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涼野伊織那と月見と団子

 満月であった。
 秋の夜はつるべ落とし、とは良く言ったもので、つい先日まで閉架ぎりぎりの時間まで書庫で勉強していてまだ夕空であったものが、今はもう、満月である。そうか、中秋の明月か──わたしはふらふらと馴染みの和菓子店に寄って、団子を購入した。こんな無駄遣いをしてしまうのは、恐らくわたしの家の居候が妙な呪いを掛けたせいだろう。あいつなら黒魔術のひとつやふたつ、ふたつやみっつ、多いに用いそうだ。いや、実際に見たわけではないが。

 門のところに(すすき)が生い茂っているのを横目に、わたしは暗い玄関をくぐり抜けた。奥にいるはずの男に向かって、声をあげる。
「伊織那、帰ったぞ」
 涼野(すずしの)伊織那(いおな)。それこそまるで何かの呪文のような名の彼は、うちの居候である。頭はきれるが、別の大切なところもいろいろときれているような男だ。わたしとは幼なじみ、ということになるのだろうか。才能をかわれて渡米しているうちに養父母を亡くしたから、天涯孤独な身の上というわけである。本人はそれもたいして(こた)えていないような顔で、暢気にわたしの下宿する家の庭掃除などをして暮らしている。まあ、彼の払った家賃は十二分だから、こうしてたまには彼の好物の団子を買ってくることもやぶさかではない、というわけだ。
明智(あけち)
「帰ったか」
 ……なんだか、今ふたつの、しかも同じ声が、微妙に重なって聞こえたような気がしたのだが、気のせいだろうか。気のせいでないと困るのだが。
「伊織那?」
 彼の指定席である奥座敷を覗く。と、わたしは腰を抜かしそうになった。
「い、い、伊織那、……お前……!」
『帰ったか、明智』
 気のせいではなかった。わたしの耳はおかしくない。いや、もし耳がおかしいのならきっと目もおかしいに違いない。
 わたしの目の前には、ふたりの伊織那が座卓を挟み、向かい合って座っていた──。

「驚かせたな、明智」
「いや、すまない」
 わたしの目の前の伊織那「たち」は、真面目くさってそう言った。
「一体どういうわけだ?」
 尋ねてもただよっつの瞳が無感情に見返してくるのみだ。訳がわからない。
 わたしはふたりをきょろきょろと見比べたが、互いに寸分と違わなかった。日本人らしからぬ大きな瞳は相変わらずどこか不思議な色を宿していて、長い睫毛が半ばそれを隠している。また、薄い唇は愛想というものを知らないかのように固く引き結ばれていた。
「見分けがつかんのだが」
「ひとの目など、その程度の性能なのだよ」
「やはり所詮は有機物。物理に根差してはいないからな」
 わたしはふたりを見るのをやめ、ほうと息をつく。ふたりとも伊織那だというはずはないから、片方は違うのだろう。
「なんだ、その……生き別れのふたごか何かかと思ったが、着物の柄まで同じというのはさすがに妙だな」
「うん、明智にしては鋭い」
「いい読みだな」
 妙にえらそうにうなずくふたりの表情はそっくりで、わたしはうんざりした。伊織那のようにあくの強い男は、ひとりでいい。とはいえそれはわたしの理屈に過ぎないのだから、わたしは辛抱強く伊織那に語り掛けた。とはいえどちらに向けばいいかわからないから、中空を眺めておく。
「伊織那。お前の縁故なら、お前がちゃんと紹介せねばならんぞ。何といってもおれは、今ここの家主だ。お前と(ゆえ)ある方なら、きちんと挨拶をせねばならんし、それなりのもてなしも考える。このようにおれを煙に巻いてばかりいては……」
 わたしは再びため息をついた。あの伊織那相手に正論をぶとうとしている自分がおかしくなる。──だが、これはわたしにしか言えないことだ。昔から、誰もが伊織那を遠巻きにして、遠慮していた。天才少年ともてはやされるようになったあとは尚更だった。しかし、わたしは違う。伊織那が真面目な顔で馬鹿馬鹿しい冗談を言うのも知っているし、ものぐさで怠け者なのも知っている。伊織那は天才かもしれないが人間だ。わたしと同じ、人間だ。
 わたしが座り込んだまま黙っていると、向かって右に座る伊織那が不意に口を開いた。
「明智……」
「なんだ」
「お前はいいやつだなあ」
「何を、今更」
 わたしは仏頂面を作る。こいつはたまにこういう言葉でわたしを懐柔しようとするのだ。気を付けねばならん。
「いい男だ」
「ああ、いい男だ」
「お、おい」
 ふたりの伊織那──の顔をしたものに口々に褒められ、さすがに困って顔を伏せる。
 やがて、ぽつりとひとこと聞こえた。

「遊んだりして、悪かった」

 その言葉を発したのが左右の伊織那のどちらだったのか、わたしにはわからなかった。ただ目の前を鮮やかな落ち葉がごうごうと舞い、やがて闇に塗り潰されて──

 ──明智、明智……。
 誰かが、わたしを呼んでいた。
「明智、何をやってる」
「ん……?」
 身を起こしたわたしは、目を白黒させた。何やら部屋を良い香りが満たしている。まるで、(さかな)やら茸やらを七輪で焼いてでもいるような……。
「お前、こんなところで寝ていたぞ」
 伊織那がまさにその七輪を、うちわでぱたぱたとあおいでいた。網の上では、ぴちぴちとした鮎や立派な松茸などが炙られている。
「しかも腹の上に笠が被せてあって、こんなものを載せていた。何の余興だ」
「お、お、お前……!」
 わたしははっとして伊織那に詰め寄った。
「おれが帰ってきたら、お前がふたりいたのだ。座卓にふたり、向き合って並んで……」
「おれが? おれは二階で本を読んでいたのだぜ」
「そんなわけが……」
 わたしは右手を見遣った。確かに持って帰ってきたはずの、団子がない。
「おれがふたり……ねえ」
 伊織那はひとの悪い笑みを浮かべた。
「お前、狸か狐に化かされたのだろうよ」
「……しかし、あれはお前にそっくりだったぞ。表情も口調も……」
「それはけしからんな。誰かが稽古をつけたのかもしれん」
 飄々と鮎を焼き続ける伊織那を見ているうちに、わたしはやがて肩の力が抜けていくのを感じた。
「伊織那」
「なんだ」
「団子はしばらくなしだ」
「…………」
 何かを言い掛けた伊織那が、しかし何も言わぬままに口をつぐんだ。
 しんしんと更けていく秋の夜。鮎の皮が弾け、脂の焦げる音だけが響く。
 やがて、伊織那は再び口を開いた。
「なあ、明智」
「なんだ」
「お前はいい男だよ」
「それはどうも」
 先ほど偽の伊織那に同じように褒められたのを思い出して口元が緩んでしまったのを、伊織那は見逃さなかったのだろう。ふいと勝手口に周り、やがて手に何か包みを持って帰ってきた。
「これは返すのだそうだ」
 中身は見ていないが、どうせわたしの買った団子だろう。わたしは苦笑した。
「……狸か狐かは知らんが、どうせなら一緒に食えばいいのに」
「なら、あとでひとつふたつ、庭に放ってやろうぜ」
 伊織那の言葉にうなずきながら、ほっこりと焼けた鮎の白い身に、わたしは早速箸を伸ばした。

 今宵は満月。秋である。