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涼野伊織那と梅の枝

「ただいま」
 昼下がりに帰宅したわたしは、その足で居候のいるであろう居間へと向かった。だいぶん冬の寒さは和らいできたとはいえ、未だ寒の戻りには油断のならぬ時期であるから、居間には炬燵が出してある。うちの居候は、ほとんどの場合そこにいるのだ。
 果たして、彼は――涼野伊織那は、炬燵にその半身を埋もれさせていた。目をちらりとわたしにやった彼は、わずかにそのまなこを見開く。
「ほう」
 梅か、と彼は言った。わたしは、そうだ、と頷く。
 彼の言う通り、わたしは手に梅の枝を持っていた。立派なものである。薄紅の花がいくつか、咲き始めている。
「それはいったいどうしたのだ」
「もらったのだ――」
 わたしは答えて、手元に目を落とした。
「ところで、これはどうすればいいと思う」
「梅ならば挿し木で増やせるというが、根が張るかどうかは……まあ、植えてみればいいんじゃないか」
「……勝手に植えて構わないものだろうか」
 ここはわたしの家ではない。いや、わたしが住んでいる場所という意味ではたしかにわたしの家なのだが、法的な所有者はわたしではなく、親戚である。親戚は遠くに移ってもう長らくこの家を空けているのだが、あくまでわたしは賃料を払ってそこに間借りしている下宿生の身分に過ぎぬ。あまり勝手をするのも良くはないだろう。
 だが、伊織那は意に介する様子もなかった。
「別に構わんだろう。……ほら、庭のそのあたりが空いている」
「う、うん」
「ただ枯らすのも惜しく思えるのだろう?」
「そうだな」
「それなら、方法はひとつしかない」
「……そうか」
 わたしは意を決して居間から縁側へ、そしてそこに置かれた下駄を履き庭へと降りた。
 穴を掘り、枝をぐっと差し込んで土を掛ける。
 簡単なものだが、これだけでいいのだろうか。早春の風に揺られて、ほころびかけた梅の花は頼りなく揺れている。
「これでいいのか」
「他にやりようもあるまい」
 まったく、愛想も素っ気もない男である。ではこの男に何があるのかというと、それは恐らくなみなみ外れた天賦の才、その知恵と知識とであろう。彼が幼少の頃より天才少年と呼ばれた理由はそこにあるし、養父母の手を離れて異国へ旅立ったのもそれが為である。だが本人はそれを望んでいたのか、それが幸せであったのか――彼はそういったことを一切口にしたことがない。それでも彼は異国で成功し、一財産を築いて帰国した。そののちの彼はといえば、わたしの下宿でこうして炬燵を被ってやどかりと化している。一体何を考えているのか、凡人であるわたしにはよくわからない男である。
 わたしは軽く手を打ち払いながら居間に戻り、ごそごそと炬燵に足を突っ込んだ。
「それで、あの梅はどうしたのだ」
 珍しく食い下がる伊織那に、わたしは答えた。
「だから――もらったのだよ」
「もらった、とは」
「うん」
 わたしは一呼吸置き、その短い話を語り始めた。
「時折無性に、日ごろ歩いているのと一筋、二筋、違えた道を歩きたくなることがあるだろう?」
「ない」
「おれにはある」
 とわたしはねじ伏せた。伊織那はそもそも出歩かない男だ、一緒にする方が間違っている。
「特に、今日はあたたかくて春の気配がしていたし……、少しばかり遠回りをして帰ろうと思ったのだ」
「ほう」
「それで、辺りの草木がつぼみをつけたり、新芽を出したりしているのを見ながら、ゆったりと歩いていたんだ」
 ゆるゆると春は来ている。そのことに、ひそかに心を躍らせながら歩いていると、ある大きな屋敷の前に行き当たった。
「はて、こんなところに屋敷があったかなと思いつつ、それでもあるものはあるのだから、と思って眺めていたのだ」
 立派な、古めかしい屋敷であった。しんと静まり返った門の前にぽつんと佇んでいると、奥からしずしずと人影が現れた。――それが、
「童子――のような、そうではないような……とにかく、不思議な子供が出てきたのだ」
 妙に大人びた微笑みを浮かべながら、その両手に恭しく梅の枝ひとつを持って。
「奇妙な装束でな、一体いつの時代のものだかわからぬが、古式ゆかしいものであろうということはおれにもわかった。その子供が、おれにその手に持った枝を渡してきた」
 ――これを、わたしに?
 尋ねたわたしに、子供はこくりと頷いた。そして、小さく吟じたのである。
「『東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花』――」
「道真公か」
 伊織那はぽつりと言った。その通りだ、とわたしは頷いた。それくらいのことはわたしとて知っている。
 菅原道真公が大宰府に左遷される前、屋敷の梅の木に向けて語り掛けたという歌――「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
「それだけ言い残すと、その子供はそれ以上何も言わずにするっと屋敷に帰っていってしまった。あまりにも素早くて、呼び止めることもできなかった、というわけさ」
「ふうん――」
 伊織那はその不思議とみどりがかった色の目を細めた。
「まあ、その屋敷の主はおまえにその梅をもらってほしかったのだろうよ」
「なぜおれに? たまたま通りかかったからだろうか」
「そうかもな」
 伊織那は小さく笑って、庭へとそのまなざしを投げた。彼の視線の先には、わたしが植えたばかりの梅の枝が、頼りなく風に震えている。
「道真公といえば、大宰府で没した後に都に祟りを為したと言われているな――」
 わたしがぽつりと言うと、伊織那は軽い調子で続けた。
「政敵が死んだとか、御所に落雷が落ちたとか、時の帝が崩御されただとか、彼の死後にそういう凶事(まがごと)が続いたから、まとめてその男の祟りだということにしたのであろうよ」
「遺された者たちにはよほど身に疚しいことがあったのかなあ、かなしいことだな……」
「…………」
 伊織那はかすかに笑った。
「しかし、祟りを為すと畏れておきながら、その祟り封じの為に神に祀り上げるとは、おもしろい発想じゃないか」
 鬼神も神のうち、か。
「まあ、神とは何もひとに利益をもたらすものばかりではないからな。ひとの智を超えたものはみな、神と呼んでいいのかもしれぬ」
「それだけ優れたお方だったということなのであろうよ。優れたお方であったからこそ妬まれ恨まれもしたのであろうが、死して尚それだけの力を持つと畏れられたのも、やはり生前の秀でた才が理由ではないか……」
「なるほど」
「死した後に祀られて気の済むものかどうかはわからぬが、それでも」
 遥かな時を経て、やがて彼がひとに愛される「天神様」となったのであれば。
「それも悪くはないと思っておられるのではないかと思う――」
「ふうん」
「まあ、凡々たるおれには想像もつかないことだが」
 とわたしは軽く髪を掻く。
「しかし、ひとより秀でた才を持ち、それがゆえにひとでなくなってしまったおひとの話というのは、何ともおそろしいような、それでいて眩しく慕わしいような、不思議な心地がするものだな……」
「…………」
 伊織那は何も言わない。ただ、黙って庭の梅を見つめていた。

 沈黙のうちに時が過ぎること、しばし。
 わたしはぽつりと呟いた。
「それにしても、あの子供はいったい……」
「おまえの会った童子は、主なき屋敷の、梅の木の化身かもしれぬな」
 不意に、伊織那はそう言った。
「梅の木の?」
「朽ちゆく前に、おまえに己を託したかったのではないか――」
「まさか」
 なぜおれに、とつぶやくわたしに、さあな、と伊織那は素っ気ない。
「だが――何となくおまえに託したくなる気持ちは、おれにもわかるよ」
「…………」
 それはどういうことだ、とわたしは尋ねなかった。
 さっき自分で言った言葉が、脳裏にぐるぐると巡る。――ひとより秀でた才を持ち、それがゆえにひとでなくなってしまったおひとの話というのは……。
 おまえはひとだよな。ひとなのだよな。
 その問いは、わたしの喉の奥に留まったまま出てくることはない。
 そして、わたしはこうも思うのだ――たとえ伊織那がひとでなくとも、ひとでなくなったとしても、それでもやはりわたしは彼の友でありたいと思うだろう。ありたいと願うだろう。彼がわたしにそれを許してくれる限り、わたしはずっと、彼の友であり続けるだろう。
 わたしは尋ねる。
「あの梅の枝は、根付くだろうか」
「根付くだろうよ」
 何の根拠も示さず、軽い調子で請け負う伊織那。だが、彼の言葉にわたしはほっと安堵する。彼がそう言うのなら、きっと大丈夫だろうから。

 ――なあ、伊織那。
 わたしもおまえにたくさんのものを託しているのだよ。

「団子でも食うか」
「いただこう」
 家の外には出ないはずの伊織那が、何故団子を持っているのか――そんなことはどうでもいい。
 わたしは彼の淹れるまずい茶とともにこうして団子を頬張る時間が、好ましくてならないのだから。