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涼野伊織那と稲荷と縁(えにし)

 半月ほど前までは初詣の参拝客で賑わっていた神社の境内も、今はひっそりと静まり返っている。籤も御守も、少なくとも表には置いていない。声をかければ出してもらえるのかもしれぬ。小さな神社だ、初詣の頃を過ぎれば、日頃はこんなものなのだろう。わたしは既に元旦に参拝を済ませているから、今日ここに用があるのはわたしの下宿にいる居候の方なのだった。
「寒いな」
 自分から行こうかと言ったくせに、その男は仏頂面であたりを見回している。着流しの上に、外国製らしい少し変わった形の長外套。足元は下駄である。やや眺めの黒髪の下から、すっきりとした両の瞳が覗いていた。涼野伊織那、などと大袈裟な名を持つ、うちの居候である。
「本殿はあっちだぞ。その前に手水だな」
 わたしは指さし教えてやったが、伊織那は見向きもしない。ゆっくりと、あたりを歩き回っている。
「別に、おれは初詣に来たわけじゃないんだぜ」
「違うのか?」
「違う」
 伊織那は妙にきっぱりと言った。
「じゃあ、何しに来た」
「おまえが」
 と、彼はわたしをじろりと眺めた。
「たまには外に出ろ、人並みに正月らしいことをやれ、と五月蠅いからだろうが」
「……む」
「だが、おれは人混みは嫌いだからな。この時期を選んで、人気のなくて静かな、ここに来たのだ。初詣ではないとはいえ、神社だしな」
 理屈が通っているような、通っていないようなことをさらりと言う。
 返す言葉に詰まったわたしに、伊織那はぽつりと言った。
「おまえ、今年も故郷には帰らなかったのだな」
「あ? ……ああ」
 わたしは頷いた。実は一昨年も、故郷には帰っていない。列車が動かなかったせいだ。昨年は無論、帰省している。
「列車が取れなかったからな」
「相変わらず嘘の下手な男だ」
 伊織那は苦笑する。わたしは目を逸らした。自分が嘘の付けぬ質だということなど、当の昔に知っている。
「別に、嘘など……」
「おれのことなら気にするな」
 伊織那はあっさりとそう言った。
「子供ではないのだから、留守番くらいしてやる。今までだってそうしてきたろう」
「……別に、そんなつもりではないのだが」
 わたしは弱った。――確かに、わたしは今年の正月、故郷に帰らなかった。親には伊織那に言ったのと同様、列車の予約ができなかったと告げた。両親は残念そうだったが、それならば仕方が無い、また早いうちに帰っておいでと言った。わたしは少し良心の呵責を感じたが、それでも今年ははじめから自分の意志で、帰るまいと思っていた。

 昨年のことである。わたしは年末にいそいそと帰り支度をしていたのだが、その時ふと気付いたのである。
「伊織那、おまえ正月はどうするつもりだ」
「おれか?」
 伊織那は炬燵で蜜柑を剥いていた。気のない返事が返ってくる。
「別に、元旦だろうが大晦日だろうが、同じ一日であることに変わりはないだろう。どうするもこうするもない」
「しかし、おれは……」
「おまえは帰省するのだろう? 知っている」
「…………」
 伊織那は元々が孤児だ。養父母がいたのだが、彼らも既に鬼籍に入っている。わたしの他に知り合いがいるのかどうかは知らないが、あまり人付き合いの上手い方には見えぬし、彼を訪ねて人が来ることも、彼が人を訪ねて行ったことも、わたしの知る限りでは一度もないようである。ということは、だ。わたしがこの家をあけてしまうと、彼はひとりきりでこの家に留まることになる――。
 今までも長期休暇は何度か帰省したし、その度に伊織那を残して行ったのだが、その時それが妙に気に掛かった。
 わたしはふと名案を思いつき、勢い込んで提案した。
「何ならおまえ、一緒に来るか」
「……は?」
 伊織那は意外そうに、片眉を上げた。
「おれの両親も、お前のことは知っている。久しぶりに顔を出したら喜んでくれるだろう。宿代わりにしてくれれば良い」
 多分、伊織那はかつて故郷をあとにして以来、帰省していないのに違いない。養父母の葬式の時も、渡米中だったために連絡がつかなかったのだそうで、彼は列席していない。
「お墓参りも兼ねれば良いさ、そうだろう――」
「いや」
 伊織那はゆるく首を振った。
「好意は有難く受け取っておくが、おれは遠慮する」
「なぜだ?」
 わたしは驚いて言った。
「うちが嫌なら宿をとってもいいが、ここで独りいるよりは――」
「それはおまえの価値観だ。年末年始は家族と過ごすものだ、大勢で過ごした方が楽しい、それはおまえの考えであっておれのものではない。おれがおまえの価値観を受け入れる義理もない」
 口早に言い放たれ、わたしは困惑する。
「しかし、おまえ――」
「放っておいてくれ。おれはおれの好きなようにする」
 伊織那はふい、と顔を背け、再び蜜柑を剥きはじめた。その白い手はつるりと滑らかで、何だかまるで人形の手のように見える。
 わたしはぼそぼそと言った。
「わかった。……すまなかったな」
「…………」
「ただの家主が、でしゃばり過ぎた」
「おい、明智」
 伊織那は呆れたような声でわたしを呼んだ。
「拗ねることではないだろう」
「拗ねてなど、」
「拗ねている」
 伊織那はきっぱりとそう決めつけた。そして、その薄い唇の端でにやりと笑った。
「おまえは好い男だからな」
「五月蝿い」
 わたしは伊織那のことがわからない。一度だって、わかった試しがない。天才と世間に持て囃された彼のことだ、凡人のわたしの理解の範疇を超えていて当然――なのかもしれぬ。しかし、そのことが、時々とても悔しく、そして寂しくなるのだ。
 そうして、わたしは次の年末ははじめから帰省を取り止めようと心に決めた。

 実際のところ、伊織那の年越しは一昨年と同様、呆れるほどにいつも通りだった。わたしの大掃除を申し訳程度に手伝い、わたしの作った年越し蕎麦を啜り、ひたすら炬燵で蜜柑を食べ――時に出涸らしの茶を振る舞ってくれる。そういえば、彼の食べる蜜柑はどこから調達しているのだろうか。小ぶりだが酸味のなく、すっきりと甘い蜜柑である。これに限っていうと、わたしが買ってくるわけではないのだ。まあ、伊織那の周囲で不思議なことが起こることには慣れている。今更、出所のわからない蜜柑で騒いでも仕方がないから、わたしも伊織那の向かいに座って蜜柑を食するのだった。
 年が明け、わたしたちは近所の気のいい方が分けてくれたお節料理をつつき、わたしはひとりで初詣に出掛けた。伊織那がどうしても渋って同行してくれなかったのは、先ほど述べたとおりである。
 ――ふと、服の裾が引かれ、わたしは下を見下ろした。
「……おや」
 幼い少女が、わたしを見上げて立っている。つやつやとした黒髪を結んで、白い着物と赤い袴を身に着け、まるで巫女のような装束をした、可愛らしい子供だった。楽しそうに笑いながら、わたしに小さな白い陶器の器を差し出している。その中に満たされているのは、あの独特の香りを放つ――つまりは、甘酒だった。
「あ、ありがとう」
 少女はこくり、とうなずくと伊織那の方に駆け出した。同じく湯気の立つ甘酒を差し出している。その後ろ姿を見て、わたしはあっと声を出しそうになった。
 金色の、大きな尻尾が。袴の裾からちらちらと覗いているではないか。
 あれは、狐の尻尾だろうか。あまり狐を見たことはないからわからないのだが、少なくともわたしの目にはそのように見えた。
 わたしは気を取り直し、ややわざとらしいくらいに声を張った。
「伊織那、おまえ甘酒は飲めるのか」
 下戸の友人に声を掛ける。彼はその切れ長の目をさらに細めた。
「甘酒は酒には入らぬだろう」
「それならいいのだがな」
 わたしは甘酒に口をつけながら、伊織那に目配せをして見せた。うまく伝わったかどうかはわからぬが、伊織那は知らぬ顔をしている。彼に限って、少女の正体に気付いていないということもないのだろうが……。
 少女は最後まで一言もしゃべらず、金色の尾を揺らしながら、本殿の方に向かって駆け戻っていった。
 美味い甘酒だった。ほっこりと体が温まる。
「ほう――」
 深いため息が漏れた。それを聞きつけたか、伊織那が顔を上げる。
「どうした」
 彼もまた、甘酒を啜っているようだ。口元から漏れる息が、白い。
「……おまえといると、退屈しないな」
 ぽつりとつぶやいた言葉に彼は目を丸くして、そうして口元を緩めた。
「それはおれの台詞だぞ――明智」
「は?」
「……いや」
 伊織那は口元に器を運ぶ。
 その姿を眺めていたわたしは――不意に、寂しくなった。
「なあ、伊織那」
「なんだ」
 わたしは、来年の春には大学を卒業する。そのあと田舎に帰るか、こちらで仕事を探すのか、まだ決めてはいない。だが、少なくともこの下宿は引き払うこととなる。それだけは間違いないことだ。
 そうなったら――伊織那はどうするのだろうか。再会した時と同じように、またふらりといなくなってしまうのだろうか。もしそうだとしたら、それはあまりにも寂しい。
 伊織那は大切な友人なのだ。だが、伊織那はわたしを友人だと思っているのだろうか――否、この常識外れの男に、友人などという概念がちゃんとあるのか、どうか。
 いや、伊織那にどう思われていようが構わない。わたしが、彼を友人だと思っている。そのことが大事なのだ。
「何だ、ひとのかおをじろじろと」
 伊織那の、あの不思議なみどりいろの瞳が、怪訝そうに眇められている。
 わたしは口を開いた。
「この神社はな――縁結びの神社だそうなのだよ」
「はあ」
「おまえとの縁も、切れねば良いのだがなあ――」
 ぶっ。
 伊織那は甘酒を噴き出した。慌てて懐紙を取り出し、渡してやる。どうせこの男、そのような気の利いたものなど持ち合わせていないのだろうから。
「――妙なことを言うな」
「妙なこと?」
「いや――まあ、いい」
 伊織那は丁寧に紙で顔を拭うと、やれやれと肩をすくめた。
「そう簡単には切れるまいよ。おまえがそうと望まなければな」
「そうか?」
「ああ」
「そうか……」
 安心したわたしはぐい、と残りの甘酒を飲み干す。
 伊織那がひとりふらふらと当てもなく流離うことを考えると、やはりどうしようもなく寂しくなる。お節介かもしれぬが、伊織那には、一緒に炬燵で蜜柑を食べてくれるような――そうして時々外に連れ出してくれるような――そんな存在が必要だと思うのだ。
 そうでなければ、彼はこの世界に留まれぬのではないかと――どこか遠くへ流されていって、戻って来なくなるのではないかと、そんな気がして。

「――稲荷神にわざわざもてなされたというのに、無自覚なのだからたちが悪いよおまえは」
 伊織那のそのつぶやきはわたしには届かぬまま、冬の風に散って消えた。