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Case.6 subarachnoid hemorrhage

 明塔病院救急救命センターの時間外受付は、午後五時から始まる。それまでの時間は救命センターでは救急診療のみが行われ、その他は各科の外来で受け付けているのだが、以降の時間は渾然一体だ。
 午後五時を過ぎると同時に、救命センターの受付は混み合い始める。その様子を見ていた研修医二年目、明坂(あかさか)は思わずため息を漏らした。会社帰りらしいスーツ姿の男性、保育園からきたのだろう母子連れ――子供は受付をする母親の周りを駆け回っている――ここは三次救命センターなんだけどな、と明坂は思う。
 日本の救急診療システムは三段階にわかれている――少なくとも、そのはずである。一次救急は、いわゆる軽症患者向けである。基本的には専門的な検査も処置も必要とされない。二次救急は、ある程度の専門的な治療や処置、手術を必要とする疾患に対応する。三次救急は、高度な専門医療を必要とする重症患者に対応するための施設で、地域の医療圏ごとに限られた数しか存在しない。本来ならば、重症度に応じた患者の住み分けが必要で、例えば一次救急受診後に専門的な診療が必要だと診断されれば二次、三次救急へ搬送することになる。しかし、事実上それは機能していないのも同じだった。どうせ行くのなら、少しでも検査のできる病院へ。専門医を求めて、大病院へ。
 ――その結果が、これだ。
 先ほどの母親が受付で声を上げている。
「小児科医の診察が受けたいの。院内にいるんでしょ?」
「診察は救急の医者が行います。さらに専門的な治療が必要と判断された場合は小児科の当番医に話がいくようなシステムです。当院では、そうなっております」
 慣れた様子で――そしていささかうんざりしたような調子で、受付の女性は繰り返す。
 母親はその表情に怒気を滲ませた。
「なんで最初から小児科医が見てくれないの?」
「このお時間でしたら隣のメディカルパークに葉芝小児科が」
「そういうことを言ってんじゃないのよ。ここで診察が受けたいの! 小児科医の!」
「…………」
 決して珍しくはない、時々見る光景だ、と明坂は内心肩をすくめた。救急センターの時間外診療を夜間診療と勘違いしている。夜間でも昼間と同じだけの医療サービスが受けられると思っているのだ。待ち時間が少ないぶんお得、とでも言ったところなのだろう。だが、それを実現するには医者の数も、その他の医療資源も、圧倒的に足りない。
 小児科当直は病棟に入院している患児の対応をこなしながら、救急からのコンサルトも受けてくれている。重症であれば診察も治療も、もちろん入院したあとの治療も、彼らが引き受けている。ほとんど不眠不休で働く彼らは、しかし他の当直医と同じようにその日の朝から働いていて、そして次の日の夜まで働き続けるのだ――。
「ですが、当院のシステム上……」
「そんなこと言って、何かあったら責任取れるの?!」
 そんな彼女の子供は、機嫌良くテレビを見ている。少し鼻をすすっているようだが、ジュースもよく飲んでいるようだ。少なくとも、一刻を争って小児科医の診察が必要という状態では――。
 受付の女性がちらりと明坂を見た。救いを求める目である。彼が代わりに説得してくれないか、あるいは小児科当直医と話をつけてくれないか。そんな期待のこもった眼差し。明坂は思わず目を逸らした。それは俺の仕事じゃない。俺は患者を診て、診断して、治療するのが仕事だ。勘弁してくれよ、何だって俺が……「元」小児科志望だったのに、救急当直をやっている内に、こういったやり取りを見てもうすっかり嫌気が差してしまった、俺が……。
 その時彼のPHSの着信音が、そしてほぼ同時に院内放送が鳴り響いた。
 緊急コールだ。
 PHSの向こうで、緊迫した声が流れる。
『院内コンビニでCPAです』
「!」
 明坂の背筋がぴんと伸びた。
 コンビニエンスストアの中で、誰かが心肺停止になったらしい――明坂ら救急当番医はすぐに駆け付けなくてはいけない。救急における彼の上級医である神津誠一郎が飛び出し、そして救急セット一式を持った看護師が後に続いた。明坂も慌てて駆け出す。視線の先で翻る、神津のしわくちゃの白衣。
 背後ではまだ、母親の抗議の声が続いていた。

 倒れたのは、親族の見舞いに来ていたという四十代の女性だった。正確にはCPA――心肺停止ではなく、意識障害と呼吸停止。自己心拍を確認後気管挿管し、マスクで換気しながら、何とかストレッチャーに載せて救急外来処置室に搬送となった。一時は大勢の医師がついていたが、今はさほどの人手は必要ないため、たまたま倒れるところを目撃していたという医師と、循環器当直、脳外科当直などの当直医が残っているのみである。勿論、神津と明坂もいる。明坂は大して役に立たなかったが、とりあえず今は挿管チューブに繋がったマスクを揉む、という任務を彼なりに果たしているところである。
SAH(ザー)、かねえ」
「恐らく」
 脳外科医のつぶやきに、神津が応える。患者の眼球は上転し、瞳孔はまるで点のように縮瞳してしまっている。収縮期血圧は二百オーバー。家族によると、高血圧で内服加療をされていたらしいが、それにしてもここまで高くはなかった、という。
「とりあえず頭部CT撮ろうか」
 脳外科医のその言葉で、すぐに再びストレッチャーは動き出す。明坂はひたすらにマスクで彼女の肺に酸素を送り込みながら、意識を失ったままの患者の顔を見つめていた。
 診断は、やはりSAH――クモ膜下出血であった。
 急いで患者を元の処置室に搬送し、血圧降下剤の持続静脈注射を開始する。脳外科医は家族を呼んで状況説明をし、一方で血管内カテーテル手術の準備が進められた。
 明坂はようやくマスクから手を離すことが許され、ふらふらと廊下に歩み出る――そこで出会ったのは、第一発見者の医師と、彼に詰め寄る例のあの母親だった。
「先生、小児科医でしょ? うちの子の診察をして欲しいんですけど」
 その四十歳くらいの男性医師のネームプレートには、確かに小児科医との文字と、花田との名前があった。彼は困ったような表情で母親に相対している。
「僕は今日の当番医ではないですし、救急医が診ることになっていますから」
「小児科医なのに子供を診てくれないんですか?!」
 うわ、と明坂は思った。いくら何でも無茶な要求だ、と思う。いくら我が子が心配でも――その子供はといえば病院に飽きてきたのだろう、あたりを走り回っている。お腹空いたあ、との声も聞こえた。元気そのものといった様子で、救急外来には似合わない。少なくとも先程の急患にあったような、生と死の狭間に漂い出てしまったような、ともすると真っ逆さまに死の側に転落しそうな、危機的な匂いはその子にはない。
 ふと明坂は考える――縁起でもないことではあるが、もし、あの子が重症だったなら。一刻を争うような、命が危険に晒されるような状況だったなら、花田は恐らくすぐさま診療に携わっただろう。彼だけではない、小児科医は皆そうだろう。小児科医たちだけではない。先程の急患の時、どれほどの医師が、看護師が、駆けつけたか彼は知っている。今日だけではない。休日でも早朝でも深夜でも、急変の緊急コールが院内に鳴り響けば当直医はもちろん、そうでない医師も院内にいれば一斉に駆けつけてくる。そう決まっているから、それだけの理由だろうか。緊急コールでなくても、危険な状態の患者を目に素通りできる医療者などそうそういない。そのはずだ。そんな場面を、明坂はもう何回も目にしてきた。
 仕事だから、否、それ以上に彼らを支配するのは使命感であり、それはつまり一言でいうと、ほうっておけない、何とかしたい、それにつきるのだった。
 そのことを、多分この母親は理解していない。
 そして、その、放っておけない、という気持ちは決して無尽蔵ではないのだということも――彼女はわかっていない。
「花田先生」
 立ち尽くす背後から、低い声が響いた。この救命センターの唯一の専属医、神津誠一郎である。夜間救急を年中担当する、化物並みの体力を持つ男。彼にひとにらみされて震え上がらない研修医はいないが、かといって人望がないわけではない。むしろ彼のもとでの救急研修を希望して、この病院を志望する医学生がちらほら見受けられるほど、評判はいい。
「俺が診ます。明坂は他捌いて。さっきのあれでかなり待たせてる」
「は、はい」
 駆け出した明坂の背中の向こうで、母親が声を荒げた。
「ちょっと、貴方も小児科医じゃないんでしょ? だったら――」
 神津の声は静かだった。
「花田先生は当直明けです。昨日の朝から今まで、働き続けているんですよ。もう三十六時間以上になる」
「そ、そんなのうちの子になんの関係が――」
「彼はもう勤務時間外です。今の時間の担当は私だ」
「そんなの――」
「もう、いいよ」
 花田が声を上げた。諦めたような笑みを浮かべ、神津に首を横に振ってみせる。
「どうせ、もうすぐ俺ここ辞めるんだ」
「え?」
「もう、疲れちゃってね。前倒しして、実家の医院を継ぐことにした」
 神津は珍しく驚いたように目を見開いている。
「俺が減ると、この病院はもう小児救急やれなくなるかもな――でも、もう、どうでもいいんだ。決めたから」
 小さくつぶやき、そして母親を見下ろす。振り向いた明坂が息を呑むほど、その瞳は――無、だった。怒りも、悲しみも、哀れみも、何もない。何もなかった。
「だから――診ますよ」
「…………!」
 母親が言葉を失う。さすがに、じゃあお願いしますとも言えないのだろう。
 いっそ言えばいいのに。図々しく要求するのなら、どこまでも要求すればいい――その結果がどうあれ、押し通せばいい。こうなってから急に物分がりが良いふりをしようなんて、ずるい。
 母親の前で無表情に立ち尽くしている花田を、神津はぐいと押し退けた。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、冴え冴えと醒めている。だがその奥に潜む熱は――消えていない。いつだって消えることがない。そのことを、明坂は既に知っていた。
 神津は言う。
「いいから、帰って。先生が辞めるのは勝手だが、そういう前例ができると後のものが迷惑する」
「…………」
 黙っている花田を置いて、神津は母親を診察室に誘導する。彼女ももう、何も言わなかった。
 花田は俯いている。その目は、やはり無のまま――。
「先生……!」
 その時、花田の前にひとりの少女が立った。まだ高校生くらいだろうか。目を真っ赤にして、一心に花田を見つめる。
 花田の表情が、動いた。
「母が倒れた時、先生がみていてくれたんだと聞きました――すぐに処置してくれたから、一命を取り留められたって」
 先程のクモ膜下出血の患者の娘なのだろう。ぐす、ぐすと鼻を鳴らしながら、少女は頭を下げる。
「ありがとうございました……!」
「あ――」
 花田は戸惑ったように口を開けた。
「いや、僕はただ、当たり前のことをしただけで――専門外だから、たいしたことは――本当に、当たり前で――」
 花田の声は、少し震えている。
「だから、その、……すまない」
 花田は何に謝っているのだろう。
「あ、りがとう……」
 何に礼を述べたのだろう。
 明坂は目を逸らした。
 仕事に戻ろう。そうでなければ、神津にどやされる。

 程なく診察室から出てきたあの親子は立ち尽くしたままの花田に気付き、母親が無言で頭を下げた。子供の方はというと、ご機嫌にお気に入りのぬいぐるみを振り回している。
「せんせー、ばいばーい」
 花田に手を振るその子供がやがて大人になる頃――彼がまた、人の親になる頃。自分はまだ、続けていられるだろうか。無くさないでいられるだろうか。
 自信は、なかった。
「バイバイ」
 そうつぶやいて救急センターを後にする花田の顔を、明坂は見ることができなかった。