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涼野伊織那と逢魔が刻

 その日は朝からどうも体がだるかった。昨晩雨が降ったせいで今朝は随分と冷え込んだから、風邪を引いたのかもしれない。重い足を引きずって大学に出かけたが、案の定少しも講義は頭に入ってこなかった。あとで帳面を見直そうにもふらふらと筆跡が乱れているから、きっと苦労するだろう。そういえば大学での講義内容くらい、うちの居候なら解説してくれるかもしれぬ。それとも歴史や文学は専門外だとにべもなく断られるだろうか。
「やれやれ……」
 夕方になっても道はまだぬかるんでいて、わたしはそれに足を取られそうになりながらも、家路をふらふらと歩んだ。秋の陽はつるべ落としとは良く言ったもので、刻一刻と夕日が地平線に近付いていく。早く家に帰りたいと焦る気持ちに反して、わたしの足はちっとも前に進まなかった。足だけでははなく、頭も重い。目の裏がひりひりするのは、もしかすると熱のせいだろうか。――参った、とわたしは今日何十回目かのため息をついた。と同時に足も止まる。どこかで休憩しよう。少し呼吸を落ち着けて、気分が良くなるのを待とう。本当にそう上手くいくものかどうかはわからないが、このまま歩き続けるのは無理だった。ちょうど橋のたもとに差しかかったところで、わたしはその橋の欄干に腰を掛ける。石造りのそれはひんやりとしていて、わたしの熱を持った体にはちょうど心地が良かった。
「参ったなあ」
 つぶやいて、咳き込む。足元に伸びる影は長かった。こうしているうちにも、刻一刻と夜が近付いてくる。どうにかして家にたどり着かなければならないのだが……。
 
 ――ぽちゃん。背後に水音が響いて、わたしは首を巡らせた。眼下に流れる川の表面に、一艘の小船が浮かんでいる。ゆらゆらとこちらに近付いてきたと思うと、やがて橋の手前の川岸に止まった。
「もうし」
 船頭らしき男が、わたしの方を見上げている。
「そこの方。乗って行かれませんかな」
「え……?」
 わたしは慌てて辺りを見回すが、わたしの他に人影はなかった。船頭が声を掛けたのは私で間違いがないようである。だが、わたしの方に心当たりはない。
 船頭が再び声を張り上げた。
「貴方のお家まで、お届け申しまするぞ」
「家まで?」
 わたしは目を瞬かせる。この川で渡し船をやっているという話は聞いたことがないし、もし渡し船があったとしてもそれに乗ったところでわたしの家に帰ることができるとは思えない。
「人違いではありませんか」
 やんわりと断ろうとしたのだが、船頭ははっきりと首を横に振った。
「頼まれて明智(あけち)どのをお迎えにあがったのです。さあ、お乗り下され」
「頼まれた?」
 手ぬぐいを下敷きにして笠をかぶった船頭は、その特徴のない顔をわたしにじっと向けている。何故彼はわたしの名を知っているのだろう。もちろんわたしは名乗ってなどいない。頼まれたとは、一体誰に……。
「…………」
 わたしは心に決めた――ええいままよ、この船頭に水先案内を任せよう。このままこうしていても家に帰り着けるわけではないし、どうやら船頭は善意でわたしに声を掛けてくれたらしい。だとするならば、あまり頑なに拒むのは彼に申し訳ないような気もする。
「それでは、よろしくお願いします」
 ふらふらとよろけながらも岸に降り、船に乗り込むと、船頭は長い棒をとんと川底について、船を川岸から離した。そのまま、船はすいすい水面を進んでいく。
「…………」
 船頭は、わたしに背を向けている。その背中を眺めながら、わたしは大きな欠伸をした。ここで眠るべきではないことくらい、わかっていた。得体のしれない船頭、行き先のわからない船。だが、睡魔には逆らえなかった。それに、この船頭を警戒する必要などきっとない。もちろん根拠はないが、わたしがそういったことで間違うことはないのだ。だから、きっと彼に任せておけばいい。――瞼がゆっくりと落ち、視界から船頭が消えていく……。

「おい」
 はっと目を覚ますと、そこはわたしの家の縁側だった。……いつの間に帰ってきたのだか、全く記憶にない。そういえば船に乗って揺られていたような気もするのだが、それも定かではなかった。
「伊織那……?」
 ぼんやりと声の主を見上げると、それはやはり伊織那(いおな)だった。涼野(すずしの)伊織那。ひねくれものの、うちの居候だ。縁側に座り込んでいるわたしを、いつも通りの仏頂面で見下ろしている。
「熱があるのだろう。そんなところでぼうっとしていないで、うちに入ったらどうだ」
「あ、ああ……」
 何故伊織那はわたしが熱を出していることを知っているのだろう。不思議に思いながらもあえて尋ねることはしなかった。そんなことは、たいしたことではない。
 伊織那の横を通り過ぎる時、ふと彼が手にしているものに目が止まった。油揚げだ。
「それ、どうするんだ?」
「うん? いや、ちょっとしたお礼にな」
「お礼?」
「ああ」
 皿に載せていたそれを、伊織那はぱっと草叢に放った。すると黄金色の何かが一瞬だけちらっと見えて、すぐに見えなくなる。油揚げもまた同時に消え失せていた。空になった皿を持った伊織那が、ちらりとわたしを振り返る。
「逢魔が刻」
「何?」
「黄昏どきのことを言うのさ。いい時間に帰ってきたな、明智」
「…………」
 ぼんやりした頭では、彼が何を言っているのか良くわからない。だが、何となくわかった――自分が家に無事に帰ることができたのは、きっと目の前のこの男のお陰なのだろうと。伊織那の周りには不可思議なものが良く集まってくる。きっと類は友を呼ぶというやつだ、それに違いない。
 伊織那は謎も多いし口も悪い困ったやつだが、決して悪い男ではない。それと同じで、彼の周りの妙なものたちも決して悪いものたちではないのだ。それだけは、わたしが保証してもいい。
 わたしは伊織那に問い掛けた。
「なあ、お前への礼はどうすればいい? 油揚げでいいか?」
「まさか」
 伊織那は小さく吹き出した。
「馬鹿なことを気にせずに、お前はまずゆっくり休め」
 いつも通りのぶっきらぼうな口調。だが、どこかあたたかいような気がした。
「そうか……」
 自分の表情がふ、と緩むのを感じる。
 次の満月は、中秋の名月。団子を買ってきて月見をしよう。伊織那の好きな蓬の団子と、それから油揚げも忘れずに供えておかなければならぬだろう。わたしを助けてくれた、名も知らぬ誰かのために。

 その夜、わたしは夢を見た――月で狐が油揚げをかじる、そんな夢だった。