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涼野伊織那と桜の樹の下

 家の周りの桜は皆散ってしまったというのに、庭のその樹は我関せずといった様子で咲きほこっている。何年か前までは花をつけない樹だったのだが、うちの居候が何やら囁いたところ咲くようになったという――花咲爺さんだな、と言ったら物凄く嫌な顔をされた。
 それはともかく、以来わたしたちは縁側近くに炬燵を引っ張り出して、花見をするのが春の夜の通例となっている。炬燵は彼の趣味である。涼野伊織那。仰々しい名の、我が家の居候で、我が友人である。
 伊織那は酒が呑めないから、わたしはひとりでちびちびと燗を傾ける。一緒に呑めたら楽しいだろうに、とは思うが致し方ない。ふたりの間にはきな粉と餡の載った団子である。甘いものと酒、という組み合わせも悪くない。伊織那は自分で淹れた出涸らしの茶を啜っている。
「そういえば」
 わたしはふと思い出し、伊織那を見つめた。
「あれは中学に上がったばかりの頃だったかなあ」
 伊織那がその才能を買われ、渡米していた頃のことである。
「桜の下で、妙な男にあったのだ」
「なんだ、それは」
 伊織那は特に興味を示した様子もなかったが、とりあえず聞いてはくれるらしい。
「若い男だった。……少し、おまえに似ていたかもしれん」
 桜の花びらがはらはらと散る。庭にもうっすらと雪のように降り積もっている。――ほんとうにこれだけの花びらがこの樹に咲いていたのだろうか、どこか別のところから降っているのではないだろうか、とわたしは不思議に思った。
「学校からの帰り道に、大きくて立派な桜の樹があって」
 今の今まで忘れていた、多分誰にも話したことのない話である。
「そこで、ばったりとあった。知らない顔だったな」
 わたしの生まれ育ったのは田舎であったから、大抵のひととは顔見知りであるはずなのに。
「顔はあまり覚えていない」
 わたしはとつとつと言葉を紡ぐ。酒が回ったのか、どこかぼんやりとしていた。
「黒い服を着ていた……たぶん、」
「それで?」
 初めて、伊織那が先を促した。わたしはうん、と頷く。
「おれは、桜が綺麗ですね、と話し掛けて、それで……そうしたら、尋ねられた」
 知っていますか? と、(うた)うような声で。

「『桜の樹の下には死体が埋まっているんですよ』――って」

 死体から養分を吸い上げて、桜はこんなにも美しく咲くのだと。
 伊織那はその目を薄く眇め、宙をじっと睨んでいる。わたしは笑った。
「馬鹿馬鹿しい話だろ? そんなわけがない。くだらない怪談話だ」
 だが、その頃のわたしにはひどく恐ろしく聞こえた。
「何のために? と聞いたように思う。何のために、誰がそんなことをするのか、ってな」
「…………」
 伊織那はまたひとつ、団子を楊枝で刺して口に放り込んだ。わたしはそんな彼を眺めながら首を傾げた。
「……なんと答えが返ってきたんだったかなあ」
 夕闇にひっそりと溶け込むように立っていた、あの青年――。
 思い出せない。
「無理に思い出す必要もないんじゃないのか」
 ぼそりと伊織那が言った。
「思い出して楽しい話でもなさそうだぞ」
「それはそうなんだが……」
 わたしは頭を掻く。
「思い出してすっきりしたいような気もするのだよ」
 確か、あの桜の樹はあれから間もなく斬り倒されてしまったのだと思う。その青年にも、それ以来二度と会わなかった。
「何だって、あの男はあんなことを言ったのかなあ……」
 風が強く吹く。花弁がざあっと舞い散り、我々の手元にまで舞い散った。
「……なあ、明智」
 伊織那はぽつりと言った。
「お前の故郷は、つまりそれはおれの故郷でもあるわけだがな」
「ああ」
 孤児だという伊織那が本当のところはどこで生まれたのかわたしは知らないが。それでも彼が幼児期に養父母と過ごしたのは、確かにわたしの故郷だ。
 伊織那はその不思議なみどりいろの目で、わたしをじっと見つめる。
「そんなに大きな桜の樹など、あの辺りにはなかったぞ」
「……え?」
 わたしは目を瞬いた。
「勿論、その頃おれは既にいなかったが……それでもせいぜい数年後だろう? 桜の大木がそんなにすぐに育つわけもない」
「…………」
「じゃあおまえが見たものはいったい何だったんだろうな……?」
 伊織那は何を言っているのだろう。わたしは混乱する。
「……いや、でもあれは、確かに」
 わたしは額に手を当てた。
 あれは、確かに桜の樹だった。でも、そうだ。毎日あの道を通っていたはずなのに、わたしは一度だってあの樹を意識したことはなかった。あの日に限って――あの男に会った、あの日に限って――。

『死を集めているのです。せっかく集めた死が勿体ないから、こうしてわたしは桜に吸わせているのです』
 そうだ――あの時、あの青年はそう言った。真っ黒なコートに身を包み、真っ黒なふたつの目が、まるで底のない沼のようにわたしを映して――。
『それが、わたしの仕事ですから』

「おい、明智」
 名を呼ばれ、わたしははっと現実に立ち戻った。
「忘れておいた方がいい」
 伊織那は静かにそう言った。
「せっかく忘れていたのだ、忘れてしまえ」
 ――死神のことなど、忘れるに越したことはない。
「……しにがみ……?」
 聞き返したわたしを、猛烈な眠気が襲った。――やはり、飲み過ぎたのかもしれない。わたしの視界はぐらりと揺れて、そのまま耐えられずに炬燵に突っ伏してしまう。
「おまえが見逃されて良かった」
 いつになく真剣な、伊織那の声。
「桜は、時にひとを攫う」
 ――そもそも、おまえは「はざま」をみることができる者だから。
「世界の狭間――ひととそううでないものの狭間――」
 そういったものに、やすやすと触れてしまう。語り掛けてしまう。
「危なっかしくて、見ておれない」
 そう語る彼の声は、ひどく優しいものだった。
 木々がさざめく。まるで囁きあうように――笑い合うように。わたしを穏やかな風が包む。
「……ああ、そうか」
 伊織那は独り言のように言った。
「おまえは愛されているのだな」

 ――こんなにも自然に世界を愛するおまえは、世界にもきっと愛されているから。

 だから、見逃されたのか。
 伊織那は静かにつぶやいた。

 わたしはうとうとと夢を見ている。
 桜の大樹の下、わたしはひとりの青年と向き合っていた。――これは、あの日の……。
「僕には難しいことは良くわかりませんが」
 わたしは首を傾げ、そう言った。
「でも、綺麗ですよね……すごく」
 薄紅の花弁が視界を覆う。幻想的な光景だった――まるで、この世のものとも思えぬような。
「…………」
 青年はじっと黙ってわたしを見つめている。わたしは何の気なしにつぶやいた。
「死んだ後、こんなに綺麗な花に生まれ変われるなら」
 それはそれで、悪くないかもしれないな――。
「…………」
 青年は、やがて小さく笑った。
「それではいつか」
 白い手がするりとわたしの胸を差す。
「あなたがその寿命を全うする時がきたなら」
 きっと、迎えに来て差し上げましょうね。
「いいよ」
 その時、わたしはあっさりとそう言った。
「待ってる」
「…………」
 何故か、青年は泣きそうな顔でわらった――それはわたしの知る誰かに似た、とても綺麗な笑顔だった。

「…………」
 伊織那は庭の桜の根元を見つめる。
「まだ、やらないよ」
 そこに凝る、闇に向かって。
「まだだ」
 闇はすうっと夜に溶け――いつしか、花弁は降りやんでいた。