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涼野伊織那と馬と牛

 雲ひとつない晴天に頭上を覆われていたのは、ほんの数分前までのことだった。ふと、前方に落ちていたはずの己の影が薄くなっていることに気付き、わたしは空を振り仰ぐ。
「やれやれ」
 いつの間にか、空は薄ねずみ色に塗り替えられていて、遠雷の音も響いていた。間もなくあれは近付いてきて、容赦ない夕立を降らせることだろう。
「あいつ、これを予想していたのかな……」
 出掛けると告げたとき、傘を持って行けと頑なに主張した同居人を思い出す。まあ、それも彼ならば十分にあり得ることだ。天気のひとつ言い当てたからと言って、驚くには値しない。何しろ彼は十年程前に一世を風靡した元天才少年で、いや今も十分に天才ではあるのだろうが、わたしにとって涼野伊織那という男は変人、偏屈、酔狂――そして何よりも、大切な友人なのであった。彼にとってわたしがどういったものであるかはわからないが、わざわざわたしの下宿に居候しているくらいだから、憎からず思ってはくれているのだろう。
 しかし、いくら傘を持っているとはいえ、雷の激しく鳴る中を歩く気はしない。どうせあとは家に帰るだけなのだし、少しばかり雨宿りをしてやり過ごそう――そう考えたとき、空がカッと明るく白んだ。続けて轟音。
「そうら、きた」
 わたしは足早に歩いて、とある店の軒先に身を寄せた。盆に入る時期であるからだろうか、店は閉まっていてひとけはない。
 わたしがそこに足を止めたのと、地面にざあっと飛沫が叩きつけられるように雨が降り始めたのは、ほぼ同時のことであった。
「こりゃあ、傘を持っていても役に立たんかもしれんな……」
 わたしは独りごちる。夏の夕立は激しい。先ほどまでのまばゆい日差しなど嘘のように、じっとりとした湿気に満ちた空気が、重たげにわたしを取り巻いていた。

「――いやあ、ひどい雨だ」
 声に振り返ると、そこにはぐっしょりと濡れそぼったひとりの男と、その男の連れた馬が一頭、佇んでいた。わたしと同じ、雨宿りだろうか。
「どうも」
 わたしが会釈すると、男は驚いたようにわたしを見つめる。わたしの存在に気付いていなかったのかもしれない。まあ、この雨と雷の中では、互いの存在感は希薄になる――わたしも、今の今まで彼らには気付いていなかったのだから。
「ひどい雨ですね」
 わたしが話し掛けると、男は、はあ、とも、ええ、ともつかぬ曖昧な返答をした。
「馬を連れておられるが、遠出ですか」
「ええ、まあ……うちに帰る途中で」
 男は静かにほほ笑んだ。その顔は、あまり日に焼けておらず、やや痩せている。
「まだ遠いのですか」
「いえ、もう少しです」
 久しぶりだから、早く帰って来いと言われているのですけれど……と、男は困ったような、それでいて喜んでいるような、なんとも言えぬ表情で雨にけぶる町並みを透かし見た。そこにはきっと男の家族が待っているのだろう、今か今かと待ち侘びて――なんとなく、そんな気がする。そして、きっと彼のほうも逸る気持ちを圧し殺し、雨宿りを余儀なくされているのだろう。
「でしたら」
 わたしはふと思いつき、手元の傘を差し出した。
「これ、お使い下さい。差し上げますよ」
「えっ」
「わたしの下宿(うち)もここからそう遠くはないし、そもそもわたしは急いでもいません。どうぞ、使って下さい」
「いや、でも」
 男は固辞しようというように手を振る。
「そんなこと、申し訳ない」
「これも何かのご縁です。申し訳なくなどありませんよ」
 わたしは強引に傘を男に押し付けた。はやく、彼を帰らせてやらねば。否、帰らせてやりたい。わたしは強くそう思っていた。
「ほら、雷は止んできたようだし」
「は、はい」
「雨ももう少しすれば止むでしょう、わたしはそれを待って帰ります」
「しばらく止まなければ……?」
「濡れて帰ったところで、たいしたことはない」
 わたしのほうがあなたより若いし、体力もあると思う――などと、失礼なことは口にしない。
「しかし」
 男は狼狽えている。わたしは畳み掛けた。
「ご迷惑ですか」
「いえ、迷惑というのではありませんが……」
「なら、どうぞ。早く、帰ってあげて下さい」
 男はわたしを見つめ、さらに逡巡した後、やがて深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 男は恐縮しきった様子で、傘を差した。ゆこう、と馬の轡をとり、雨の中へと足を踏み出す。その、白っぽい着流し――それとも浴衣だろうか――の裾を、泥がはねて汚してゆくのを、わたしは見るともなく眺めていた。
「…………」
 しばらく彼らの後ろ姿を見送っていたわたしであったが、ふとしらんできた雨空を見上げ、そうして再び視線を戻したときには、男と馬の姿はもはやどこにも見当たらなかった。

 果たして、四半刻もしないうちに雨はやんだ。夏の夕立など、そういうものだ。
 帰宅したわたしをちらりと見た伊織那は、遅かったな、と言った。
「少し、雨宿りをしていた」
「傘を持たせたろう」
「雷も鳴っていたのでな。……それで、たまたま雨宿りをしたところで出会った人が先を急いでいたから、傘をやってしまったのだよ」
「…………」
 伊織那はその切れ長の瞳を大きく見開いて、そうして呆れた、というように、これみよがしに大きなため息をついた。
「己のものを誰彼となく何でも簡単にほいほいとくれてやるものではないぞ、明智」
「簡単でもないし、ほいほいとでもない」
 わたしは縁に続く障子を開け放った。夏の夕の、未だぬるくありつつもどこかひんやりとした気配をにじませた風が、庭からゆるゆると流れ込んでくる。
「ただ、今日はそうせねばならぬ気がしたのだ」
「……どういうことだ」
 伊織那が怪訝そうに尋ねてくるが、わたしは答えるすべを持たなかった――それは理屈ではない、ただの直感のようなもの。そうしてやりたい、そうせねばならぬ、と強く強く思った、それだけのことだ。
 わたしは冗談めかして言った。
「おれの勘はよく中るのだぜ」
「……よく云うよ」
 伊織那はひょいと肩をすくめて立ち上がる。
 わたしとすれ違いざまに、彼はぽつりとつぶやいた――ような気がした。
「……あまり中るのも、困ったものなのだかな……」
 ――と。

 数日後。わたしは容赦なく照りつける日差しに辟易しながら、常と同じ道を歩んでいた。今日は傘を持って行けとは言われなかったから、きっと雨は降らぬのだろう。それはそれで、加減のない暑さには辛いものがある。あとからあとから出てくる汗は、にじむというよりもむしろ噴き出すという形容がぴったりだった。首筋を拭うハンカチは、既にぐっしょりと湿っている。
「もうし――」
 不意に聞こえた呼び止める声は、わたしにあててのものだろうか。わたしは足を止め、声の方角へと視線を向けた。
 数日前、例の雨宿りをした店先である。まだ盆は明けていないから、店も開いてはいない。その軒先に、先日わたしが傘を渡した男と、一頭の牛とが佇んでいた。
 ――はて、馬はどうしたのだろう。
「やあ、奇遇ですね」
 わたしが笑顔で歩み寄ると、男は笑ってわたしに傘を差し出した。
「これを返そうと思って、お待ちしておりました」
「そんな、わざわざ」
 わたしは絶句する。そんなことのために、いつ通るかもしれぬ――通らぬかもしらんわたしのことを、ここでじっと待っていたというのか。
「差し上げると申しましたのに」
「いえ、いいのです。頂くわけには参りません」
 男はゆるく首を左右に振った。
「それに……帰りはゆっくりでよいのです」
「はあ」
 それで、馬ではなく歩みの遅い牛を連れている、ということなのか。
 わたしは困惑しつつも、差し出された傘を受け取った。
「……ありがとうございます」
「それはこちらの台詞ですよ。あの時は、助かりました。それに、とてもうれしかった」
 男はどこか晴れ晴れとした顔でそう言った。きっと良い帰省になったのだろう、とわたしは思う。
「次はいつお越しになるのです?」
 尋ねると、男は少し寂しげに答えた。
「また来年、帰ってくることができればと思うのですが……」
「……日頃は遠くにお住まいなのですか」
「ええ、とても」
 どういった事情かはわからないが、家族と離れて暮らすのはさぞかし寂しいことだろう。わたしはただ学業の為の下宿であるが、それでも伊織那という居候がいなければ、随分人恋しい思いをしたことだろうと思う――無論、伊織那にはそんなことは言わないが。
「遠くまでゆかれるのなら尚のこと、このままその傘をお持ちになったほうが良いのではありませんか」
 わたしは言う。――そもそもこの男、極端に荷が少ない。否、荷の類が見当たらない。どこまでゆくにせよ、牛の脚でそうそう早く、遠くまではゆけぬだろう。それに、この暑いなか、水は足りるのか。だんだんと、様々なことが心配になってくる。
「いえ、ご心配には及びません」
 男はあっさりとそう言い、そして牛の首を軽く叩いた。
「さて、わたしはわたしの道をゆくことにしましょう――ゆっくりと」
 おそらくは家の方角に向けられたのであろうその眼差しは、とても名残惜しそうではあったけれど……しかし、同時に諦めも色濃く影を落としていた。
「…………」
 呆然と佇むわたしを後目に、男は陽炎揺らめく中、牛と共にその場を立ち去る――数度瞬きするうちに、わたしはその姿を見失っていた。
「彼は、一体……」
 ――ぽつり、とわたしの頬に雨粒が落ちた。また夕立か、とわたしは慌てて目の前の軒先に身を寄せる。もしかして今日伊織那が傘のことを喧しく言わなかったのは、きっとこれを返してもらえると知っていて――いや、真逆。

「わあ、」
 と声を上げて、ふたりの子供がぼんやりとしていたわたしの方に駆けてきた。
「雨だ」
「雨だね」
「すぐやむといいけど」
「ねえ」
 ふたりはわたしを見向きもせず、肩を寄せてぼそぼそと言い合っている。
「おとう、無事に帰れたかな」
「だいじょうぶ、ぼくら馬も牛も、上手に作ったもん」
「今ごろおとう、茄子の牛に乗ってるね」
「ゆっくり帰ってってお願いしたから、まだその辺にいるかも」
「そういや、馬の脚――胡瓜に挿した楊枝さ、なんか泥で汚れてたよ」
「ああ、それはあの日……おとうがうちに帰ってきた日、夕立が降ったからだろ」
「そっか」
「そうだよ」
「あ、雨小降りになってきた」
「おかあが心配する、早く帰ろう」
「帰ろう」
「うん」
「うん」
「…………」
 現れたときと同じく唐突に、ばっと子どもらが飛び出していくのを、わたしはただ見送ることしかできなかった。
「…………」
 ――そうか、と声ならぬ声でつぶやく。それで、あの男は。
 わたしは今更、すべてを合点して……。

 雨のやんだ空には虹がかかっていた――それはちょうど、男が牛を連れて歩いていった、まさにその方角であった。