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涼野伊織那と溺れる子供

 帰宅したわたしを出迎えた彼は、わたしの表情を見るやいなや「残念だったな」と一言発した。わたしは言葉もなく項垂れ、泥に塗れた長靴を脱いだ。それの、ごとり、と倒れた音がいやに大きく響く。
 子どもが川に流された。その報せを聞いたわたしは近所のひとびとと同じように飛び出して、ついさっきまで捜索に加わっていた。だが、結果は……。うちの同居人は泳げないこともあって家に留まっていたのだが、わたしが出かける前「昨夜、雨が降ったからな……」とつぶやいていた。まさにそのとおりだ。増水した川に流されて、それでもすぐに見つかっただけまだ良かったのかもしれない。子を失った親にとっては、何の慰めにもならないであろうが。
「……ふう」
 汗やら泥やらで汚れた衣服を着替え、体を拭き、冷えた茶を飲み干したところで、わたしはようやくひと心地ついた。無論気持ちは晴れぬが、いつまでもわたしがくよくよしていたところで、何も変わらない。
 ふと、わたしは昔を思い出した。
「そういえば、おれも川に流されたことがあったよな」
「ああ、そうだな」
 彼は驚いたような表情を浮かべて顔を上げた。
「覚えていたか」
「あれはそうそう忘れられる体験ではないだろう」
 わたしは苦笑を浮かべる。確かにわたしの記憶力は、かつて天才少年と謳われた目の前の同居人に比べればかなり乏しいものではあるが、それでも忘れられぬ出来事くらいはあるのだ。今まで彼と改めて話したことはなかったから、もう忘れていると思われていたのかもしれない。
「あれは死ぬかと思ったなあ」
「……おれもだ」
 ぽつりとつぶやいた彼――涼野伊織那の声音に、わたしは、ああ、と思った。それは日頃の斜に構えた彼の態度からは思いもよらぬ、ひどく真摯なもので……まさに、あのときと同じだった。

 涼野伊織那――名前以上に中身の風変わりなこの男と知り合ったのは、わたしがまだ幼い頃であった。
 どういう経緯があったものかは未だによく知らぬのだが、伊織那はあるときから涼野家の養子になった。涼野家はふるくから続く地主の家系の本家で、それだけでおとなたちは当たり前のように伊織那を丁重に扱った。だが、子供たちはそう簡単にはいかぬ。伊織那もよくなかったのだ。今もそうだが、彼は無愛想だし、歯に衣着せずずけずけと物を言う。頭の良い彼のことゆえ、その言葉は正しく、理にも適っていることがほとんどなのであるが、それがひとの耳に心地良いかと言われればそれは否である。おなごと見紛うようなきれいな顔立ちの子供が、大人顔負けの毒を吐くのだ。彼よりも年長の、それまで兄貴風を吹かせていた者たちが面白いわけがない。
 それでも大人の目があるところではおとなしくしていた子どもたちだが、ある暑い夏の日、ついに事件が起きたのである。
 その日、わたしは学校帰りに伊織那とばったり出逢って――伊織那は学校には通っていなかった。多分、彼が通いたがらなかったのだろう――しばらく立ち話をしていた。そこに、何人かのむらの子どもたちが通りかかって、どういう経緯だったかは忘れてしまったが、伊織那につっかかりだしたのだ。伊織那はいつもどおり無愛想にそれをあしらい、わたしはというとただはらはらとそんな彼を見守ることしかできなかった。
「おい」
 むらの子供たちの中では比較的年長だったその少年は、不意に先程からあらわにしていた苛立ちの表情を消した――にやにやとべたつくような笑みを浮かべ、伊織那を見下ろす。彼は既に声変わりが始まっていて、同時におとなの狡猾さをも少しずつ身につけ始めていたのだろう。
「おまえ、そんなに偉そうなことを言うのなら」
 村を流れる小川を指さした。
「その川に入って魚の一匹でも捕まえて来いよ」
「何故?」
 伊織那はさめた表情で少年を見上げる。不思議と、そのしろい額には汗のひとつも浮いていなかった。
「魚をとるのと、おれが偉そうなことを言っているとかいうのと何の関係が? そもそもおれは『偉そうなこと』など言っていない。偉そうだと感じているのはそちらの主観であって、おれの知ったことではない」
「シュカン?」
「…………」
 聞き返された伊織那はうんざりしたように溜息をついた。
「おまえたちの親に養父母あのひとたちがおれのことを頼み込んでいるせいで、おまえたちも親におれと遊ぶよう言われ、さぞかし迷惑していることだろう。誠に申し訳ないと思っている。だから、無理に遊んでくれなくて良い。おれ自身は別に遊んで欲しいなどとは思っていないから、養父母たちには改めておれからよく言っておく」
「は、はあ……?」
「つまり」
 伊織那はその幼い顔には似つかわしくない、きっぱりとした口調で言った。
「おれのことはどうぞ放っておいてくれ、ということだ」
「な、なにを……!」
 少年やその取り巻きは怒気もあらわにいきり立った。彼らに伊織那の言葉の意味の全ては理解できなかっただろうが、その口調だけで気分を害するには十分だった。その気持ちは、まあわたしも多少はわからないでもない。
「うるせえ、とにかくおまえは川に入れ!」
「そうだ、そうだ!」
「突き落としてしまえ!」
 ――別に、彼らが特別悪い子供だったというわけではない。普段は親の言うことをそれなりにきき、家の手伝いや弟妹の面倒を見る、普通の子供たちだったと思う。ただ、一度群集心理に飲み込まれると……それは大人も子供も変わらない。
 一方、詰め寄られた伊織那は別に焦るでもなく落ち着き払っていて、わたしの方がよほど慌てていた。彼のみどりがかったまなこに宿る感情は、その年齢には似つかわしくないもの――恐らくは、侮蔑だったように思う。
「……こんなものか」
 彼の小さなつぶやきを拾ったのは、多分わたしだけ。だが、それを聞いてわたしははっとした。
 まるで……、まるで、自分は今ここで溺れ死んでもいいとでも思っているかのような。何もかもを諦めているような、どうでもいいと投げやりになっているような。この世の何にも期待しない、価値を見いだせない、だから抵抗する価値もないとでもいうような……。
「おい、伊織那」
 わたしは慌てて彼の袖を引いた。
「適当に謝っておけ。この川は見た目より流れが速くて、川底もふかい。危ないよ」
「うん、おれはそもそも泳げもしないしな」
 伊織那はあっさりとそう言った。だが、少年たちは聞いていない。多分、聞かせるつもりもなかったのだろう。そんな言い方だった。
「じ、じゃあ、なおさら」
「いいんだよ、明智」
 伊織那は振り向き、ふっと優しい顔つきになった。
「異物を受け入れないのは、生物として正しい防御反応だ。ひとは進化の過程で個の自由を獲得したのかと思っていたが、ひともやはり群れの習性からは解放されない。不自由なものだな」
「…………」
「だから、おれがここで排除されたとしても、それはおれがひととしてあろうとした限りは仕方のないことなんだろう」
「伊織那……?」
 伊織那が何を言っているのか、いつものとおりわたしにはよくわからない。だが、このままでは伊織那がいなくなってしまうのではないか、この世からあっさりと去ってしまうのではないか。そんな不安に襲われた。
 わたしが何か言うより先に、周りの子供たちが声を上げる。
「何をふたりでこそこそ話してるんだよ!」
「明智、おまえそいつの肩を持つつもりか?」
 膨れ上がる悪意は、わたしをも一緒に覆い始めていた。
「ぼ、ぼくは」
「明智。きみは帰ったほうがいい」
 伊織那はわたしを遮り、きっぱりとそう言った。
「なんで」
「何故? だって、きみは関係ないだろう」
「そんな」
 関係ない、だなんて。わたしはごくりと唾を飲んだ。
「ほらな、明智」
 嘲笑うようにわたしを呼ぶ声。
「そいつはおまえを友達だなんて思っちゃいねえよ」
「内心馬鹿にしてんだよ。おれらのこと、みーんな馬鹿者だと思って見下していやがるのさ」
「庇うだけ無駄ってもんだぜ。なあ?」
「…………」
 わたしは彼らをきっと睨みつけた。
「伊織那は、そんなやつじゃない」
「明智?」
 わたしの言葉に、当の伊織那が一番驚いていたようだった。珍しくそのみどりがかった目を見開いて、わたしの顔を見つめている。
 わたしは繰り返した。
「ぼくは知ってる。伊織那はそんなやつじゃない」
 その頃はまだたいして長い付き合いだったわけでもないが、それでも、わたしは伊織那の博識なところ、理屈っぽいところ、少し斜に構えたものの見方をするところ、それでいて決して情に薄いわけではないところ、そのすべてを好ましく思っていた。彼はわたしの回らぬ駒を修理してくれたし、怪我をした小鳥を拾って途方に暮れていたとき、呆れた口ぶりながらも手助けをしてくれた。わたしの他愛のない疑問にも――たとえば、何故昼間の空は青くて、夕焼けは赤いのかというような――いつも彼は自分の知るところ、思うところを、わたしが理解できようができまいが、丁寧に答えてくれた。わたしの親も何かと伊織那を構いたがったが、そういうとき彼は意外なほど礼儀正しく、彼らの好意を受けてみせた。それは、養父母に対しても同様だっただろう。彼は、礼を尽くすべきと思う相手にはそれなりの態度を取ることができる人間なのだ。彼がむらの子供たちを相手にしないのは、彼らが伊織那を警戒し、異分子とみなしていることを感じ取っていたからだろう。好意には好意を、敵意には敵意でもって報いる。ある意味、とてもわかりやすい男なのだ。
 だが、あの頃の幼いわたしにそのような説明などできるわけもなかった。そのかわりに、わたしは川を指差す。
「ぼくが伊織那のかわりに魚をとってくる」
「なんだって?」
「何を言ってるんだ、明智」
 珍しく、伊織那が焦ったような声を出す。わたしは伊織那を無視して言った。
「そうしたら、伊織那に絡むのをやめろよ」
「……おう、わかった」
 一瞬驚いた顔をした少年だったが、すぐにまたにやにやと笑い始めた。
「おまえが魚をとってこられたら、おれたちはこいつを放っておいてやるよ」
「約束だぞ!」
 わたしは腕を掴んで制止しようとした伊織那を振りほどくと、着ていた物を脱いで下着一枚になった。
 川は穏やかに流れている。
 大丈夫。根拠のない自信を胸に、わたしは川に踏み込んだ。水はひんやりとしているが、冷たいというほどではなかった。むしろ、汗ばんだ肌には気持ちいいくらいだ。
「明智! やめろ、ばか!」
 囃し立てる子らの声に混じって、伊織那の声が遠く聞こえる。変だな、まるで悲鳴のようだ。何故、伊織那がそんな声を出すのだ。
「明智!!」
 もう少し深いところまで入らねば、魚はいない。ざぶざぶと歩みを進めていると、不意に川底で足がつるりと滑った。
 あ、という声を出す暇もなく。私の身体は川の流れに飲み込まれたのだった……。

 正直、その後のことはよく覚えていない。
 気が付くとわたしは河原に寝かされていて、いつの間にか集まってきていたおとなたちが大騒ぎしていた。誰かがことの顛末を喋ったのか、子供たちは皆しこたま叱られていて、泣き出すものもあった。わたしはぼんやりとした頭で、そうか、ぼくは溺れたのか、大見得切って情けない……などと考えていた。
「伊織那……は……?」
「ここにいる」
 その声と同時に、わたしは誰かがわたしの手を握っていることに気付いた。わたしのと同じくらいの大きさの手。小さな手。少し力を込めて握り返すと、その手はゆっくりと離れていった。
 体を起こそうともがくが思ったようには動けず、誰かおとなに「まだ起きないほうがいい」と留められた。
 仕方なく、わたしは仰向けのまま彼の名を呼ぶ。
「伊織那」
 晴れた夏空が、ひどく眩しかった。
「……なんだ?」
 近くにいるのは確かなのに、顔が見えない。彼は、見せてくれない。見せたくないからだろうか。その声に滲む、涙の気配のせいだろうか。
「……ごめんな」
「…………」
 わたしはそれだけ言って、また目を閉じた。
 ――ぼくは、きみを泣かせるつもりなんてなかったんだ……。

 次に目を覚ますと、わたしは家の布団に寝かされていて、泣き腫らした目をした母親と目を真っ赤にした父親に、こっぴどく叱られながらもひしと強く抱きしめられた。相当心配をかけてしまったのだな、とわたしはさすがに反省した。
「伊織那は……?」
 横になったまま尋ねると、母はため息をつきながら教えてくれた。
「さっきまでここにいたんだけれど、もう遅くなるからって帰ってもらったんよ」
「そう……」
「あの子、わたしらに深々と頭下げて謝るもんだから……。ようは悪餓鬼に唆されて、あんたが調子に乗ったんだろ? あの子が謝ることないのに」
「…………」
「なんでおまえが川に入ることになったのか、話は聞いた」
 父はそう言い、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「煽られたからと言っても、川に入ったのは良くなかった。だが、おまえの気持ちはわかるよ。伊織那くんは、おまえの大事な友達なんだものな。何とかして守ってやりたかったんだろう?」
「……うん」
 あのままだと、伊織那が川に入っていって、もう帰って来ないのではないのかと思ったのだ。それは、それだけは、嫌だった。
「しかし、よく無事だったなあ」
 父はしみじみとそう言った。
「少し下ったところの河原に、おまえひとりで打ち上げられていたそうだ。生きていたのは奇跡だ」
 子供たちが慌てておとなを呼びに行ったときには、わたしはもうずうっと流されてしまっていて姿も見えず、皆がもうこれは間に合わない、助からないだろうと覚悟を決めたというのだ。
「…………」
 それを聞いて、わたしは今更ながらにぞっとする。わたしは本当に溺れて、そのまま死にかけたのだと、そのときようやく実感したのだった。そんなわたしの顔色に気付いてか、父はわざとらしく笑ってみせる。
「河童か何かが助けてくれたのかもしれんな?」
 茶化したように言う父を、母は睨む。
「冗談じゃないよ、全く……。とにかく、二度とあの川には入るんじゃない。わかったね? 困ったときは、ちゃんとおとなを呼ぶこと。子供の喧嘩に収集がつかなくなったら、それはもうおとなの出番だよ」
「うん」
 わたしは素直にうなずいた。
 思い返せばあの時、水を飲み溺れたわたしを誰かが――あれは知ったひとの気配ではなかった――何かがわたしを抱え、運んでくれたのではなかったか。視界に揺らめいていたのは、みどり色。あれは何だったのだろう。まさか、父が言ったとおりの河童だろうか。それとも別の何かか。
 それから、もうひとつ。川に流されてゆきながら、わたしは伊織那の声を聞いていたような……。

 ――だれか、あいつを助けてくれ。あいつはこんなところで死んではならぬのだ。

 あれは一体、誰に向けた呼び掛けだったのだろう。あの時よりほかに聞いたことがないほど必死な、切羽詰まった声音だった。何かに懇願していたようにも聞こえた。その、彼が呼び掛けた相手が、わたしを助けてくれたのか。
 だとしたら、わたしは伊織那に感謝しなければならない。
「伊織那が助けてくれたんだ」
 わたしがそう言うと、両親は顔を見合わせた。わたしがまだ寝ぼけているとでも思ったのかもしれない。
「そうか」
 父はそう言い、わたしの頭をもう一度撫でた。
「良い友達ができて、良かったな」
「うん」
 明日、伊織那に会ったら礼を言おう。助けてくれてありがとう、と。きっといつもどおりのぶっきらぼうな返事が返ってくるのだろうけれど、構うものか。
 伊織那はわたしを心から心配し、助かったのちにはひどく安堵していた。それは確かなことで、それ以上に大切なことなど、他には何もない。
 わたしたちは、誰がなんと言おうと友達なのだ。

「何をにやにやしているんだ、気持ち悪い」
 あの頃の面影をそのままに、目の前の伊織那はひどく顔をしかめている。わたしは笑みを深めた。
「おまえは変わらないなあ」
「なんの話だ」
 伊織那はそう言ったあと、はあ、とため息をついた。
「おまえこそ、変わらない」
「そうか? 少しは成長して大人になったつもりだが」
「後先考えずに川に飛び込むようなところが、今でもおまえにはあると言っているのだ。まったく、危なっかしい」
「……それを言うなら」
 わたしは小さくつぶやく。
「なんだ?」
「……いや」
 わたしは首を横に振る。それは、口に出してはならないことのように思った。
 ――今でも、おまえはふとしたときに、そのまま消えてしまいそうな気がする。
「…………」
 だが、口にしなくともその思考は読まれていたのかもしれない。
 珍しく、伊織那は少し微笑んだようだった。
「大丈夫だ。ひととして生きることもそう捨てたものではない。今はもう、ちゃんと知っているさ」
「…………」
「まだ読みたい本もあるしな」
 冗談めかして付け加える伊織那に、わたしは真面目くさって言った。
「そのくらい、いくらでも借りてきてやる」
「それは……、助かる」
 伊織那はそう言うと、茶でも淹れようか、と顔を背けて立ち上がった。ははあ、どうやら照れているな。わたしは華奢な彼の背中を見送りながら、ぽつりとつぶやく。
「ひとの世におまえがあるからこそ、おれはどこにでも飛び込んでゆけるのだよ」
 どれほど深い場所で溺れそうになっても、おまえという存在が岸にあればきっと大丈夫だと。
 伊織那は、果たしてそれを知っているのであろうか――。