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涼野伊織那と炬燵と花見

 うちの庭──まあ、正確にはわたしの住み込んでいる親戚の家の庭だが──には桜が一本植わっている。なかなかにどっしりとした、風格のある樹なのだが、去年はまったく花を咲かせなかった。驚いて家の持ち主に手紙を書いたら、毎年そうなのだそうだ。それならわたしのせいではない、とほっとした。花の季節が終わると何事もなかったかのように葉が出てきて、それきりだった。
 今年もまた桜の季節が近付いてきたが、この樹はといえばつぼみを膨らませるでもない。こんなに立派な樹なのだから、さぞかし満開になったら美しいだろうに……わたしは業を煮やして訴えた。
「お前、何とかできないのか」
 涼野(すずしの)伊織那(いおな)。いささか装飾過剰な名を持つこの男は、わたし、西城明智(さいじょうあけち)の下宿に居候している元天才少年だ。もちろんこの場合「元」は少年にかかるのであるが、最近の伊織那は天才というより変人という方がしっくりくる。まあ天才も変人も大抵の場合は同義で用いられるから、特に問題はないが。
「何とかと言われてもなあ」
 伊織那はもうすぐ四月だというのに、まだしつこく炬燵に足をつっこんでいる。実は寒がりらしく、着流しの上には分厚い半纏までまとっていた。今日のように暖かな日には少々見た目に暑苦しい。
 彼はわたしを見もせずにそっけなく答えた。
「咲きたくないのなら、仕方がないだろう」
「桜の意志で咲かないんだって言うのか?!」
「意志って何だろうね、明智」
「はあ?」
「おれは、生命とは意志だと思っている」
 伊織那は真面目な顔でそう言った。一体彼が何の話をしようとしているのか、わたしには意味がわからない。
 どうやら彼はわたしの相手をしてくれる気になったらしく、炬燵に埋もれさせた半身の向きを変えた。
「明智、生命とはどういうものだと思う?」
「ええ……と」
 わたしは乏しい頭の中身をかき回して答えを探す。そういう漠然とした問い掛けはわたしの最も苦手とするものだった。どうせ唯一の正解など存在しないに違いない。
「増えること……かな」
「それならお前、あれは生命か」
 伊織那が指差したのは、わたしが箪笥の上に飾っていた小さなくまのぬいぐるみだった。もちろん勝手に動くわけはない。そんな怪奇現象は真っ平ごめんだが――もしかして伊織那は目撃したのだろうか。そんな馬鹿な。わたしは彼の意図を掴みかねた。
「何故だ」
「増えるだろう? 同じものがたくさん作られているぞ。お前のような者が購入するからだな」
「それはひとが勝手に作って……」
「つまり、そこにあれの意志がない。だからお前はあれが生命とは認めない」
「……そうともいえる、かな」
「意志とはいっても、何もそこまで明確な何かがあるわけじゃない。方向性、に近い。自分を、子孫を存続させる方向性。それを自らのうちに保持しているかどうか。それが生命とそうでないものをわけるのだと俺は思う」
「ふうん……?」
 納得できたような、できないような。結局はこうやって煙に巻かれてしまうのだ。伊織那との会話ではいつものことなので、もうすっかり慣れている。
「あの桜は」
 と、伊織那は庭の桜を指差す。話が突然桜のことに戻って、わたしは驚いた。
「その方向性を見失っている。だから花を咲かせない」
「……何だって?」
「桜が咲くのは、何も人間たちに酒を飲ませて馬鹿騒ぎさせたいからではないだろうが。実をつけて種を作るのが目的だ」
「そりゃあ、そうだな」
「ここでいくら種を作ったって子孫は残せないだろ。この庭は狭すぎるからな――桜もそれを悟ったのさ」
「そんな……」
 伊織那は唸るわたしを無視し、再び本を読み始めた。彼は桜になど興味がないのだろう。それはそうだ、こいつに風流を解するこころなどあるわけがない。以前「今日は月がきれいだな」と話し掛けると、伊織那は「日中に雨が降っていたから、大気中のごみが取り除かれたんだろ。きれいなのは空のほうだ」と答えてきた。何てやつだ。
 だがわたしは諦めない。いちかばちかでつぶやいてみる。
「そろそろ炬燵も片付けようかなあ」
「え?」
 伊織那がぎょっとしたように顔を上げた。わたしは知らん顔で続ける。
「もうだいぶ暖かいしなあ」
「お、お前」
「花冷えという言葉もあるし、桜が咲いている間は置いておいてもいいが。……まあでも桜が咲いているかどうか、このうちじゃあわからん。おれの気分で片付けてもいいよな、家主はおれなんだから」
「……ちっ」
 伊織那は小さく舌打ちをして立ち上がった。ここ数ヶ月、彼の定位置はいつも炬燵の側だった。お気に入りの場所を奪われるのは我慢ならないらしい。
「お前、覚えてろよ」
「悪いがお前ほど覚えは良くない」
 いい加減、わたしだって伊織那の扱いには慣れているのだ。寒そうに半纏の前を掻き合わせ、彼はのろのろと桜の樹に向かっていった。

 伊織那が何をしたのか、わたしには良くわからなかった。桜の樹のすぐ側に立って、幹に掌をあてていたように見えたが、一体何のつもりだろうか。数分後、部屋に戻ってきた伊織那を問い詰めたが、まるで何も聞こえていないかのように無視された。……炬燵をだしに使ったのがそれほど気に障ったのだろうか。相変わらず良くわからない男だ。
 しかし――やはり伊織那は伊織那だった。不可能を可能にする男。非常識を常識だと公言して憚らない男。
 数日後、樹から花芽が生じていたのである。これにはわたしも驚いた。
「お前、一体何をしたんだ」
「言っただろう? あの桜の樹からは意思が消えていたと」
 伊織那は相変わらず炬燵に足をつっこんでいる。蒸れて水虫になるかもしれんぞと言ってみたが、鼻で笑い飛ばされた。心配し甲斐のないやつである。
「だからさ――このまま花を咲かせないと、お前は切り倒されるかもしれんと脅かしたんだ。それにあの樹、だいぶ樹齢を重ねている。もってあと十年の寿命だろうな。そろそろ次代に向けての準備をしておいた方がいいと教えてやったのさ。……だからお前、実がなったらちゃんと種を取っておいてやれよ」
「お前、樹と会話できるのか」
 半信半疑で問い掛けたわたしに、伊織那はにこりともせずに答えた。
「草木にだって感覚は存在している。向日葵は太陽の方角を向くし、他の植物だって日向側に生い茂るだろう」
「でも耳はないぞ」
「音声とは――いや、音波というのは空気の振動だ。何も耳がなくたって感じ取れるさ」
「しかし樹は言語を解さないだろう。いくら震えがわかったって……」
「お前、花が咲くのが不満なのか」
 すっきりとした切れ長の大きな瞳がわたしをじろりと睨む。
「そういうわけではない」
 わたしはあっさりと矛先を収めた。
「むしろ感謝している。ありがとう」
「……最初からそう言えばいいんだ」
 伊織那は口元を緩めた。どうやら満足したらしい。
「明智、今度学校帰りに団子と酒を買って来いよ」
「何だ、花見でもするのか?」
「花も愛でてやれば気を良くするだろう。来年だって咲くだろうぜ」
「単純なものだな」
 ――まるで目の前にいるこの男のようだ。褒めれば気を良くするし、脅せばしぶしぶこちらの意に従い、不審のまなざしを向けるとへそを曲げる。天才とは、実は結構単純にできているものなのかもしれない。
「団子は何がいい。桜餅か、蓬か」
「桜餅はまずいだろう」
 伊織那は眉を寄せた。
「そうか。まずいか」
「あれを包んであるのは桜の葉の塩漬けだ。桜の樹を目の前にして食ってしまうのも気が引けるし、捨てるのもなあ」
「なるほど。じゃあ蓬にしようか。みたらしもいいな」
「おれは蓬が好きだ」
「なら最初からそう言え」
 せっかく咲いた花に――そして伊織那にも――すねられてしまっては元も子もない。わたしは帳面に「蓬の団子」と記しておいた。

 さらに十日ほど経って、桜は薄紅の花を満開に咲かせた。穏やかな陽光の中をはらはらと散りゆく花びらはまるで雪のようで、儚くも美しい。不精な伊織那はなかなか庭を掃き清めないため、庭の一角が花びらで埋め尽くされている。それはそれでまるで羽毛が降り積もったような、幻想的な眺めだった。今回に限っては文句を言わないでおこうと思う。
「やはり桜はいいなあ」
「そうか」
 伊織那は気のない様子で団子を食っている。酒は飲めないのか手をつけていない。買ってこいと言ったくせに。
 それにしてもわざわざ縁側にまで炬燵を引っ張り出さなくとも良いと思うのだが……ふつう花見と言えば桜の根元にござを広げるものではないのか。
「おい」
「何だ」
「桜が散ったら、炬燵は片付けるからな」
「……わかった」
 何故伊織那が笑ったのか、その時のわたしにはわからなかった。しかし、わたしはすぐにその意味を悟ることになる。
 その年、桜は実に一月近くもの間咲き誇った。長い間花をつけなかったために生命力が有り余っていたのか、それとも炬燵を好む伊織那の意向に沿ったのか――わたしは何となく後者のような気がしている。
 
 涼野伊織那。花をも意に従わせる男――ただし弱点は、炬燵。