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涼野伊織那と雪の嫁入り

 何故こんなことになったのか。わたしは頭を抱えたくなった。
 わたしの目の前には、炬燵に足を突っ込んだひとりの男と、それと炬燵を挟んで向かい合うように正座している着物姿の女。男の方はよく知っている。我が幼馴染にしてこの下宿の居候、頭の切れる天才だが偏屈極まりない変人――涼野伊織那である。対して女はというと、実のところ私は彼女を知らない。わたしとしては初対面のつもりなのであるが、どうやら向こうはそうは思っていないらしく、そこが問題であった。
 わたしが大学から下宿に帰ってくると、既にこの有様であった。伊織那と見知らぬ女が――主に女の方が彼への敵意を剥き出しにして、じっと向かい合っていたのである。
「あのっ」
 女が声を上げ、わたしを振り仰いだ。長い黒髪と白くぬける肌の、まるで名工の手による人形のような、気後れするほどうつくしい女である。
「明智さま! そんなところに突っ立っていらっしゃらないでお座りくださいませ」
 そのような尊称をつけて、しかもこんな美女に名前を呼ばれることなど、そうそうないことである。わたしは面食らって、はあ、とつぶやいた。とはいえ、彼女の言うように彼らと並んで炬燵に入るつもりはない。そんなのはごめんだ。息が詰まる。
 伊織那が小さく鼻で笑った。
「ここはきみの家じゃないだろう。家主に向かって、随分とえらそうな言い草だ」
 そういうおまえも居候なんだがな――と口を挟む間もなく、女が激昂したように鋭い声を上げた。
「まあ! そもそもわたしは明智さまに会いに来たのですよ。あなたは無関係だわ!! 引っ込んでいらして」
「そう思うなら無視すればいいだろう。おれがどこに居ようが、何を言おうが、それはおれの自由だ」
「お、おい、伊織那」
 わたしは慌てて口を挟んだ。
「そこまで言わなくとも良いだろう。この方がおれを訪ねてきたのなら、おれの客だ。あまり無礼な振る舞いをするものではない」
 伊織那を窘める。憮然として彼が口を開きかけた時、女が勝ち誇ったように言った。
「ほおおらご覧なさいな! 明智さまもこう言っておられるわ。早く私たちをふたりきりにしてちょうだい」
「あの、お客人」
 わたしは髪をかきながら口を挟む。
「彼はわたしの大切な友人です。彼の無礼な言動はわたしが代わりに謝罪しますが、あまり彼を煽るようなことは言わないでいただけませんか」
「まあ」
 女はそのたおやかな両手で口元を抑え、目を潤ませた。
「なんとお優しい……! やはり明智さま、素敵なお方……」
「ああ、ええと」
 わたしはなんとも面映ゆい思いで女を遮った。
「何はともあれ――あなたのお名前をお聞かせ頂けませんか」
 女はこくんと頷いた。
「わたくし、ゆき、と――ゆきこと申します」
 頭を下げると同時、長い黒髪がさらりと雪崩れる。
 彼女の風貌とその纏う白い着物は、その名ととても良く似合っていた。

 ゆきこは、ぽつりぽつりと語り始めた。――書き記すことすらも面映ゆくなるような話ではあるのだが、端的に言うとつまり、
「明智さまに、心を奪われたのです」
 ――ということらしい。
 わたしは顔に血の気の集まるのを感じる。このような事態に、わたしは非常に不慣れなのだ。
「しかし、一体どこで、わたしを……」
「何度かお見かけしたのですわ。道で猫をかまったり、犬を撫でたり――怪我をした鳥を助けてやっていたこともありましたわね」
「妙なものに情けをかける癖は変わらんな、明智」
 つぶやいて、伊織那はその伸びた髪をかき上げる。平凡なわたしなどより、この男のほうが余程整った顔立ちをしていると思うのだが、ゆきこは彼には見向きもせず、奇妙な熱のこもった眼差しをわたしに注ぎ続けていた。
「わたくし、明智さまのその優しい眼差しに惹かれました」
「はあ……」
 大学への行き帰り、たしかにいろいろないきものに出会って足を止めることはある。しかし、彼女は一体それをどこから見ていたのか。さほど人通りの多い場所ではない。こんな女性が道を歩いていれば、いかに鈍いわたしもきっと気が付く。それなのに、わたしの方は彼女を今の今まで見た覚えが少しもないのだった。
 それに、ゆきこという女、この家をどうやって探し当てたのか――いや、そもそもわたしはこの女に名乗っただろうか。伊織那が勝手に彼女に名を明かすとは考えにくい。それでは、何故――。
 まあ、いい。わたしは軽く(かぶり)を振った。ゆきこの真摯な口調に、嘘はなさそうである。それならば、わたしは彼女の気持ちに誠意を持って応えねばならぬ。
 ――伊織那の目の前で、というのが何とも困ったものだが、伊織那はこう見えて気の利かぬ男ではない。彼が席を外さぬのには、それなりの理由があるのだろう。或いは彼は寒がりだから、炬燵から出たくないだけかもしれないが。
 わたしは気を取り直し、口を開いた。
「お気持ちは分かりました――して、今宵のご用件を承りましょうか」
 できるだけ冷静に、わたしはその問いを口にする。
 ゆきこは潤んだ瞳でわたしを見つめた。
「わたくし――明智さまに嫁入りするつもりで参りました」
 ぶっ――と伊織那が無言で茶を吐き出した。わたしはあんぐりと口を開ける。
「は、はい……?」
 今、なんと?
 ゆきこの白い肌は、赤く染まっていた。
「で、ですから――わたくしを、明智さまの妻に――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
 わたしは目眩を覚えて額をおさえた。
「わたしはあなたと話すのは初めてですね?」
「そうですわ」
「わたしは先程まであなたのお名前も存じ上げなかった」
「早く呼んでいただきとうございます」
 いや、そうではなくて。わたしはちらと伊織那を見下ろした。彼は変わらずの仏頂面で先程溢した茶を拭っている。その行動自体は感心だが、何故それを己の綿入れの袖口で行うのかが甚だ疑問である。
 わたしはふう、と息をついた。
「お気持ちはありがたいが、しかし……」
 わたしはこの女のことを何も知らない。この状況で彼女を受け入れる男がいたとしたら、それはどう考えても不純な動機であろう。わたしはそんな不誠実なことは嫌いである。
「ゆきこ、さん」
 おそるおそる名を呼ぶ。彼女はその響きを耳にして、ぱっと顔を明るくした。その反応は、ひどく可愛らしい。
「わたしはあなたを知らなさすぎる。あなたもです。わたしのことを、ほんとうに知っているとはいえない」
「そ、そんなことは……、」
 わたしは首を横に振る。
「あまり、己を軽々しく差し出すものではありません。ご自分を大事にせねば」
 ゆきこは悲しそうに目を伏せた。
「……明智さまは、わたくしがお嫌いですの?」
「嫌いではありません」
 嫌うも何も、わたしは彼女のことを何も知らないのである。
「でも……」
 ゆきこはちらとその視線を伊織那にやった。彼の方はというと、行儀悪く頬杖をついて無視をしている。雪の積もった庭を眺めているようでもあった。
「とにかく、もう少し時間を掛けて、互いを知らぬことには」
「わたくしには、時間が……」
「時間?」
 まさか、病にでもおかされているというのか。顔色を変えたわたしに、ゆきこはそうではない、と言った。
「わたしは、ただ……春にはお暇しなくちゃならないから、それで……」
「転居されるのですか? 遠くへ?」
「…………」
 わたしの問いに、ゆきこは俯いて答えない。赤い唇をかみしめているのが、ちらりと見えた。
「わたくし、明智さまに、一緒に来て欲しい……」
「は……?」
 ゆきこが顔を上げる。その顔は、紙のようにまっしろだった。ぞく、と背筋が震えた。
「明智さまを見ていると、あたたかくなれる――わたしはずっとずっと、ひとりで凍えていたのに――明智さまは、明智さまだけは」
 突然、ぶわわ、と冷たい風が吹きつけた。わたしは息を呑み、体を縮める。まるで激しい風雪に晒されているかのような、凍りつく冷気。そしてそれの源は、間違いなくゆきこなのだった。
 ゆきこは、もしや――。
「明智さま、どうかわたくしの側に……わたくしのものに」

「断る」

 りんとした声が、場を打った。
 ゆきこのうわごとのような囁き声を打ち消したのは――伊織那。
 わたしはいつの間にか閉じていた目を開け、友を見遣った。寒くて寒くて、歯の根が合わぬ。冷たい風は部屋中を逆巻いている――しかし、伊織那は風に煽られることもなく、相変わらず炬燵に足を突っ込んで身じろぎもしていない。
 この風は、わたしだけを押し包んでいる。まるで、わたしを氷雪の中に閉じ込めようとでもしているかのように。
 ゆきこがきっと眉をつり上げた。その見開かれた目は、真っ赤に染まっている。
 流石の鈍いわたしにも、もはや疑う余地はなかった。ゆきこは、ひとではない。
「おまえに指図される謂れはないわ!」
「おまえなどに」
 伊織那はあくまで平静であった。
「こいつはやれないよ、ゆきおんな」
 雪女、だって? わたしは仰天する。だが、あまりの寒さに声が出ない。
 ゆきこがぎり、と歯を食いしばる。
「わたくしの邪魔をするつもり?!」
「ああ、そのつもりだ」
 伊織那の声は淡々と続く。
「明智はあのとおりのやつだから、まあ雪女が少しくらい遊びに来るくらいのことは構わぬかと思っていたが――こうまで欲を出すようではな」
「おまえ!」
 ゆきこの――雪女の顔が歪む。怒りにか、それとも恐怖にか。両方か。
「何者なの?!」
「おれが何者かは、」
 伊織那が顔を上げる。みどりいろのまなこが奇妙な光をたたえて、雪女を見据えていた。
「おまえには関係のないことだ」
 悲鳴。
 視界が白く染まる。
 身体を包んでいた冷気が、和らいでいく。
「いや――いやよ」
 それは、泣き声のような。
「ひとりきりで、寒いのは嫌――冷たいのは嫌――」
 さびしいのは、いや――。
 わたしは思わず、声をあげていた。
「ゆきこ、どの」
「……明智さま?」
 眩暈のように揺らめいていた視界が、すうっと拓ける。床の上にへたり込むようにして、雪女が――小さな少女が、蹲っていた。不思議なことに、先程までよりもずっと幼く見える。
 しくしくと泣く彼女に、わたしはそうっと声を掛けた。
「一緒には行かれませんが――そう、先程伊織那が申したように」
 おそるおそる腕を伸ばし、そのうつむいた頭にぽん、と手を置く。思ったよりも、冷たくはなかった。
「遊びに来られれば良い。冬のたびに、会いに来てくだされば良い」
「明智――」
「明智さま」
 伊織那が何かを言うより先に、雪女が小さな声でつぶやいた。
「怒ってはいないの?」
「怒ってはいません。驚きはしましたけれど」
「わたしを嫌いになってはいない?」
「嫌ってはいません」
「ほんとうに?」
「ほんとうです」
 でも、無理やり連れて行こうとするのはやめて下さいね。
 そう答えると、少女はほろほろと泣き始めた。頬から滴る氷の結晶が、床にきらきらと舞い散っては溶けてゆく。
「ありがとう――ありがとう……」
 彼女は何度もそう繰り返しながら、やがてその姿は粉雪のように舞い、消えていった――。

 ゆきこを見送り、わたしは大きなため息をついた。ぶる、と体を震わせる。
 のそのそと炬燵に潜り込もうとすると、そこには長く伸ばした伊織那の足があった。彼の顔を見てみると、やはり仏頂面である。
 何か言われるより先に、とわたしは口を開いた。
「雪女って、本当にいたのだな」
「おまえを殺して、連れて行こうとしていたな」
 淡々と伊織那は言う。
「いくら美人でも、それは困る」
 わざとらしく笑い飛ばそうとするが、伊織那は乗っては来なかった。彼はじっとわたしを見つめている。そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「また、来るかもしれんぞ。おまえがそう言ったから」
「まあな」
 わたしは頭をかく。伊織那は呆れたような、困惑したような、なんとも形容し難い表情を浮かべる。
「自分を殺そうとしたあやしを、自ら招き入れるつもりか」
「寂しかったんだろう。そう言っていたじゃないか」
 わたしは澄ました顔でいう。
 雪女が怖くなかったわけではない。ただ、ひとりで寒い、冷たい、寂しいと泣くあの小さな少女に、ほんの少し、同情してしまったのだ。
「おれたちでもてなしてやれば、大丈夫だろう」
「おれたち?」
 伊織那が聞き返す。わたしは頷いた。もちろん、わたしひとりで彼女と対面するつもりはない。伊織那も道連れにするつもりである。
「今度はお茶くらい振る舞ってやれよ」
 伊織那は答えずに肩をすくめる。わたしはつと目をそらし、庭を眺めた。
「ほら、雪がやんだようだ」
 明るい月明かりが、さえざえと照らし出している。
 ――雪女は、もう凍えてはいないだろうか。そうだといいが。
 床の上に散る氷の結晶が儚く消えてゆくのを眺めながら、わたしは炬燵に体を埋めるのだった。