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涼野伊織那と金色の記憶

 むせかえるほどの甘い香りに、わたしは足を止めた。頭上を見上げると、小粒な金色(こんじき)の花が咲いている。
「木犀か」
わたしはつぶやいて大きく深呼吸をした。この匂いは、懐かしい。昔、わたしの実家の庭には木犀があって、秋が来るたびにかぐわしい匂いを放っていた。その木は数年前に枯れてしまったのだが、わたしにとって木犀は故郷の秋の匂いなのである。
「あいつは覚えてるかな」
 口に出すと同時に、わたしは思わず苦笑を浮かべていた。脳裏に浮かんだ仏頂面は我が家の居候、涼野(すずしの)伊織那(いおな)のものである。幼い頃から天才との呼び名が高かった彼が、何かを「覚えていない」などということはあり得ない。彼の記憶力ときたら呆れるほどで、わたしと最初に会った日をその年から曜日に至るまで諳んじているほどだ。……ただしこの話には後日談があって、感嘆するわたしに伊織那は言った――「お前が覚えていないことを予想して、適当を言ってみせただけかもしれないぜ。どうせ正誤の判定はできっこないんだからな」と。本当に根性のひねくれ曲がった男だ。
 何はともあれ――彼にこの匂いをかがせたい。わたしはそう思った。米国に木犀が咲くのかどうかは知らないが、あちらの木犀が伊織那に郷愁をもたらしたとは考えられない。そもそも彼の辞書に郷愁の二文字があるのかも疑わしいのだが、とりあえずその点については不問に伏すことにしよう。だいたい、十年ぶりに日本に帰ってきたというのに、伊織那はわたしの下宿にこもって本ばかり読みふけっていて、不健康なことこの上ない。彼が読んでいるその本も、わたしが大学の図書館から借りてきてやっているのである。彼がやっていることといえば、紙の切れ端に読みたい本の題名を書き止めてわたしに寄越すことだけだ。たまに庭の掃除くらいはしているらしいが、たいして綺麗にはなっていないから、ただ散歩しているだけなのかもしれない。それでも陽の光に当たっているだけましか。
 わたしは立ち尽くしたまま、じっと木犀を見上げた。
 彼は知っているのだろうか。世界を季節が行き変わっていくこと。つい先日まで天高く立ち上っていた入道雲がいつの間にか姿を消して、今は遠い空に鱗雲がたなびいているということ。もうすぐ地面を落ち葉が彩って、やがて雪が降る。そうして年が明ければ、またあちこちの木の枝から新芽が吹き出す。伊織那はあの狭い家と庭で、それに気付けるのだろうか。大切なものを見落としてしまっているのではないか。なまじ頭の回転が早いだけに、彼は世界を置き去りにどこか遠い場所へ行ってしまっているのではないか。――それは、とても寂しいことだと思った。そして、悲しいことだとも。
 ……気が付くと、わたしは随分と長い間ぼんやりしていたらしい。足元の影が先ほどよりも随分長く伸びているのを見て、わたしは慌てて家路についた。

 家に着くと、伊織那は案の定机に向かって分厚い本を広げていた。わたしの気配を感じてか、長く伸びた前髪の間から、ちらりと視線を投げて寄越す。
「遅かったな」
「ああ」
 短く答えたわたしに、伊織那はそれ以上何も聞かない――と思ったのだが、意外にも彼は紙を繰る手を止め、わたしに向き直った。
「お前、すごい匂いがするぞ」
「え?」
 袖を鼻にあててみるが、自分では良くわからない。
「くさいか?」
「いや、くさくはないが……」
 言いながら、伊織那はくすりと笑った。
「お前、よほどその匂いが好きなのだな」
「え?」
「昔――お前の庭に同じ匂いのする木があったろう」
「ああ」
 なるほど、木犀の下に長く立っていたせいで、わたしに匂いが染みついたらしい。たぶんわたしの鼻は既に麻痺してしまっていて、匂いをとらえられなくなっているのだろう。
 それにしても、伊織那があの木のことを言い出すとは。もちろん、彼が覚えていることに驚いたのではない。伊織那の口調が妙に優しく、過去を懐かしむような調子だったことに驚いたのである。
 伊織那は、そのみどりがかった目を薄く細めた。
「おれが日本を離れることになったのはちょうど秋だったが……お前が餞別に寄越したのは、あの匂いだった」
「餞別に、木犀の匂いを?」
 伊織那が言うのだから、きっとわたしはそうしたのだろう。だが、どうやって匂いを餞別にしたのか。さっぱりわからない。
「知っているか」
 伊織那は長い睫毛を伏せ、唇を緩めたまま言葉を紡いだ。
「脳の中で、嗅覚を司る部位と記憶を司る部位は近くにあるらしい。だから匂いを鍵にして記憶が呼び出されることもあるし、その逆もある」
 ――目の前にいる伊織那が、幼い日の彼の姿と重なった。醒めたみどりの瞳、愛想のない無表情。渡米するとわたしに告げたのも唐突で、その時も特に何の感慨もない様子だった。寂しくないのかと尋ねたわたしに、彼は首を横に振って答えたが、本当に寂しかったのはたぶんわたしの方だっただろう。彼が旅立つまでもう日がなくて、それでも何か彼に渡したくて――彼の中に自分を残しておきたくて――。
 伊織那はつと立ち上がり、彼の数少ない私物をおさめた棚の中から何か小さなものを取り出した。汚れた硝子瓶。掌に載せたそれの蓋を指でつまみ、回す。
「あ……」
 わたしは声をあげた。伊織那がその瓶の蓋を開けた途端、部屋をあの甘い匂いが満たしていた。
 ――彼に何か、自分を覚えていてもらえるものを。そう考えたわたしは、家にあった空き瓶を一晩ずっと庭の木犀の下に置いて、その中に匂いを溜めようとした。朝になって、本当に匂いが溜まったのか不安ではあったけれど、伊織那の元に届けに走った。彼は驚いたようにわたしを見て、それでも短い礼を言って受け取ってくれた。まさか、今でもそれを彼が持っていたとは……それに、十年経つというのに匂いはこんなに鮮やかに……。
「どちらだと思う?」
 伊織那は――あれから十年経ってすっかり大人になった伊織那は、相変わらず不思議に笑っていた。
「お前があの時のことを思い出したから、匂いを感じたのか――それともこの匂いを嗅いだから、思い出せたのか――」
「……そんなこと、おれにはわからないよ」
 つぶやくわたしに伊織那は苦笑して、瓶の蓋をきゅっと閉めた。
「お前は不思議な男だな」
 それはおれの台詞だ。わたしがそう言うより先に、伊織那は言葉を続けた。掌の中にその小瓶を弄びながら、
「何にも知らない癖に、お前のどこかがちゃんと知っている」
 いつになく真面目な口調だが、わたしは彼が何を言っているのかよくわからなかった。
「何のことだ?」
「記憶と匂いの関係も、知らなかったろう?」
「ああ」
「でも、お前は知らないうちにそれを結び付けて、おれに託した」
「…………」
「お前は面白い男だよ」
「……お前にだけは言われたくない」
 かろうじてそう返したわたしをちらりと見遣って、彼は再び本へと戻って行った。彼の指は、未だ小瓶を捕えている。ああやってすっと取り出してきたところをみると、彼はあれを気に入っていたのかもしれない。遠い異国の地で木犀の匂いを嗅ぎ、彼は一体何を思い出していたのだろうか。
 部屋の中に漂っていた甘い香りが、ゆっくりと薄らいでいく。まるで、夢から醒めるようだと思った。
「面白いな、人間というやつは」
 自分は人間ではないかのような台詞をつぶやいて、伊織那はその掌の中に金色の記憶を握りしめる。
「まるで、世界そのものだ」
 いつものことだが、彼の言う意味は良くわからない。だが、その声ははっとするほど優しかった。わたしは安堵する――伊織那は大丈夫なのだと、世界からはぐれてはいないのだと感じて。