instagram

涼野伊織那と赤い老人

 わたしの下宿する地は比較的温暖な地方ではあるが、それでも年に数回は夜のうちに世界が一面の銀世界に塗り替えられることがある。恐らく、今日もそんな一夜になるのであろう。
 唇の隙間から漏れ出す白い息がしんしんと降る雪の間を立ち上っていくのを眺めながら、わたしは帰路を急ぐ。そんなに遅くなるつもりではなかったのに、さすが一年の中で最も昼の短い時期だけのことはある、あたりはすっかり暗い。
 路傍や木々の枝の上に積もり始めた雪が、仄白く辺りを照らしている――

 ふと、わたしは足を止めた。土手の下から、ぶるるるる、と馬が鼻を鳴らすような、そんな音が聞こえる。このあたりに馬を飼っている家などないはずなのだが。
「…………」
 小声ではあるけれど、ひとの声もする。男の声だろうが、言葉は聞き取れない。
 誰だろう。なぜこんな時間に、こんな人通りのない場所、しかも動物を連れているのか。好奇心がむくむくと頭をもたげた。わたしの下宿に居候している同居人に、時に揶揄され、時に窘められもする好奇心である。何にでも気安く近寄るものではない、只でさえお前は妙なものを引き寄せやすいのだから――と。その「妙なもの」の最たるものがそう言う本人だと思うのだが、わたしはそうは告げないでやった。なけなしの優しさである。
 わたしはおそるおそる口を開き、その声のする暗がりへと呼び掛けた。
「……どなたかおられるのですか」
「ほっほ!」
 今度ははっきりと声がした。やはり、高齢の男性だ。
「あ、あー……」
 咳払いをしたあと発声練習のようにやや声を伸ばして、その男はわたしに呼びかけてきた。
「実は……トナカイがぬかるみにはまり込んでしまったのじゃ」
「となかい?」
 聞き慣れぬ言葉にわたしは訝しみながら、懐に冷えた手を突っ込んだ。たぶん、燐寸(マッチ)のひとつくらいは持っているはず。
「少しお待ちください……そちらを照らしますね」
 確か、この土手の下は田んぼのはずだ。今は冬だから水は抜いてあるはずだが、ぬかるんではいたのだろう。しかし、なぜこの男はそんなところにはまり込んだのか。
 わたしはとにかく燐寸を擦って、下を照らした。ぼんやりとした暖かな光。決してそう明るくはないが、夜闇に慣れた目にとっては十分だ。
 ――そこで、声の主を目にしたわたしは思わず絶句した。
「……あなたは」
「Merry Christmas!! ――いや、まだこの国では一般的ではないかのう」
「…………」
 後半の流暢な日本語がむしろ不自然に聞こえる。その老紳士は西洋の生まれであろう、彫りの深い顔に豊かな白髭、長い白髪の巻き毛。何より特徴的なのはその恰幅の良い全身に纏った衣装の色だ――真っ赤なのである。赤い洋装の上下に、白の縁取り。ちんどんや屋にしても異様であるし、こんな夜更けに田んぼに嵌まり込むちんどん屋もあるまい。
 それに――彼の連れている動物ときたら。その角と顔つきから鹿かと思ったが、それにしては毛も長そうだし角の形状も違うから、少なくともわたしの知る鹿ではなさそうである。これが、先程彼の言っていた「となかい」というやつなのか。その動物には大きなそりがくくりつけられていて、上には何やら大きな包が載っている。
「こんなところで、あなたは一体何を……」
 身を乗り出して尋ねると、彼はその丸眼鏡の奥の瞳を細めてみせた。
「ほっほ、わしはわしを待つ子供のいるところには必ずゆくのじゃよ」
「はあ?」
 わたしは目をぱちくりとさせた。子供がどうとか言っていたが、子供を狙う不審者だろうか。いや、そうだとしたら自分からわざわざ言いはしないだろう。それに、この老人の纏う気配は悪人のものとは思えない。
 わたしは、彼とそのそり、そしてそれを引くとなかいを土手の上に上げてやろうと思った。
「ええと、その動物とそりが嵌まってしまったので?」
「そうなんじゃ」
 彼は動物――となかいとやらにくくりつけられた手綱を引き、となかいも鼻を鳴らしながらそれに従い土手を登ろうとするのだが、そりが泥に半ば埋もれてしまっていてうまく引き上げられないようだ。霜混じりの泥で、足元も滑るのであろう。
「…………」
 わたしが降りて、そりを押してやればいけるだろうか。こんな寒い夜に足元を泥だらけにするのは非常に気乗りがしないのだが、ご老人をひとり残して、はいそれでは頑張ってと放置するのも寝覚めが悪い。
 わたしは一つ大きな息を吐き、そうして意を決した。
「お手伝いしましょう――少しそこでお待ちください」
 わたしは一度燐寸を消し、目を凝らしながら土手を降りた。ずぶり、とぬかるみの中に足を入れる。当たり前だが、わたしの履物は泥まみれだし、泥の中は刺すように冷たい。
「すまんのう……助かる」
 申し訳なさそうにする老人にわたしは首を振り、そりの後ろへと回った。こんなところに長居をしたくはない。雪は降り続いているし、あまり遅くなると同居人も心配するかもしれない――いや、きっと心配する。あの男、口は悪いが根はよいやつなのだ。そうでなければ、いくら金を払ったとて誰が長々と居候などさせておくものか。
 私は声を掛けた。
「後ろからそりを押します。合図で思い切り手綱を引いて」
「わかった!」
 わたしは、せえの、と掛け声をかけてから力いっぱいそりを押す。
 少し、前進した。
「もう一度!」
 となかいが重たげに足を運びつつも、なんとかまた少し前進する。
「もう一度!」
 それを何度か繰り返すうちに、ずるずるとそりが動き出した。どうやら、となかいがぬかるみから抜け出し、土手の固い地面を踏み始めたようだ。良かった、とわたしは安堵して力を緩める。
「おお、もう大丈夫じゃ」
 老人が嬉しそうに言い、そうしてわたしに手を振った。
「助かりましたぞ、若い人。恩に着る」
「いえ、お役に立てて良かった」
 泥まみれになったのは非常に不本意だったが、まあこれも人助けの為だ、仕方がない。軽く手を払って、そりを見送ろうとした――その時。
「ほっ」
 老人が軽い掛け声とともにそりに乗り込み、ぴしりと手綱を鳴らした。
「Merry Christmas!」
 再び何かの呪文のようなその言葉を口にしたかと思うと、不意にとなかいの立てていたひづめの音と、そりを引きずる音がやんだ。わたしは呆気にとられて雪舞う夜空を見上げる。
 ――そう。となかいとそりは、赤い老人を載せて空を飛んだのだった。
「はあ……?」
 見間違いかと目をこすろうとするが、まだ手に汚れが残っていることを思い出してやめた。
 しゃんしゃん、しゃんしゃん。雪に混じって鈴の音が降る。わたしはそれをただ呆然と見上げることしかできない。
 朗らかな笑い声とともに、老人は夜闇の中に溶けてゆく。
「さらばじゃ、明智君――」
 名乗りもしていないはずのわたしの名を口にして、その不思議な老人はとなかいの引くそりに乗って飛び去ったのであった。

 こびりついた泥が冷え固まって、わたしの足取りを重くする。それでもなんとか我が家に帰り着くと、玄関には湯気の立つ湯桶と手ぬぐいが置かれてあった。
「それで拭いてから入れ」
 奥の座敷から、わたしの旧い友人である居候――涼野伊織那の声がした。寒いから炬燵から出てまで出迎える気はないということなのだろうが、なんとも用意周到なことである。よくもまあわたしの身に起こった怪奇な現象を正確に悟ったものだなとは思うが、その異様なまでの勘の良さは今に始まったものでもない。わたしはありがたく湯に手ぬぐいを浸してかたく絞り、泥に塗れた四肢を拭った。冷えて強張っていた指先が、血の気を取り戻してじんじんと痛む。
「ところで、あれは誰だったのだろう」
 独り言のように呟く。
 赤い服を着た白い髭の老人。何やら大きな包をそりに載せて見慣れぬ獣に引かせていた。あれは一体、どこに行くつもりだったのだろう。空を飛んで、一体どこに――そして、何故わたしの名前を……。
「伊織那」
 わたしは桶を片付けようと抱え上げ、伊織那のいる座敷をひょいと覗いた。うん? と顔を上げた伊織那はいつも通り、憎らしいほどに落ち着き払った澄まし顔である。
「それを片付けたらこっちで甘酒でも飲め。あたたまるぞ」
「う、うん」
 その勢いに負けて素直に頷いた後、わたしははっと気を取り直した。
「あれはおまえの知り合いか?!」
「あれ?」
 聞き返しながら、伊織那はくすくすと笑っている。わたしがなんのことを尋ねているのかなど、既にわかっているのだろう、全く、つまらぬところで意地の悪い男だ。
「何やら子供が待っているのだとか言っていたが」
 わたしは、老人の言葉を思い返す。
「待ち人がいるのなら、間に合うといいなあ」
「……そうだな」
 伊織那はわたしの顔を眺めながらにやりと笑う。
「おまえのところにも、来るかもしれないぜ?」
「はあ? おれか?」
 わたしは怪訝そうに言い返す。
「おれはもう子供ではないぞ」
「……『彼』にとっちゃ、おまえなど子供のようなものさ」
「なら、おまえもだろう」
 何せ、わたしとおまえとはそう年は変わらないのだから。口をとがらせてわたしが言うと、伊織那は目を丸くした後小さく噴き出した。
「かもな」

 さっと湯浴みをして着物を替え、伊織那とふたり炬燵に足を突っ込み、甘酒をちびちびとやりながら雪の降る音に耳を傾け――いつしか、わたしはそのまま眠り込んでいたらしい。
 はっと目を覚ますと、すでに日は高く上がっていた。
「ん……?」
 炬燵に下半身を埋めたままのそのそと身を起こすと、ちょうどわたしの枕元に当たる場所に銀色の包みがあった。
「なんだ?」
 手に取ると、ふわりと柔らかい。包み紙を開けると、その中には――
「手袋と首巻きか」
「! ……伊織那」
 既に起きていたらしい伊織那が、背後からわたしの手元を見ていた。そこにあるのは、真っ赤な手袋と真っ赤な首巻きである。いずれも毛糸でしっかりと編まれていて、あたたかそうではある。無論、見覚えなどない。
「赤いな」
「……赤いな」
 わたしは鸚鵡返しに繰り返す。そうして、おそるおそる伊織那に尋ねた。
「これは、おまえが……?」
「おれじゃない」
 おれの方にはこれがあった、と手に持っていたものを示される。彼のいつも読んでいるたぐいの、分厚い洋書であった。横文字のその題名には、どこか見覚えがある。
「おまえにいつものように図書館で借りてきてもらおうと思ったら、蔵書にないと言われて困っていたのだ」
 わたしは戸惑いつつも赤い贈り物を見下ろした。
「……一体誰から」
「そりゃあ、彼だろ」
 伊織那は澄ましたものである。わたしは仕方なく繰り返した。
「彼――か」
 目の前の赤い色に、昨夜出逢った赤い老人を思い出す。ここに寄る余裕があったのだ、きっと彼は自分の用事にも間に合ったのだろう。それなら良かった、とわたしは安堵する。

 ――ほっほ、Merry Christmas!!

 雪のやんだ空の上から、そんな声が聞こえたような気がした。