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涼野伊織那と月雪花

 今年初めての雪が降った。大粒の雪ではない。まるで粉を空にはたいたような、軽い雪である。この程度では、きっと積もらぬだろう。とはいえわたしの田舎はあまり雪の降らぬ地方であるから、わたしの見立てなど到底あてにはならぬ。
 学校からの帰路である。ぬかるんだ道は歩きにくい。足を取られぬように気をつけながら、わたしははあ、と口の前にかざした両手に吐息を吹きかけた。指の隙間から漏れ出るそれは、真っ白である。指先が赤く、じんじんとしびれていた。早く帰って炬燵にあたりたい。おそらくその一辺には既に、我が家の居候がいつもと同じく陣取っているのだろう。気が向いたらあついお茶のひとつでも淹れてくれるかも知れぬ。天才と称された男の淹れる茶とはいえ、別に格段旨いというわけでもなく、むしろ大体が出涸らしである。不精で、不器用なたちなのであろう。
 涼野伊織那――今更だが、不思議な男だ。彼は、幼少期から周囲の大人たちに天才と褒めそやされていた。確かに、おとなびた口調で難解なことを語る子供であった。だが、わたしやわたしの家族の前では比較的「ふつう」に振る舞っていたようである。何故かはわからないが、彼の養父母たちの記憶はあまりない。たぶん、「ふつう」のひとだったのだと思う。どこぞの大学の教授だとか博士だとかいうひとが何人もやってきて、彼と話をしては感嘆して帰って行った。そして、そのうちのひとりが――彼を連れて渡米したのだった。向こうで彼が何をしていたのか、わたしは知らない。調べようとすればいくらでも方法はあるのであろうが、その気はなかった。もしどこかの文献だとか書籍だとかで彼の名を見ても、それはわたしの知る彼ではないような気がするからだ。涼野伊織那は、わたしの友人で、下宿の居候だ。それでよい。それだけでよいのだ。
 わたしの住まいは、町の少しはずれにある。一年で一番早く日の落ちる頃であるから、辺りは既に薄暗い。街灯の薄ぼんやりとした光が、とぎれとぎれに足元を照らしていた。
 くしゅ、とくしゃみをひとつ。体が芯まで冷えている。ぶるり、と震えたわたしを何者かが呼びとめた。
「――もうし」
「は?」
 わたしは足を止めて振り返る。そこに立っていたのは、ひとりの僧侶であった。雪のまぶされた笠を深くかぶっており、年齢はわからぬ。白い衣の上に黒っぽい袈裟。この雪の中には似つかわしくないほど軽装だ。左手には、古めかしい錫を携えている。
「おぬし……」
 言い掛けて、黙る。わたしは首を傾げた。
「わたしが、どうかしましたか」
「……面妖な」
 独り言のようにつぶやくが、それがわたしに関係していることなのは、彼の視線がわたしに注がれているのを感じることからも明らかだ。
「お寒くはありませんか」
 信心深い僧侶は、暑さ寒さも感じないのだろうか。わたしは心配になって彼に尋ねた。
「何なら、我が家でお茶でも飲んでいきませんか。あたたかいものを淹れますよ」
 無論、わたしが淹れるのである。伊織那の淹れる出涸らしなど、客に出すわけにはいかぬ。
「…………」
 僧侶は黙っている。――さすがのわたしも焦れてきた頃、彼はようやく口を開いた。
「家に……何か、飼っておられますか」
「は?」
 わたしはぽかんと口を開けた。
「飼う?」
 うちには犬猫の類はいない。初夏の頃、少しの間金魚がいたが、それもすぐに池に放してやった。そもそも、わたしは動物を飼うということが苦手なのだ。家畜は別である。実家には卵を産む鶏が幾羽かと馬が一頭いるが、それはいわゆる愛玩動物ではなく、どちらかといえばともに仕事をする仲間、に近い。子犬や子猫の愛らしさに心動かされぬわたしではないが、それらを手元に置いて飯を食わせてやるという行為はどうにも馴染めないのだ。とにかく――我が家には何もいない。
「何も、飼ってはおりませぬが」
「ふむ。……それでは」
 しゃん、と錫が鳴った。
「どなたか、ともにお住まいですか」
「…………」
 ――この男は何が言いたいのだろう。わたしは警戒した。まさに己の同居人にはよく「お人好し」だの「馬鹿正直」だのと言われるが、初対面の、名乗りもせぬ者にこうまで探られると、さすがのわたしにも疑心もわいてこようというものである。
「あなたは、何者ですか」
「……ただの、行きずりの僧侶ですよ」
「…………」
「あなたは」
 押し黙ったわたしに、僧侶は尋ねた。
「最近、身の回りで奇妙なできごとに出会ってはいませんか。そう、たとえば――」
 ――常ならぬ存在(もの)が、見えるだとか。
「…………」
 それがどうかしましたか、と聞き返しそうになって、わたしは慌ててその言葉を呑み込んだ。何となく、正直に答えると厄介なことになりそうな気がしたからである。
 僧侶のいうのは、間違ってはいない。確かに、最近わたしはいろんなモノに出会っている。妖異、といっていえなくもないモノである。だが、それらは総じて邪悪なものというわけではなくて、むしろ――。
「わたしは、何も困ってはおりません」
 わたしはゆっくりと、そう答えた。
「何やらご心配いただいたようで、かたじけない」
「……いや」
 僧侶は何か、言い淀んだ。そうして――す、と懐から何か札を差し出してくる。
「護摩札です。どうぞお納め下さい」
「要りません」
「え?」
「お気持ちだけで結構です。ありがとうございます」
「……しかし」
 戸惑いを見せる僧侶に、わたしは強情に言い張った。
「要らぬのです」
 こんなものを持ち帰れば、きっと哀しむだろう――傷つけてしまうかもしれぬ。そんな気がした。伊織那のことではない。彼はそんなものでは傷つかぬだろう。だが、たとえそうであったとしても。
 わたしは深く一礼をした。
「友が待っておりますゆえ、これで」
「…………」
 ――わたしは踵を返し、振り向かない。錫の音は、響いては来なかった。

「遅かったな」
 案の定、炬燵の定位置に伊織那が座っていた。
「寒かった。雪が降っていたぞ」
 凍える体をあたたかな布団の中に滑り込ませる。伊織那が少し眉をしかめたのは、おそらく冷え切ったわたしが入ったせいで、炬燵の中の温度が下がったせいだろう。
「そうか」
「今宵は熱燗が良いな。雪見酒と洒落込むのも乙だろう」
「おれが呑めぬと知っているくせに」
「ああ、知っている」
「ちっ」
 伊織那は舌打ちをしながら立ち上がった。
「茶を淹れてやる。待っていろ」
「ああ、ありがとう」
 わたしを見下ろした伊織那が、不意に真顔になった。
「お前――」
 言いかけた伊織那は、言葉を途切れさせる。
「いや。何でもない」
「うん?」
 聞き返すと、伊織那は横顔に奇妙な苦笑を浮かべていた。
「おれも、そのたぐいかよ」
「は……?」
 相変わらず意味不明なことを言う男である。そして、やはりわたしに説明をしてくれる気積もりもないらしい。伊織那は寒そうに半纏の前をあわせると、すたすたと土間に向かって歩いて行った。
「…………」
 炬燵の上には、つやつやとひかる蜜柑が積んである。伊織那が買ってきたのだろうか。まさか。
「貰いものだ。おまえも食え」
 茶を淹れて戻ってきたらしい伊織那がそう言った。
「貰いもの? 誰から」
「さあな」
 伊織那はその白い手を伸ばし、蜜柑を剥いた。辺りに広がる柑桔の香り。
「甘くて美味い」
「そうか」
 わたしは彼に倣い、蜜柑を口にした。確かに甘い。
 相変わらず不味い茶と、美味い蜜柑。
 障子を開ける。
「寒い」
 彼の文句はほうって、わたしは空を見上げた。
 月が出ている。雪はよりいっそうひどく降り始めていた。
「もしかすると、積もるかも知れぬな」
「ああ、そうだな」
 気のない返事である。だが、わたしは気にしなかった。
 ――庭には一面に花が咲いている。それが冬に咲くべき花なのか、そうでないのか、わたしにはわからぬ。もしかしたら、これこそが「妖異」なのかもしれぬ。だが、そんなことは構わない。
 わたしは蜜柑を頬張り、茶を飲んだ。
 雪が降り、月が照らし、花が咲く――そして、友がいる。
 良い、夜ではないか。
「ああ」
 伊織那が突然口を開き、わたしは驚いた。
「な、何がだ?」
 伊織那は澄ました顔で茶を啜っている。
「お前が言ったのだぞ。良い夜だ、と」
「…………」
 口に出したつもりはなかったのだが……きっと知らぬうちに零れ落ちていたのだろう。面映ゆくなり、わたしは顔を背けた。
「良い夜だな」
 伊織那がつぶやく。その言葉が――わたしにはひどく、うれしかった。