。だから、ぜひお礼が言いたかったんです」
 ――まだ、治療ができる状態でよかった。
 園部は少し痩せた頬で、それでも笑っていた。
「…………」
 月本は絶句する――ああ、こんな時私はなんて言えばいいんだろう。私はただ、自分のすべき仕事をしただけ。お礼を言ってもらうようなことなど何もしていないのに。
 月本はかろうじて言葉を拾い集めた。
「私こそ……お顔を見られて、良かったです」
「覚えていて下さったんですね」
「ええ、もちろん」
 ずっとカルテを見ていた、とは言わなかった。主治医でもないのに興味本位で、と気を悪くされるかもしれない。
 ――月本は口を開きかけ、そして口を噤んだ。
 これ以上に掛ける言葉が見当たらない。頑張ってください? もう十分頑張っている人に? お大事に? 薄っぺら過ぎはしないか。
 私が、彼女に言うべきこととは――。
 園部は、ふっ、と力を抜いたような笑みを浮かべた。月本は自分の戸惑いを見透かされたのだろうか、と不安になる。
「先生、研修医さんなんでしょう。頑張って下さいね」
「……はい」
 月本は、そのまま、ぽろっとその言葉を口にした。
「頑張りましょう」
「…………」
 園部は一瞬、繰り返し瞬きをして、そして、そうね、と呟いた。
「頑張りましょうね」
 園部はそのほっそりとした手を差し出す。月本はそれをそっと握った。

 ――あたたかな、少しばかり乾いた、それはとても小さく力強い手であった。