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Case.1 adenoiditis

 深夜二時、明塔病院救急救命センター。第二診察室で、不毛な押し問答が続いていた。
「ですから、口から水分が取れるのであればわざわざ体に針をさして点滴をする必要はないんですよ」
「けど、近所の医院じゃ風邪のたびに栄養剤の点滴してくれるのに……今日はちょっと、仕事休めなくって行けなかったの。だからここでしてもらおうと思って」
 診療所と三次救急救命センターを一緒にされては困る。うちが24時間体制なのは急な重症患者に備えるためであって、仕事で日中病院にかかれなかった人たちに対応するためではない。こういう自力歩行が可能な軽症患者は、本来夜間休日診療所に行っていただかなくてはならないのだ。芝浦は苛立ちを笑顔に押し包み、目の前の若年女性に根気よく相対した。発熱、扁桃腺腫大、咽頭痛。身体所見上はそれ以上の何もなく、彼女も特に採血や胸部レントゲン撮影などの精査を望んでいるわけではなかった。おそらく咽頭炎であって、それ以上でもそれ以下でもないと、本人が一番よくわかっているからであろう。ただ、風邪のときは点滴をしてもらえば早く治るという、芝浦の目から見ると誤っているとしか思えない認識を、どうがんばっても改めてくれないのだった。もしここで彼が折れて点滴をしようものなら、看護師に叱られてしまう。腸炎で水分をとるなり吐き下すというのなら、彼はむしろすすんで点滴をするだろう。だが、彼女のような患者に点滴をしていたら、この救急救命センターに詰めかける患者の数はいつまでたっても減りはしない。
 ――ふと、近付いてくる救急車のサイレンの音が気になった。この病院にくるのだろうか。そうだとしたら、主訴はなんだろう。ここでこんなことをしてる場合ではないのだが……!
「うちは救急ですから、緊急で必要な処置や薬品投与のみを行うことになっています。点滴は明日、いつもの医院で行ってもらっては?」
「無理よ、明日も仕事だもん」
 この国は、もう少し時間外受診のシステムをどうにかしたほうがいい。医師になって一年、その思いは強くなるばかりである。ひどい脱力感に襲われながら、芝浦は語気を強めた。
「とにかく、うちではそういうのは――」
「芝浦ァ!!」
 診察室の扉の向こうから、怒声が響いた。
「ACS疑いだ、さっさと手伝え!!」
「は、はい!!」
 芝浦は飛び上がる。あっけにとられている女性に向かい、早口で告げた。
「重症患者が搬入されてきましたので、少しお待ちいただけますか?」
「ま、待つって、どれくらい……」
「わかりません」
「点滴一つでそんな、」
「芝浦ァ!! 遅えッ!!」
「ひいっ」
 診察室に、白衣を着た男が乱入した。芝浦の首根っこをつかみ、診察室の外に放り出す。
「ちょ、ちょっと……!!」
 抗議の声を上げた女性患者を、男はきっと睨みつけた。黒縁眼鏡の奥の瞳はぎらぎらとして――まるで血に飢えたけもののようだ、と芝浦は思う。
「必要のない医療行為は行えない。たとえ本人の希望があってもだ。医療行為の要不要を判断できるのは医師のみであって、芝浦医師があなたには点滴はいらないと判断した。その判断が気に入らないのなら、他の医師の診察を受けると良いだろう」
「な、なんなのよあんた!!」
「救急救命センター長の神津誠一郎だ。苦情があるならまた改めてお聞きします。……その係のものがね」
 神津は吐き捨て、診察室を後にした。芝浦の姿は既にない。看護師が第二診察室に向かいながら深いため息をついたが、彼はそれを当たり前のように無視した。
 センター長である神津は、ほぼ毎日この救命センターで当直をしている。日中は他科の医師が輪番制に救急を担当しているが、夜間は彼と、医師になって数年以内の初期研修医、後期研修医しかいない。このセンターが活気づくのは夜間であり、神津は完全な昼夜逆転生活をしているのだった。それでも、当直直後から通常業務に戻らなければならない研修医に比べればまだましなのかもしれない。
 先ほど搬入された患者に取付けられたモニターアラームが、けたたましく鳴り続けている。神津は足早に処置室へと飛び込んでいった。

 二十分後。胸痛の急患は急性心筋梗塞と診断され、循環器当直医に引き継がれてカテーテル治療室に運ばれていった。芝浦は大きなため息をつき、ストレッチャーを見送る。まごつくばかりの彼は、終始神津に叱咤され続けたのだった……。
「あの」
 声に振りかえると、先ほど芝浦が診察した女性患者が、ソファに座ってじっと彼を見上げていた。
「あの人、大丈夫ですか」
 心配そうに尋ねられ、芝浦は言葉に詰まる。――大丈夫かどうかなど、わからない。だが……。
「大丈夫だったらいいなと、そう思っています」
「…………」
 女性は少し、俯いた。芝浦は一歩、近寄る。
「あの……、先ほどは失礼しました」
「え?」
 女性が顔を上げ、すぐに目を背けた。多分、先ほど慌てて採血したせいだろう、芝浦の白衣に点々と真新しい血液が飛び散っていた。芝浦は慌ててそれを手で隠そうとする。
「いや、その……ちょっとばたばたしてしまって、途中でお待たせすることになってしまったし。その……」
「ああ」
 女性はふ、と笑った。
「さっきあの先生が来て、薬を処方してくれましたよ」
「え?」
 先生とは――いや、今夜の救急当直は芝浦か、そうでなければ神津しかいない。彼でないのだから、神津以外に考えられない……。
「お水もご飯はとれるんだけど、とにかく喉が痛くってね。そうしたら、痛み止めを使うように、熱も下がるからって」
「…………」
 芝浦はぽかんと口を開けた。一体、いつの間に。
「どうも、ありがとうございました」
 患者は軽く会釈して、彼に背を向ける。歩き去るその後ろ姿に、芝浦はひどく狼狽し、次いで赤面した。――そうか、彼女が点滴にこだわっていたのは……。
 自分は彼女の表面的な訴えにばかりとらわれていた。何故点滴なのか、深く考えようとしなかった。可能なら経口摂取するに越したことはない。そうは言っても、咽頭痛の強い彼女にとってはそれがまさに苦痛だったのだろう。そのことに、思い至らなかった。
 頭ごなしに否定しても、人間関係はこじれるばかりである。相手の意図を汲みそれに対して適切に対処するならば、たとえその方法が元々の希望とは違っても、案外納得してくれるものらしい。実際、今彼女は一度は抱いたであろう神津への怒りを、きれいさっぱりほどいている。
「お大事に!」
 彼の声に、彼女は少し足を止め、振り返って笑顔を見せた。――お大事に。芝浦はもう一度、口中でつぶやく。
「Center Criteriaを満たしてなかったから、抗生剤は出してないぞ」
 背後から、神津の声がした。
「せ、せんた……」
「溶連菌咽頭炎の診断基準だ。勉強しとけ」
「……はい」
 振り返ると、神津はシガレットチョコを行儀悪く口の端で噛んでいた。薄い唇は、かすかに笑っているようだ。
「ま、がんばれ。飴と鞭だ」
「……はあ」
 あめとむち。それは、患者に対してか。それとも自分のような研修医に対してか。芝浦はぽかんと口を開けたまま、ぎこちなくうなずいた。
「それから――」
 神津の言葉をかき消すように、救急サイレンの音が鳴る。
「次、来るぜ」
「…………!!」
 芝浦の横顔を、赤いランプがかすめて過ぎた。神津はその頬を赤く染めながら、次の患者を目を細めて待ち構えている。芝浦は声を挙げた。
「あの!」
「あ?」
「ありがとうございました、あのひと……」
「俺への苦情を一件減らしただけだ。しょうもないこと言ってる暇があれば、咽頭炎とACS(急性冠症候群)勉強しとけ」
「……はい!」
 神津はポケットから何かを取り出し、芝浦に投げ渡した。
「めし、まだだろ。これでも食ってろ」
 ――シガレットチョコレート。芝浦はそれを慌てて口の中に押し込みながら、滑りこんできた救急車へと駈け出した。