instagram

Case.5 disturbance of consciousness

「だーかーら、医者出せって言ってんだろうが。わかんねー嬢ちゃんだなあ」
 二年目研修医、雨宮沙貴は自分の顔が激しく引きつるのを感じた。
 ここは明塔病院救急救命センター診察室、時刻は午前二時。目の前には中年男性が座っている。主訴は一過性意識消失で、飲酒後だった。幸い当時座位だったとのことで転倒もせず、本人はぴんぴんしており、同僚の目撃者もいる。こういった場合の一通りの検査をして異常のないことを確認し、帰宅してもらおうとしたのだが……。
「看護婦しかおらんのかここは? 医者を出せ医者を!!」
「……だから」
 雨宮は自分の名札をとんとん、と指先で叩いた。
「私が医者なんですが」
「はあ?」
「……………」
 男の息はひどく酒くさい。雨宮はひどく虚しい気分になった。何だって自分は金曜の夜中にこんな、酔っぱらいの相手をさせられているのか。
「原田さん、先生だって、この人」
 救急車に同乗してきた同僚が、へらへらと笑いながら患者の肩を叩いた。
「若くてかわいいけど、先生なんだってさー」
 所詮はこいつも酔っ払いか。雨宮はげっそりした。それでもまだ、こちらの言葉を理解したらしいだけましだろうか……。
 原田と呼ばれた患者は思い切り眉をしかめてじろじろと雨宮を眺め回した。不躾な視線に、雨宮の体は白衣の下で強張る。
「……信用できねえな」
「は?」
 雨宮は自分の理性がぴしりとひび割れる音を聞いた。……ような気がした。
「もっとちゃんとした医者を出せ。あんたじゃ話にならん!」
「あのねえ、原田さん」
 見兼ねた看護師が割って入った。
「雨宮先生はちゃんとしたお医者さんですよ。それに、夜中にそんなにたくさん医者はいません。ちゃんと診察して、検査して、問題ないってわかったんだから、いいじゃありませんか」
「だからあ、その診察が信用ならねえんだよ。後で何かあったらどうしてくれるんだ」
 雨宮は根気良く言葉を並べた。できるだけ穏やかに、説明する。
「今わかる範囲のことは調べましたし、あとから出てくるような症状に関しては今ここでこれ以上調べてもわかりようがありません。何があればまたその時に――」
 雨宮の言葉を遮って、怒号が響いた。
「何かあってからじゃおせえだろうがあ!!」
「ちょ、ちょっと原田さん」
 看護師が宥める声を横で聞きながら、雨宮はぎゅっと唇を噛み締める。情けない、と思った。自分の今のこの状況が、である。自分の診療の内容に不満をもたれたなら、それには自分が対応する責任があると思う。だが、今この男は雨宮の性別と年齢に不信を抱いているのだ。それは彼女自身にはどうしようもないことで、しかも自分にはなんの落ち度もないというのに――自分は今、酔っ払いに怒鳴られ続けている。情けない。自分はこんな状況に耐えるために医師になったわけではない。
 泣くもんか。雨宮はもう一度説明しようと、口を開いた。負けるもんか。こんなことで上の先生に頼っちゃいけない。別に目の前の患者の命に別状があるわけじゃない、こんなの、ただの、ちょっとしたトラブルだ。自分でなんとかしなきゃ、自分で――。
「雨宮」
 不意に診察室のドアが開き、長身の男性医師が姿を見せた。雨宮が思い浮かべていた「上の先生」、神津誠一郎。癖のある短髪、眇めた目。とてつもなく不機嫌そうな顔だが、これはいつも通りのことである。
「お前は今来た意識障害を見ろ。あっちは多分、ホンモノだ」
「で、でも」
 雨宮は腰を浮かせながらも、ちら、と原田に目をやった。この患者にまだケリはついていない。自分が担当したのだ、最後まで責任は持ちたい――だが、その想いは神津の言葉に一蹴された。
「こっちは俺が見る」
「何だ、ちゃんとした医者がいるじゃないか」
 原田はにやにやと笑いながら雨宮を見る。
「選手交代だな、お嬢ちゃん」
「…………っ!」
 雨宮は今度こそ診察室から飛び出した。怒りで我を忘れそうになるのを堪え、足早に処置室に移動する。看護師が気遣って声を掛けてくれているのはわかっていたが、その言葉は彼女の耳をすり抜けていった。それくらいに腹が立っていた。
 神津は、きっと自分を助けてくれたのだろう。でも、本当は助けて欲しくなんてなかった。あのタイミングで交代するなんて、まるで原田という男の言い分を認めたみたいではないか。
 雨宮は何度か深呼吸をしたあと、ぐっと目を見開いた。――さて、気持ちを切り替えよう。
 神津は意識障害の患者、と言っていたか。雨宮は小さくつぶやいた。――意識障害の鑑別の基本は? アルコール、インスリン、尿毒症に電解質異常、低酸素、外傷、感染症、精神疾患、てんかん発作……さて、順番に診ていかなければ。
「みてろ」
 雨宮は歯噛みする。絶対、目にもの見せてやる。絶対、優秀な医者になってみせる。誰にも文句を言わせない、立派な医者に。
 けれど、どんなに経験を積んでも、年齢を重ねても……やっぱり私は小柄な女医なのだろう。
 それは、変わらない。

 意識障害の患者は、結局のところ重症感染症であった。恐らくは尿路感染由来の敗血症。雨宮のプレゼンを聞き、入院の手続きを進めながら、神津はふと彼女の顔を見た。
「あのクソオヤジは帰したぞ」
「え? ……あ、ああ」
 正直、原田の存在を忘れていた。雨宮は思わず眉間にシワが寄るのを感じながら、それでも神津に礼を言った。
「ありがとうございます、助かりました。正直、話が通じなくて困っていたので……」
「ああいうのは、俺みたいに見てくれだけ立派そうな医者に任せればいい」
 神津はシガレットチョコをくわえながら、そう言った。
「でも」
「誠意の通じる相手と通じない相手がいる。通じない相手に尽くしても時間の無駄だろう。お前の時間は有限なんだから、大切にするべきだ。ありゃあすでに患者じゃねえ、ああいうのをあしらうのは管理職の仕事。――あとな」
 神津は雨宮に視線を投げた。
「相手が女とみるとナメた態度に出るやつってのはどこにでもいるが、反対に女性医師が重宝される場面もある。適材適所、だから」
「…………」
 雨宮は俯いた。神津の言う内容は理解できるし、多分、彼の言うとおりなのだろう。例えば若い女性の聴診ひとつとっても、男性医師はやはり気を遣う。雨宮の場合とちょうど逆で、夜中の救急外来でどうしても女医に診察して欲しいと主張する女性患者もいるとか……勿論、いない時はいないのだが。
 わかっている。どこにでも無茶な要求をする者はいるし、それは今に始まったことでもない。自分はまだ医師になって一年と少しだが、それなりに理不尽な目にもあってきた。特に、夜間の救急外来では。
 それなのに、何故自分の心はこんなにもわだかまっているのか。何故――。
「怖かったら」
 ぽつり、と神津が言った。
「すぐに呼べ。お前らを守るのも、俺の仕事だ」
「え……?」
 雨宮は顔を上げる。神津は何故か、顔をしかめてシガレットチョコレートをぱきぱきと噛み砕いていた。
「それなりの給料は貰ってんだ。悪いだなんて思うな」
「神津先生……?」
「気付くのが遅くなって、悪かったな」
 言い捨てるように言うと、くしゃくしゃな白衣を翻し、彼は先程の意識障害の患者家族の方へと向かった。入院の説明をするのだろう。その無骨な背中を見送って、雨宮はごしごしと目を擦った。
 ――そうか。私は……。
「怖かったんだ……」
 その時、ようやく彼女の震えが止まった――気がした。

 医者を続けていく中で、これから先も数えきれないくらいの嫌な目に遭ったり、辛い目に遭ったりするのだろう。でも、大丈夫。私はこれからもがんばれる。神津先生が守ってくれると言ったから。大丈夫。
「ちゃんと、見守っていて下さいね」
 ――私は、これからどんどん成長していくから。
 雨宮は微笑み、そして彼女の診察を待つ患者の元へと戻っていった。