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涼野伊織那と梅干の種

 今年の夏は猛暑であるという。
 その字面からして既に暑苦しい、とわたしなどはうんざりするのであった。何しろ「猛々しい暑さ」だというのだから、その実態は推して知るべしといったところだ。摂氏何度以上の日を猛暑日と呼ぶなどと定義するむきもあるようだが、そのような数字などより己の体感のほうがよほどあてになるとわたしは思っている。

 その日の気温が何度まで上がったものか、わたしは知らない。ただただ蒸し暑く、朝からずっと蝉の喧しく鳴く声がまるで耳鳴りのように響いて、肌の上に汗の膜がじっとりと這い回っているような、つまるところはひどく不快だった。
「暑いなあ」
 わたしは手ぬぐいで汗を拭いながらつぶやいた。家中の窓を開け放していても、吊るした風鈴もほとんど鳴ることがない。風がないのだった。
「ああ、暑そうだな」
 と、何故か他人事のように言うのはうちの下宿にいる居候、涼野伊織那だ。わたしがだらしなくシャツの前を肌蹴、ズボンの裾を膝までまくり上げているのに対して、彼はというと着流し姿である。あれは見た目には涼しく映るが、実際はそうでもない。しかも、彼の髪はいささか長く伸びていて、項はすっかり覆われてしまっている。暑くないはずがないのである。それなのに、彼はさほど汗をかいている様子もなく、ぺらりぺらりと書物を――わたしなどには到底読むこともかなわない異国の厚い書物を指先で繰っているのであった。
「暑くはないのか」
「暑いさ」
「なら、もっと暑そうにしろ」
 八つ当たり気味にぼやくと、彼は面白そうに唇の端に笑みを載せた。
「おれが暑そうにしたところで、なんの解決にもならんぞ」
「それもそうか」
 ふとわたしは思いついて言う。
「庭に打ち水でもしたらどうだろう」
 少しは涼しくならないだろうか。だが、それを聞いた伊織那はただ首を横に振るだけだった。
「やめておけ」
「何故」
「あれは日の高く上らぬうち、土が冷えているうちにやるものだ。今はもう正午も過ぎて地面が熱を蓄えている。そこに水を撒いたところで、湿気が増すだけだぞ」
「…………」
 わたしは口を尖らせる。
「ならば、一体どうすれば」
「さあな」
 薄ら笑う伊織那にも腹が立ってきて、わたしはつと立ち上がった。
「明智?」
「自室にいる」
 ――ああ、蝉の鳴き声が五月蝿い。

 どうせ暑いのだ、わたしは自室の窓を締め切り蝉の声を少しでも遠ざけようとした。薄暗い部屋に閉じこもっていると、何やらうつらうつらと眠気が襲ってくる。ぶる、と体が震えた。汗が冷えたのだろうか。
 わたしは薄い布団の上にごろりと寝転がり、そのまま目を閉じたのだった――。

「これ、このようなところで眠るものではない」
 わたしは何かに体を荒く揺さぶられ、驚いて目を覚ました。
「え……」
 確かにわたしは自室で眠っていたはずだ、しかしここはそうではない。
 わたしは河の――しかも、対岸が見えぬほどの大河の、その(ほとり)に横たわっていたのだった。
 空はどんよりと曇っていて、時刻ははっきりとしない。寒いような暑いような、よくわからないがびっしょりと冷や汗をかいている。頭が割れるように痛かった。
「明智くん、大きくなったものだねえ」
 そのやさしい声を聞いて、わたしは弾かれたように顔を上げた。知らぬ声ではない、それは――
「涼野……のおじさん。おばさん」
 そう。それは確かに涼野家の――わたしのふるさとの旧い知り合いで、そしてその名の示すとおり、あの男の。涼野伊織那の。彼の養父母だったのだ。
 伊織那は男の目から見てもどこか異国情緒を漂わせるような整った顔立ちをしているのだが、当然ながら血の繋がらぬ養父母はそれとは似ていない。ひとのよさそうな、優しげな、よくもまあこのような良き人々のもとであの口の悪い男が育ったものだと思うような、いやむしろ彼らだからこそ伊織那を十を過ぎる頃まで育てられたのかもしれぬ。
 幼い頃、ひょんなことから幼い伊織那と親しくするようになったわたしは、彼らにもひどくかわいがってもらった。子供の頃から伊織那はあまり周囲に馴染まぬ子供であったから、わたしという友人を作ったことに彼らは安堵したのだろう。
 そういえば、彼らはどこで伊織那と知り合ったのだろう……わたしは知らないし、伊織那が語るのを聞いたこともない。郷里の親は知っているのだろうか、しかしもしかすると当人たちを除いて誰も知らぬのではないかという気もする。
 彼らはその温和な顔を心配そうに曇らせて、わたしをじっと見つめていた。
「あの……」
 何か言おうとするものの、口の中がからからで干上がりそうだ。わたしはたまらず、河の水を掬い飲もうとした――幸い、水面は透き通って美しい。少しくらい口を湿したところで問題はないだろう。
 だが、涼野夫婦はわたしを強い力で押し留めた。
「飲んではならない」
「やめておきなさい」
「し、しかし」
 わたさは年甲斐もなくべそをかきそうになる。――たまらなく口が乾いて……いや、全身がからからで。わたしは口をぱくぱくと開閉させる。
 いっそ、河に飛び込めば楽になれるのだろうか。
「明智くん」
 霞のかかったような視界の中、おじさんは優しくわたしの名を呼んだ。
「迷わずに帰るんだよ」
「かえる……?」
「ええ」
 おばさんの笑顔が、ゆらりと揺らめく。
「あの子が帰る場所をあなたの側に選んだように。あなたの帰りを、あの子は待っているはずよ」
「あの子……」
 それが誰のことを指すのか、問うまでもなかった。
 この世にたったひとりきり、そんな顔で静かに生きているあの男を、わたしは決してひとりにはしない。
「さあ、これを」
 おじさんが、わたしのひりつく唇の間に何かを押し込んだ。
 酸い。
 乾いた口の中に、唾液が溢れ出す。
 これは――
「帰り道を、教えてくれるはずだ」
「あ…………」
 突然湧き出した唾液に舌が溺れて、うまく話せない。わたしは彼ら二人を必死に見つめた。
 伊織那は、あなたがたの息子は元気にしていますよ。相変わらず偏屈で毒舌で、それでもどこか憎めなくて。
 今も、昔も、変わることなくわたしの大切な友人ですよ。
「…………」
 ふたりの姿がすうっと遠ざかる。最後に見たとき、河原に立つふたりはわたしに向かって深々と頭を下げていた……。

 目を覚ますと、体がひどく冷えていた。
「な、なんだ?!」
 飛び起きると同時、梅干しの種がぽろりと口から飛び出す。それをひょいと避けた伊織那が、険しい顔でわたしを見つめていた。
「馬鹿か、お前は」
「なに……?」
 涼しい風が吹き渡っていく。ここはわたしの部屋……河などどこにもない。窓は伊織那が開けたのだろうか。
 風がわたしの頬を撫でていくのに従って、夢はその輪郭を曖昧なものにし、堆積する記憶の奥深くに埋もれてしまう。そうなると、わたしにはもう触れられない。
 わたしの頸部と脇に、濡れた手ぬぐいを丸めたものが押し当てられていた。そのせいで、シャツはぐっしょりと濡れている。決して心地よくはなかったが、きっと何らかの意図があってそうされたものなのだろう。
 伊織那はわたしにずいと湯呑みを突き出した。
「飲め」
 そういえば、口の中はまたからからになっていた。わたしは湯呑みを受け取り、ぐいと飲んだ。飲む寸前、ちらりと覗いた中身は無色透明だったので白湯かと思ったが、口に含んでみると若干の塩気と、そしてどこか甘みもある。後味にふわりと香るのは柑橘か。細かいことはともかく、体全体にさあっと染み渡るような心地よさがあった。
「うまい」
 呟くと、伊織那は手持ちのやかんから継ぎ足してくれた。
「飲めるのなら、できるだけ飲め」
「……一体どうしたんだ」
 わたしが訝しげに伊織那を見つめると、彼はそのみどりがかった目を伏せ深々ため息をついた。
「熱にやられたんだろう」
「熱に?」
「ああ。今日は暑いからな」
「…………」
 わたしはよくわからず、首を傾げる。伊織那はため息を重ねた。
「とにかく、暑い日に部屋を締め切ってなどいるものではない。思っているより体は水分と塩分を失っている――干からびて死ぬぞ」
「お、おう」
 伊織那の顔は大真面目であったから、わたしも素直に頷いた。
 わたしはやかんの中身を飲み干す勢いで水分を取り続けた。やがてひと心地ついて、わたしは口を開く。
「……夢を見た」
「夢?」
 伊織那は、わたしが吐き出し床に落ちた梅干しの種を眺めながら聞き返す。わたしは頷いた。
「あまりはっきりとは覚えていないが……なんとなく、懐かしい夢だったよ」
「……そうか」
 いつしか日は傾き、黄昏時に差し掛かっているようだった。窓から差し込む夕陽が、わたしたちの顔を橙に染めてゆく。
「あの梅」
 伊織那がぽつりと呟いた。
「あのあたりでとれる品種だな」
「…………」
 あのあたり、とは――とわたしは尋ねなかった。
 そういえば、わたしたちの郷里の近くには梅の産地がある。伊織那の言うのはきっとそのことだろう。
 伊織那は、少年の頃に郷里を離れて以来あの地を一度も踏んでいないはずだ。有名な博士とやらに連れられて渡米し、そうして帰国するなりわたしの下宿に転がり込んできて、それからはほとんど出歩くこともしないのだから。
 しかし、彼が故郷を忘れるはずはない――とわたしは思う。彼は変わった男である、しかし決して冷血ではないし薄情でもない。いま、こうしてわたしを助けてくれたことでも分かるとおりだ。
 黙っている伊織那の、その瞳の奥に映る景色。それは、わたしには見えないけれど。
 わたしはぽつりと言った。
「今度、帰ってみるか」
「……涼しくなったならな」
 伊織那は拒絶しなかった。――そして。
「礼は、そのときに言うさ」
 とよくわからぬことを付け加えたのであった。