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涼野伊織那と灰色の呪い

 そのひとと出逢ったのは、月のない晩のことであった。
 大学から家に帰る途中のこと。橋のたもと、柳のしたに、薄鼠色の着物をまとってたたずむ人影があった。長い髪と細い肩で、遠目にもそれがおんなだと知れた。
 人通りの少ない路である。日もとっぷりと暮れている。おんながひとりでいて、いいものか。何か、困っているのではないだろうか。――こんなことを考えてしまうから、同居人からお節介だと何かにつけてからかわれてしまうのだろう。だが、気になるものは仕方がない。わたしは意を決して、おんなに近付いた。
「……もし」
 おんなは驚いたように顔をあげ、振り返った。
「は、はい」
 白いおもての、美しいおんなであった。声を掛けたはいいが、かえってわたしのほうが狼狽してしまう。
「このようなさびしいところにひとりで。どうなされましたか」
「……あなたは」
「通りすがりのものです。いや、ご迷惑でしたら申し訳ない」
 恐縮するわたしに、おんなは少しだけ、笑った。泣き笑いのようだった。
「あなたは、やさしいひとですね」
「……いえ、そんな」
 顔に血がのぼる。おんなは一歩、わたしに近付いた。
「実はこまりごとがありまして……、ひとつ、おねがいがあるのですが」
「わ、わたしに?」
「ええ」
 赤い唇が、うっすらと濡れていた。
「みちを、教えて欲しいのです」
「みちを……?」
「さるお方のお屋敷を探しているのですけれど、どうしても見当たらなくて」
「それは構いませんが、こんな夜に……ですか?」
 訝って尋ねるわたしに、おんなは困ったように首を傾げた。
「そうですわね。今日は出直して参ることに致しましょうか」
「その方が良いかと。ご都合のよい日を教えていただけたなら、それまでに先方のお屋敷を調べておきますよ」
 迷惑かと思いつつも申し出ると、おんなは嬉しそうに赤い唇を微笑ませた。
「では……次の、新月の日。日没頃に」
 おんなは言った。
「ここで。お待ち申し上げております」
「わかりました。して、お屋敷とどなたの?」
 おんなはふい、と横を向いた。風で長い髪が流れ、その表情を覆い隠す。
「――――」
 彼女が口にした名は、聞き覚えのないものだった。
「探しておきます」
 うなずいたわたしに彼女は控えめな笑みを見せて頭を下げ……そして、ゆっくり夜闇へと歩いていく。
「お気をつけて!」
 背後から声を掛けたわたしに、彼女は足を止め、そして振り返った。驚いたように見開かれた目が、わたしをとらえてゆるやかに微笑む。不思議ないろの、瞳であった。どこか「かれ」のみどりの瞳とも似た……。

 帰宅して市内の地図を取り出したわたしの部屋に、同居人がのそりと顔を出した。
「おい」
 半纏を着込んだ痩身の男。涼野伊織那という。舌を噛みそうな名前だ。
「なんだ」
 振り返ったわたしを、彼はじろじろと無遠慮に眺めた。――そうだ、この瞳の色……。
「おまえ……」
 何かを言い掛けて、口をつぐむ。
「何か、用か?」
「いや……」
 伊織那はいつになく歯切れ悪く、口を濁した。
「言いたいことがあるなら言えよ。何だ」
「……おまえは」
 ふと、伊織那の声音が変わった。
「信じていたものに裏切られたことはあるか」
「はあ?」
 わたしは驚いて顔を上げた。伊織那の長いくせ毛が、彼の顔色を半分以上隠してしまっている。表情がよめない。
「何の話だ」
「いやさ。常々思っていたんだよ。おまえがあんまりお人好しで、お節介だからさ。こいつは己の甘さで痛い目に遭ったことはないのかとね」
「…………」
 あまりといえばあまりの言われように、わたしは眉をしかめた。
「ないわけではない。嘘をつかれたこともあるし、待ちぼうけをくったこともある」
「なんだ、あるのか」
「普通、生きていればそういう目にも遭うだろう」
 わたしは苦笑した。
「誠意を尽くしても通じない相手はいる。そんなことくらい、馬鹿なおれでも知っている」
「…………」
「だからといって、何もかもを疑ってかかるのでは、いささかさびしいではないか」
 そんな世界をわたしはきっと愛せない。それでは、意味がない。わたしは、そう思う。
「ふうん」
 伊織那はつんとそっぽを向いた。
「まあ、おまえがそういう生き方を好むのなら、それはそれで良いと思うがな」
「…………」
 わたしは苦笑した。――もしわたしがお人好しでなかったなら、きっとこいつを居候させてはいない。わたしは彼にこの家を、日中のほとんどの時間、預けているのだ。彼がひとりの時間この家で何をしているのか、わたしは知らないし知ろうともしていない。信頼しているからこそ、わたしは何も言わないのである。こいつはわかっているのだろうか。それとも、自分だけは特別だ、というつもりなのだろうか。――別に、それでもわたしは一向に構わないのだが。
 ただ確かなことは、どうやら、この風変わりな同居人は、こころからわたしを心配しているらしいということ。それだけがわかっていれば、十分だ。
「気をつけろよ」
 低い、警告。――何のことだ、と尋ねる間もなく。伊織那はわたしの部屋を立ち去ってしまう。
「…………」
 わたしはひとつ肩をすくめ、手元の地図に目を戻した。
 おんなの語った名前。それはすぐに見つかった。市内のはずれにある、大きな屋敷のところに書かれていた。ちょうど、おんなと出会った橋を右に曲がれば我が家の方角、左に曲がっていく方向にその屋敷がある。
「地図の苦手なひとなのだろうか……」
 わたしはぼんやりとつぶやいた。交番で尋ねても良かったのに。しかも、夜道は危険だと言ったのにも関わらず、次もまた日没の時刻を指定された。おそらくはわけありなのだろう。おんなが言ったのはおとこの名前だったし、自然と下世話な想像をしてしまうというものである。だがまあ、詳細はわたしには関係のないことだ。
 ただ、道案内さえすれば――そう、思っていた。

 新月の晩。おんなはやはり同じ鼠色の着物をまとって、あの橋のたもとにいた。わたしの姿をみとめると、うれしそうに眼を細める。
「きっと、来てくださると思っていました」
「これが、地図です」
 わたしはおんなに地図を渡した。現在の場所から屋敷まで、色筆で線を引いておいてある。
「……あのう」
 おんなは申し訳なさそうに、わたしの顔を見上げた。
「わたくし、地図は……不得手で……」
「…………」
 わたしは目を瞬く。ちらり、と伊織那の声が脳裏に浮かんだ。気をつけろよ。
「……案内、致しましょうか?」
 しかし、やはりわたしはこう申し出てしまうのだった。
 おんなはぱっと顔を明るくして、うなずいた。
「ありがとうございます!」
 真っ白な頬を眺めながら、わたしは己に対して深いため息をついた。
 ――歩くこと、十数分。目的の屋敷の、大きな門が近づいてくる。その手前でわたしは足を止めた。
「では、わたしはこれで――」
「待ってください」
 おんながわたしの腕にとりすがった。ぞっとするほど、冷たい手だった。
「門を少しだけ、あけてください」
「それは、」
 わたしは弱った。
「ちゃんととりついでもらって、そうしてから開けてもらったほうが良いでしょう。あれだけの大きな屋敷だ、きっと門の近くに誰かいる」
「そういうわけには参りませぬ」
 おんなの爪が皮膚にきつく食い込んで、わたしは小さく唸り声をもらした。
「あなたさまもお察しでしょう。わたくしは訳ありの身。堂々とお目通りできぬのです。できぬから、頼んでいるのです」
「お約束は、道案内です。それ以上のことは、できない」
「そんな」
 おんなは悲しげに眼を伏せた。その眼の、いろは。
「――門を開けてくださらないのなら、あなたさまを喰うてしまうと。そう申し上げても、ですか……?」
 しゅるり。赤い唇から、白い牙が覗いた。ちろちろと閃く舌。そして、わたしの腕に突き立てられたままの、尖った爪。
 気をつけろ。再び伊織那の言葉を思い出し、わたしはようやく悟った。いや、己がうすうす悟っていたことを、ようやく認める気になった。――このおんな、この世のものではない。
「早く……はやく、あのかたのところへいかせて……」
 わたしは動けない。おんなが大きく裂けた口を、わたしの耳元に近付けてくる。獣のような、濁ったにおいがした。
「わたしを裏切った、わたしを殺した、あのおとこのところへ……」
 わたしはびくりと震え、おんなの目を真正面から見つめた。細く、それでいて鋭く輝く瞳。――まるで、猫のような。
「おまえも、同じか」
 不意に、声が変わった。低く、地の底を這うような声。
「おまえもあのおとこと同じ、おとこか――」
「それなら――」
「おまえも――」
 交互に響き、折り重なる呪詛。
「ころす――」
「ころす――」
「ころしてやる――」

「だから、言ったろう」

 おんながわたしの腕から手を離し、飛び退った。わたしは――何となく予想していたのだが――声の主を振り返る。
「伊織那」
 やはり、伊織那だった。道端の木に背をもたせ掛け、両手を袂の中におさめている。彼のみどりの瞳は、暗闇の中でもらん、と輝いていた。
「おまえ、憑り殺されたいのか?」
「いや、そういうわけでは……」
 腕が痛む。おんなの爪で少し皮膚が裂け、血がにじんでいた。
「おまえ……」
 おんなは――いや、いつの間にかそれはおんなでなくなっていた。鼠色の着物だと思っていたのは、毛並であった。細く長い尻尾。背を曲げて、ゆらゆらと揺れている。髪が抜け落ち、その代わりのように耳が……。
「ばけねこ?」
「これがそんなかわいいものか」
 伊織那は吐き捨て、おんなに向き直った。
「おまえがどういう素性のものかは知らぬし、おまえとこの屋敷の持ち主になんの因縁があるのかも知らん。興味もない。だが――関係のないものを巻き込むのは、感心しない」
「五月蝿い!」
 おんなは叫んだ。
「だって、入れないのだもの。あのおとこ、わたしが入れないようにしてしまったのだもの。誰かに門を開けてもらわねば、入れないのだもの……!!」
 伊織那はやれやれ、といった様子でわたしを見遣った。
「で、目をつけられたのがおひとよしのお前だそうだよ」
「う」
 わたしは小さく唸った。
「で、どうするのだ」
「え?」
 伊織那に尋ねられ、わたしは面食らった。
「ど、どうする、とは?」
「門を開けてやるか?」
「い、いや、それは」
 もしわたしが門を開ければ、このおんなは屋敷の中にいる、そのおとこの元に行くのだろう。そして、きっと憑り殺してしまうのだろう。その手助けをすることなど、わたしにはできない。
「中途半端に力を貸すくらいなら、最初からやめておくことだな」
 伊織那はぴしゃりと言うと、わたしの隣に近付いてきた。何をするのだと問いかける間もなく、ふうっと気が遠くなる。暗くなる視界。その隅に、灰色の影が見えた。
 ――すまない。わたしは伊織那に、そしておんなに。その言葉をただ、思った。

 何か月か前の新聞に、その記事は小さく乗っていた。可愛がっていた猫とともに、井戸へと投身自殺を遂げたおんながあったという。粗い写真では判然としないが、あのおんなに似ているような気もした。
「どこの井戸だろうな」
 つぶやいたわたしに、伊織那は呆れたような視線を投げて寄越した。
「この期に及んで関わる気か」
 ――あの後、気が付いたわたしの傍には伊織那だけがいて、あのおんなはもうどこにもいなかった。何が起こったのか、わたしは聞けなかった。聞いてはいけないのだろうと思った。
「成仏させてやりたいではないか」
 わたしは言う。
「へんに期待をもたせてしまった。あちらから見ればやはり、おれは裏切り者なのだろうさ」
「……もう、放っておいてやれ」
「しかし」
 言い募ろうとしたわたしは、息をのんだ。伊織那はいつになく厳しい表情をして、わたしを見ている。
「危ないところだったのだぞ」
「…………」
 わたしは目を逸らした。
「わかっている。すまなかった」
「本当に分かっているのか。おまえは、あの場で殺されていたかもしれぬのだ」
「……うん」
「これに懲りて、少しは警戒しろ。おまえはどうやら人ならぬものを呼び寄せる性質(たち)のようだ。そういった者たちの中には、(よこしま)なものもいるのだから」
 ――だが、もし我が家に伊織那が居なかったら。わたしは、そういった者たちと遭遇するだろうか。遭遇しても、関わろうとするだろうか。ひとに非ざるものたちや、この世ならざるものたちは、なぜか皆、どこか彼と似ている。だからこそ、わたしは……。
「聞いているのか」
「聞いている」
 わたしはうなずいた。
「まったく……」
 ぶつぶつと文句を言いながら立ち上がる、伊織那の背中を見送りながら、わたしは小さく言った。
「それでも、おれは」
 お前にこの世界にいて欲しいと、そう思うのだよ。
 ――にゃあ、と。庭のどこかで猫が鳴いた。