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Case.2 cardiopulmonary arrest

 ぱき、と軽い音が己の手の下で響いた。反射的に手を引きそうになった彼を、即座に叱咤の声が打つ。
「手ェ休めんな。まだ二分経ってねえ」
「…………」
 彼はうなずき、規則的な動きを再開した。両手を開いて重ね合わせ、腕を垂直に下に伸ばして身体を上下に動かす。弾みをつけて、リズミカルに――。
(でも)
 彼――元村は額に汗がにじむのを感じた。
(今、絶対肋骨イッたよな……)
 胸骨圧迫では、しばしば肋骨を損傷することがある。有効な心臓マッサージを行うためには、それくらいの力が必要とされるからだ。そんなことは知っていた――知っているはずだった。やむを得ないのだと、理解してもいた。だが、この腕に伝わった何とも言えない不快な感触については、誰も教えてなどくれなかったのだ。
「二分です」
 タイマーの音ともに、看護師の声が響く。元村は手を休め、肩で息をついた。背後に佇んでいた救急隊員が、彼の肩を叩く。
「かわります」
「あ、ありがとうござ」
「脈触れない! モニター、エーシス! エピ入れろ!」
「は、はい」
 元村は慌ててエピネフリンのシリンジを手にとった。三方活栓を手早く回し、静注する。
「心マ再開します!」
 救急隊員の体が、先程までの元村と同じように上下運動をはじめる。元村は汗を拭い、患者の頭元を見やった。そこで仁王立ちになり、次々に指示をとばしているのは――。
「二分の合間は、休憩時間じゃねえぞ」
 眼鏡の奥の細い目が、ぎろりと元村を睨む。
「脈の有無とモニターチェックしなきゃならんだろうが。あァ?」
「は、はい、すみません!!」
 神津誠一郎――この病院唯一の救急医にして、救命救急センター長である。元村をはじめとする研修医たちは、彼の指導のもとで夜間休日の当直業務をこなしているのだ。神津は医師としての能力はともかく、何分口が悪い。そもそもがトラブルの温床である救急という場において、彼のような人間は甚だ不向きのように見える――のだが。
「……そろそろ三十分経つな」
 神津がぽつりとつぶやいた。来院後心肺蘇生をはじめてから経過した時間、である。
「戻る気配なし、か――」
「…………」
 元村は患者の顔をじっと見つめた。宴会中に突然倒れたのだという、七十代の男性。生来健康で、持病はない。通院歴も、感冒程度しかない。自営業で、健診を受けたこともないという。かえってそういう、「一見健康な」ひとほど危ないのかもしれないな、と元村は思った。病院に縁がないがゆえに、何かしらの病気に気付かずにきてしまったのかも……。
「家族いれるぞ」
 神津はつぶやき、元村を視線で呼んだ。
「マスク、かわれ。換気の仕方はわかるな?」
「は、はい」
 と答えたものの、やはり元村は手つきや換気回数を神津に手酷く修正された。言葉は荒いが、教え方は細かく、丁寧だった。元村は必死で彼の言うとおりに換気を施す。
 神津が元村から視線を外して処置室を出ていくと、元村はほっと息をつきたくなった。だが同時に処置室に残る医師が自分だけであることに気付いて、ひどく不安にもなる。
 神津は無影灯のような男だ。直接見上げれば眩しすぎて目を痛めてしまうだろうが、視線を落とせば手元を明るく照らし出している存在なのである――影すら落とさぬほどに、曇りなく。隈なく。
「――お入りください」
 低い、穏やかな声。それが神津の声だと気付くのに、少し時間が掛かった。
 カーテンが開き、動転した様子の初老女性と、元村と同年代の女性ふたりが転がり込むように入ってきた。
「おとうさん……!」
 口々に声を上げ、そうして目の前の光景に凍りつく。――無理もない、と元村は思った。ストレッチャーの上に横たわる身体は力なく、その胸郭は人為的に激しく上下している。色のない口唇は挿管チューブをくわえ、元村がマスクを揉むたびにこぽ、ごぽ、と喉の奥にかすかな異音を響かせていた。点滴の管は、左右の腕に一本ずつ繋がれている。
「ご覧の通りの状態です」
「な、なんで……!」
 詰め寄る家族に相対しても、神津は静かな表情を崩さなかった。
「わかりません。原因を詳しく調べるところにまでも至れない状態なので。……今、心臓マッサージをやめると」
 そう言って、神津は心臓マッサージを行なっていた救急救命士の背中を軽く叩き、手を止めさせた。
 固唾を飲んでモニターを見守る家族。その目の前で、心電図はフラットになった。鳴り響くアラーム。救命士は無言で心臓マッサージを再開する。
「この状態がもう三十分以上続いていて――」
 神津は淡々と、それでいて丁寧な口調で話を進めた。元村は顔を伏せ、黙々と手を動かし続ける。――どんな顔をして家族の顔を見ればいいのか、わからなかった。心のどこかで、彼はこの患者を諦めている。三十分。心肺蘇生において、それはひとつの区切りの時間だ。これ以上どんなに心肺蘇生を続けても、自己心拍が戻る確率は非常に低い。呼吸もきっと再開しないだろう。万が一心臓が動き出したとしても、不可逆的な低酸素脳症に陥っているから、つまり二度と目が覚めることはない。彼は――おそらく神津も――そう思っている。その己の諦めが、目の前の家族に悟られてしまうのではないかと……怖かった。
「――わかりました」
 妻の涙声が、処置室に響く。神津は沈黙でもって、その言葉の続きを促した。
「もう……結構です。もう……」
 妻は、その言葉を口にした。
「もう、十分です」
「…………」
 神津と目が合い、元村はマスクを揉む手を止めた。心臓マッサージも、少しの迷いをにじませて……やがて、止まった。モニターは少しの間揺れていたが、やがてフラットになった。表示される心拍数は、ゼロ。
 しばしの時間を起き、看護師がアラームの音を止めた。酸素が切られ、点滴のクレンメが絞られる。それら全てが終わったあとで、神津は静かに口を開く。
「――診断させていただいても?」
 長女の身につけていた腕時計を使って、神津は粛々と死亡診断を行った。元村は深々と頭を下げる。家族の泣き声に、元村はぐっと奥歯を噛んだ。疲労と――そして僅かな安堵と。こぼれ出しそうなそれらを、吐息に混ぜて吐き出さないようにするために。

 遺体からモニターが外され、挿管チューブが抜かれ、点滴が取り去られた。神津は黙って患者の顔を見つめていたが、不意に元村を見やった。
「お前、まだ診断したことはないな?」
 それが死亡診断のことだと気付けないほど、元村は鈍くはない。彼は頷いた。
「多分、医者によってそれぞれのやり方がある。お前もお前のやり方を持っておけ」
 神津はそう言うと、くるりと背を向けた。
「人を生かすだけが医者じゃねえ。生ききったことを証明するのも――生と死の境目に線を引くのも、おれたちの仕事なんだ」
「…………」
 嫌な仕事だな、と元村は思った。確かに、神津の言うことは正論なのだろう。人は必ず死ぬ。医者は決して万能ではないのだから、目の前の死に打ち勝てないことなど、これから先いくらでもあるに決まっている。その事実に、いずれ自分も慣れていくのだろうか。――もしかすると、既に慣れはじめているのだろうか。先程自分が噛み殺した安堵は、神津があの患者の上に死という幕を引いてくれたことに対してではなかったか……。
 ――神津先生は、もう、慣れたのだろうか。
「…………」
 視線の先の神津は、いつの間にか右手にシガレットチョコを握っていた。その拳の中で、ぐにゃりと銀紙が曲がる。元村ははっとした。
 ――神津先生は……。
「ちっ」
 小さな舌打ちと共に、彼の手のひらの熱で溶けたであろうそのチョコは、ゴミ箱の中に叩き込まれた。元村はその背中をじっと見つめる。
 ――助けたかったんですよね? 先生。あのひとを、先生は生かしたかった。最後の最後まで、あのひとを諦めたりはしなかった。それでも、いつかは幕を引かなきゃいけない、あれ以上あのひとの体をただただ痛めてしまう前に。それが僕らの仕事でもあるのだから。僕らにしかできない、僕らの仕事。でも、先生はそのことが悔しくて仕方がないのだ。僕なんかよりもずっとたくさんのひとを看取ってきたはずなのに、たくさんの死を見てきたはずなのに、ずっと長くこの仕事をしているのに――こんなことは日常茶飯事なんだ、そんな顔をしていたのに。本当は。
「警察が来るまではまだ間があるな――おい、元村」
「は、はい!」
 神津はくるりと振り向くと、彼に向かって何かを放った。元村は慌ててその放物線の描く先に腕を伸ばす。落ちてきたのは、五百円玉だった。熱がこもっているのは、それが神津の手から放たれたからだろうか。
「缶コーヒー買ってこい。おれと、お前の分な。釣は要らん」
「はい! ごちそうさまです!」
 元村は救急センターを駆け抜ける。ドアの向こうのそらは、わずかに白みはじめていた。