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Case.4 acute appendicitis

 研修医二年目の夏は、進路に悩む時期だ。つまり、何科を専攻とするか。内科か、外科か。もちろん後から変えることも可能だが、実際のところあまり現実的ではないし、変えないで済むのならそれに越したことはない。
 学生時代から、もしくはそれよりももっと前から決めている者もいないではないが、半数以上のものが医師になってから専攻を考える。十年ほど前から導入された臨床研修医制度――初期研修の二年間を各科ローテーションさせる制度によって、研修医たちには迷いが増えた。一言でいえば、理想と現実は違う、のである。
 水城は学生時代、外科医に憧れを抱いていた。何となくではあるが、医者の花形は外科だと思っていた。しかし、去年経験した実際の外科研修は、彼の想像とは違っていた。朝は早くから、夜は遅くまで。真夜中に結腸穿孔の緊急手術に呼び出され、飛び散る大便と格闘する羽目になったときは泣きたくなった。
「神津先生は、何で救急医になったんですか」
「あ?」
 たまたま、救急外来に患者が途切れた時間。水城は意を決して神津に話し掛けた。神津誠一郎。明塔病院救急救命センター唯一の救急医である。仕事は恐ろしくできるが、愛想のなさと叱咤の容赦なさは院内でも知らぬ者がない。
 いつも通りシガレットチョコを口にくわえていた神津は、ソファにふんぞり返ったままちらりと水城を眺めやった。
「おれはもともと外科医だ」
「そうなんですか?!」
「ああ。心外だった」
「心外……」
 心臓血管外科。水城の思っている「外科」とはまた違う世界である。彼の念頭にあるのはあくまで消化器外科だ。
「じゃ、じゃあ、どうして心外やめたんですか」
「個人的な理由だ。話す気はない」
 ぴしゃりと言い放たれ、水城はすごすごとと引き下がった。神津が水城の好奇心を満たすためだけに、親切にぺらぺらと喋ってくれるはずがない。
「すみません、立ち入ったことを」
「別に」
 神津はにこりともせずに言った。
「そういう時期だろ。お前の他にも何人かに聞かれた」
「あ……」
 水城は目を逸らす。
「そうですか……」
 彼の同期も、彼と同じように悩んでいるのだろう。
 だが、最後は――自分で、自分一人で、決めなければならない。
「お」
 神津がふと腰を浮かせた。遅れて、水城も気付く。――救急車受け入れ要請の電話が鳴っていた。
「行くぞ」
「はい」
 救急当直医たちの、つかの間の休息が終わった。

 搬送されてきたその年若い男性患者は、急性虫垂炎だった。水城は病歴と身体所見からそれを疑い、造影CTを読影して手術適応ありと判断した。神津の許可を得て、外科当直医を呼ぶ。当直医は水城の二年年上の医者で、患者や家族に手術の説明をした後に、外科副部長に電話をした。手術はひとりではできない。当直医の他に、必ず自宅待機の当番医が控えているのである。
「先生」
「何だ?」
 てきぱきと手術に備えて準備をする先輩医師に、水城はおそるおそる話し掛けた。
「外科、しんどいっすか」
「うーん」
 澤野という名のその医師は、水城の予想に反してはっきりとした答えを返さなかった。
「まあ、しんどいっちゃしんどいけど。でも、それはどの科も一緒でしょ? しんどくない科なんてあるの? もしかして」
 澤野は眼鏡越しに、水城の表情をまじまじと見つめた。
「水城は、楽な科に行きたいの? 楽したくて医者になったの?」
「そ――そういうわけじゃ」
「じゃあ、何のために医者になったんだよ」
 澤野は、強張った水城の顔を見て笑った。
「先生は、なんで……」
「今は時間がないから。また今度な」
 とんとん、と肩を叩いて澤野は立ち上がる。その視線の先に、彼の呼んだ副部長がいた。
「アッペです」
 澤野の言葉に、頷いて見せる。
「穿孔はしていなさそうですけど、結構痛そうだし熱もある。緊急手術の適応ですね」
「はい、そう思いました」
 長身のその副部長は、何故か澤野の隣で同じく直立不動の姿勢をとっている水城を眺め、小さく口元で笑った。
「じゃ、やりましょうか」
「はい」
 澤野は頷く。副部長は夜中の二時に叩き起こされたとは思えないほどすっきりとした顔で――顔立ちによるものかもしれないが――あたりを見回した。
「あれ、神津くんは?」
 そういえば、彼と神津は同級生だと聞いたことがあったような。水城は慌てて口を開いた。
「呼んできましょうか」
「あ、いいんです。また今度呑みに誘おうと思っただけですから」
 あはは、と軽く笑って彼は言う。
「じゃ、後は任せてくださいね」
「は、はい! お願いします」
「――綺麗にまとまった、良いカルテです」
 不意に、彼は真顔になった。
「カルテはその人の思考回路を――思考過程を示します。その人がどの程度問診を行って、鑑別診断を行って、何を疑って検査を行ったのか。どのようにして最終的な診断に辿りついたのか。カルテにはすべてが現れる。その、鑑別に挙げた疾患への理解もね」
「…………」
 水城の全身に緊張が走る。
「君のは、良いカルテですよ」
「……ありがとうございます!」
 彼の笑顔が、水城の胸の中のどこかにぽっと明るい灯をともしたかのようだった。副部長が軽く会釈をして手術室に向かう、その背中をぼうっと見送っていると――。
「水城! さぼってんじゃねえぞ」
 神津の押し殺した罵声に打たれ、水城は慌ただしく救急処置室へと戻っていった。
 
 
 どれほど忙しい夜でも、明けない夜はないし終わらない当直もない。
 水城は明らかに隈の浮いているであろう顔をぽかんと空に向けながら、裏玄関の外でコーヒーを片手に座り込んでいた。
 ――疲れた。本当に忙しかった。
 神津にどやされながら何件もの患者を診察し、処置し――息つく間もないほどだった。何とかやりきれたのは、きっと……。
 ――良いカルテですよ。
「あれ」
 不意に頭上から影が落ちてきて、水城は顔を上げた。
「水城くん、お疲れさま」
 彼を見下ろして微笑むのは、昨夜緊急手術をこなした外科副部長、その人だった。手術後一度帰宅したのだろうが、今はまだ朝の七時過ぎである。始業時間まではまだ一時間以上あるのに、彼はもう出勤してきたのか。外科医の朝は早いとの言葉通りである。それは決して若手だけに限った話ではない。
「昨夜の方、ありがとうございました」
 水城が立ち上がろうとするのを止め、彼は水城の隣にちょこんとしゃがみ込んだ。
「せんせ――」
「澤野に聞いたんですって? 何故外科医になったのかって」
「あ」
 水城は面映ゆくなって、俯いた。
「……はい。あの、神津先生にも、聞きました。何故、救急医になったのか」
「答えてくれた?」
「いえ」
 顔を上げない水城の隣で、副部長ののんびりとした声が響いた。
「水城くんは、どうして医者になろうと思ったんです?」
「え? えっと……」
 水城は口ごもる。そういえば、何故彼は自分の――たかだか外科に二か月程度いただけの研修医の名前を憶えているのだろう。
「僕はね――」
 視界の隅で、彼が微笑む。そこには、昨夜の疲労の色など少しも残っていなかった。
「手っ取り早く、人から感謝されたかったからですよ。人に必要とされたかった。必要とされる自分でありたかったから」
 外科医は手術ができる。特に、消化器外科はがんを扱うことが多い。誰も聞いたことのないような難病を扱う科ではなく、誰もがわかりやすい病気をわかりやすい方法で治療する科を選んだのだ――彼はそう言った。
「…………」
 それは、一体何故ですか。疑問符が浮かぶが、聞けない。水城はごくりと唾をのんだ。フランクなようでいて、ある一定以上は簡単に踏み込ませないような空気を彼はまとっている。
 彼の口調はひどく穏やかだった。
「世のため人のため、なんて大義名分を掲げてみても続きませんよ。人間が一番力を発揮できるのは、やりたいことをやるときです。君が何をしたいのか。どうなりたいのか――それが一番大事なことだと、僕は思います」
「…………」
 睡眠不足の混沌とした水城の頭の中に、彼の言葉はすんなりと染み透っていった。
「科の選択なんて些細な問題なんですよ。大事なのは、君がどうして医者になろうと思ったのか。どんな医者になろうと思っているのか、どうなりたいのか。そのために、必要な科の医師になればいい」
 ちなみにね――と彼は声を低めた。
「澤野はね、ドラマの影響を受けたらしいですよ。あの、オペ着を着ているシーンが格好良くて憧れたんだって」
 内緒ですよ、と悪戯っぽく笑う彼は、神津と同い年とは思えないほど若々しかった。
「先生は」
 よいしょ、と立ち上がった彼に向かい、水城は問い掛ける。
「なりたかったものに、なっていますか」
「…………」
 逆光で、彼の顔は見えない――それでも。
「ええ」
 穏やかな返事が、戻ってくる。
「あの頃には思ってもいなかったほど――僕は今、しあわせですよ」
 とん、と大きな手が彼の肩に触れ、やがて離れていった。
 (あ……)
 手の記憶。何度となく彼を撫でてくれた、大きな手。
 思い出すと同時に、右下腹部の古傷がうずいた。あれはまだ小学生の頃。おれは「盲腸」に――急性虫垂炎になって、十日ほど入院したのだっけ。
 (おれは何故、医者になろうと思ったのだったか――)
 十年以上前の記憶。あの時担当してくれた若い外科医は、幼い彼のヒーローだった。優しくて、格好良くて。今思い返せば、彼はまだ研修医か、それに近いくらいの年齢だったのではないだろうか。
 (おれは何故、外科医にあこがれたのだったか――)
 思い出をおぼろにたどりながら、水城はすっかりぬるくなったコーヒーを一気に飲み干す。
 
 彼の「ヒーロー」がつい先ほどまで隣にいたことなど、水城は気付きもしなかった。