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Case.3 perforative peritonitis

 その夜、明塔病院救急救命センターは比較的静かであった。とはいえ患者の姿がないわけではない。熱を出した子供を連れた親や自転車で転倒したと足を引きずっている者、はたまた数か月前から腰が痛むのだと訴える老人――いつも通りの光景だが、ただひとつ違うことがる。
(救急車が来ない……)
 信田は淡々と業務をこなしながら、内心訝っていた。いつもなら、ひっきりなしに鳴るはずの救急隊からの専用連絡電話が今日に限って少しも鳴らない。稀に鳴っても、センター長の神津が何かひとことふたこと言ってすぐに切ってしまう。
(何だっていうんだ)
 足を引きずっていた青年の骨のレントゲンを眺めながら、信田は思う。――明らかな骨折は見当たらない。だが、微細な骨折は後からわかることもあるし、そもそも自分は整形外科の医師ではない。見逃している危険性は十分にある。だが、誰の目にも明らかな、そして急を要するほどの骨折はない。時間外診療なのだから、その程度で十分なのだ。もし明日になっても痛みがおさまらず、腫脹が悪化するようなら――その際は専門の医師の診察を受ければ良い。いつでも同レベルの医療が提供できるほど、この国の医療資源は豊富ではない。人材も、そして予算も。
 青年に湿布を処方し終えた信田は、ふらりと救急外来詰所にやってきた。――電話は、鳴っていない。何故自分の当直の夜に限って軽症患者ばかりなのだろうか。信田は奇妙な苛立ちを感じた。重症患者への対応は緊張に満ちているが、やりがいを感じるのもまた事実だ。特に、研修医二年目になってからは、一年目の時よりもずっといろいろなことができるようになった。一年前のようにルート確保でまごまごしていたあの頃とは違う。今ならショックバイタルの患者の鼡径静脈に中心静脈カテーテルを入れることだってできる。Aラインだってとれる。上級医の指導があれば……胸腔ドレーンだって挿入できる、と思う。とにかく、もっと経験を積めば、もっと優秀な医師になれる、そんな気がしてならないのだ。自分は成長している。これからもっと成長できる。そしてそうすれば、もっと多くの人の命を救うことができる――。
 着信が、鳴った。
 信田の背筋がぴん、と伸びる。この着信は、救急隊からのSOSだ。まあ、まれにそんなことで救急車を呼んだのか、というような主訴の患者を載せている場合もあるが……それはそれでSOSには違いない。それを、ここで受け取る……。
 神津は近くにいない。対応できるのは、自分しかいない。
 信田は受話器を取った。
「はい、、明塔病院救急救命センター」
『中央救急隊です』
 焦った口調の隊員が、信田に訴えかける。
『七十八歳女性。急激な下腹部痛を訴えた後意識レベル低下。血圧七十代、ショックバイタル。受けてもらえますか』
 ――急激な下腹部痛。ショック。下血か。消化管穿孔か。緊急手術が必要になるかもしれない。大病院でなければ、受けられない。
 神津に相談しなければならない。必ずそうしろ、と彼ら研修医は厳命を受けている。破ったらどうなるのか――おそらく寿命が二三年は縮むだろう。あの鋭い眼光に一睨みされるだけで、新人研修医や看護師たちは震え上がるのである。自分はどうだろう。ぞっとしない。
 だが、彼の逡巡は一瞬だった。
「受けます。搬送してください」

 数分後。信田の体は壁に吹っ飛んだ。
「お前は馬鹿か……!」
 神津の押し殺した怒声が、患者のいない診察室に響く。信田は突き飛ばされた左肩を抑えた。――縮んだ寿命は二三年では済まなさそうだ。廊下から、心配そうに看護師たちがこちらを伺っていた。誰も近付いてこないのは、神津の発する殺気のせいだろうか。
「でも」
 信田は震える唇を開いた。
「一刻を争うと思うんです! うちが断って、他をあたっているうちに手遅れになるかもしれない……!」
 それこそマスコミの言う「たらいまわし」になってしまうではないか。そんなものに加担するのは嫌だ。一人でも多くの人を救いたい。そのために、自分は医師になったのだから。
 神津は舌打ちをした。彼の細い目は怒りに燃えている。
「お前、今日うちがなんで救急車の受け入れを制限しているのかわかってるのか」
「――知りません」
「聞きもしなかっただろうお前は! それでいて勝手な――」
 不意に神津の言葉が止まった。遅れて信田も気付く。近付いてくる耳慣れた音。救急車の音。
「ちっ」
 今日何度目かの舌打ち。
「とりあえずお前が診ろ。――言っておくが」
 神津は早口に告げた。
「今、うちの手術(オペ)室は満タンだ。定時のオペも終わってない上に、心外が院内発生のAMIの心破裂を緊急でやってる。もしこれから来る症例がオペ物件だったら――麻酔科も、オペ看も足りない」
「…………」
 信田の足が止まる。
「じゃ、じゃあ、急いで転院させなきゃいけないってことですか……」
「それまで持つかな」
 神津の声はひどく冷ややかだった。
「お前の話じゃあ、一番怪しいのは下部消化管穿孔だ。診断つけて、転院先探して、転送して――ああ、ショックバイタルなんだったっけな? 持つか?」
「…………」
「最初から、救急隊が別の病院探してそっちに送った方が早かったんじゃねえか、あァ?」
「…………」
 信田は血の気が引くのを感じた。――自分は人を救いたいと思いながら、むしろ人を危険に晒すような真似をしてしまったのか……?
「いいから行け」
 神津は静かに告げた。
「いいから」
 繰り返される言葉。その意味をはかりかねながらも、信田は救急車に向かって駆け出した。

「――穿孔です。たぶん、原因は(カルチ)による閉塞」
 診断をつけるまでの自分の動きは、いつも以上に素早いものだったと思う。だが、その結果は。信田は神津の目を見ることができなかった。
 神津のため息が頭上に降る。彼は院内PHSを取り出し、耳にあてた。
「あ、チーさん? さっきの件だがな」
 ちーさん、とは誰のことだろう。考えてふと思い当たる。確か、外科副部長の名前は「ちかげ」というのではなかったか。とすると、彼らは友人なのだろうか。
「残念だけどビンゴだったわ。ああ。……すまん、おれのミスだ」
「え?」
 信田の声を、神津は手のひらで遮った。信田は驚いて彼の顔を見つめる。
「麻酔科は? ああ、後はオペ看だけか……それじゃ」
 神津はにやり、と笑って信田を眺めた。
「うちの研修医を貸す。好きに使え」
「ええ?!」
「ああ。……助かる。それじゃあな」
 神津はにやにやと笑ったままPHSを切り、呆気にとられる信田に告げた。
「そういうわけだ。うちの愛すべき副部長先生を手伝って来い。器械出しが要るんだそうだ。頑張れよ」
「は、はあ……」
 茫然と頷く信田に、神津は真顔になって言葉を続けた。
「お前に説明しておかなかったのはおれのミスでもある。確かにお前は早まったが……『この患者は急いで何とかしないといけない』という勘は間違っちゃいない。それに」
 神津は再び笑った。優しい、笑いだった。
「――俺にもお前みたいな頃があった」
「…………」
「救いたいんだろ? じゃあ、お前もお前にできることをしなきゃ嘘だな。診断をつけて投げるだけじゃあ、救ったとは言えない。わかるな?」
「……はい」
 信田は頷く。
「わかりました」
「しかし、今回はちーさんがどうにかして人を融通してくれたから助かったが、次はないかもしれない。良く考えて行動しろ。突っ走るだけが能じゃない。冷静さを失ったら、救急は終わりだ」
 患者を受けても、バックアップがなければどうにもならない。手術室が空いているのか、人手はあるのか、そもそも入院できるベッドは空いているのか。受けるだけ受けてまともな治療ができないのなら、受けない方がましだ。受けておいて治療が間に合わず最悪の結果になった場合、場合によっては医療者側が責任を問われる可能性もある。医療過疎が進む地域の、唯一の基幹病院であるというのならまだしも、ここは都会だ。周囲に他の医療機関があるのだから、この病院に余裕がない場合は他に任せた方がいい。
 神津の言葉が痛いほど胸に突き刺さり、信田は深々と頭を下げた。
「……はい。すみませんでした」
「ああ」
 神津は笑って、踵を返す。
「ま、せいぜいちーさんにしごかれてくるんだな。あいつ、優しそうに見えるが手術中は別人だぜ?」
「…………」
 再び血の気が引くのを感じながらも、信田は頷く。――それで誰かの命が救えるのなら。
 神津は大きく伸びをして、患者の待つ診察室へと戻っていった。