涼野伊織那と座敷童子
それは、わたしが進学して間もない頃の話である。
その家はわたしの想像を遥かに越えていた──良い意味で、である。広い庭に囲まれた家屋は立派で、多少古びてはいるがそれも風情であるといえなくはない。借りる身で言うのもなんだが、独り身の大学生に貸すにはあまりにももったいないと思った。いくらわたしと家主には親戚のよしみがあるとはいえ、あの安い下宿料で本当にいいのかと不安になる。わたしが管理人を兼ねるといっても、一介の大学生にたいしたことができるはずもない。せめて掃除だけでもきちんとしなければならないと、わたしは気を引き締めた。
締め切られていた雨戸を開けるとそこは中庭で、梅がほんのりと香ってくる。春の訪れとともに始まるであろう新生活に、わたしは心を躍らせた。──だが正直なところ、心細くもあったのだ。わたしは田舎で育ち、家はいつも賑やかだった。近所付き合いも多かった。ところがここでは庭に木々が生い茂っていて、隣家の存在すら感じさせない。静かな良い環境というよりも、少しばかり寂しすぎるような気がした。
わたしは気をまぎらわせようと、独り言をつぶやいた。
「……静かだなあ」
そう、確かに辺りは不自然なほど静かだった。花は匂うのに、鳥の声は聞こえない。わたしは急に薄気味悪くなって、部屋のあちこちを見回した。日が陰ってきたせいか、前の住人がそのままにしている家具が床にいびつな形の影を投げている。
──てん、てんてんてん……。
「うわっ」
わたしは思わず声をあげた。あわてて振り向いた先で、毬がひとつ、弾んでいる。どこかから落ちたのだろうか……。わたしはおそるおそるそれを拾い上げる。それはまだ、真新しいものだった。
「……直し忘れかな」
わたしはことさらに独り言を言いながら、毬をぽうんと天井に向かって投げあげた。毬はゆるい放物線を描き、やがて床に落ちる──はずだったのだが。
「えっ?」
また、声に出た。わたしは唖然と毬を見つめる。それは床に落ちることなく、わたしの膝くらいの高さで滞空していた。そしてそのまま、ぽうん、ぽうんと、まるで子供が毬つきをするような動きで弾み始める──。
「あんたがた、どこさ」
わたしはそれに合わせて歌ってみた。少し、恐怖心が薄れたような気がする。
「肥後どこさ」
ぽうん、ぽうん、毬は弾む。わたしは吸い寄せられたように毬を見ていた。体が動かない。
「熊本さ」
ただ、口だけが歌い続けている。何故か、そうしないではいられなかった。
「熊本どこさ……」
まるで夢の中のようだ──ふわふわとした気分が、突然打ち破られた。
「──ほう、ほけきょ!!」
辺りに響き渡った大声。鶯ではない。人間だ。身も蓋もなく、人間だ。わたしは歌うのをやめ、庭を振り返った。
「だ、誰だ?!」
「立派な梅が咲いているのに、鶯が聞こえぬでは具合が悪かろう」
木影に男がひとり、立っていた。それではさっきの気味悪いほど甲高い声は、彼の裏声か。
「ひとの家で一体何を、」
「この幽霊屋敷はお前のか、明智」
──あけち。そう呼ぶ声が少し懐かしかった。知り合いだろうか……。だが、わたしにはもっと重大な問題があった。
「幽霊屋敷?!」
「とり憑かれそうになっていたが、なんだ、邪魔なら帰ろうか」
「ま、待て! 待ってくれ」
わたしは大声をあげる。男はふらりと姿を現した。少し髪が長く、まるで女のように綺麗な顔立ちだ。不思議な色の瞳がわたしを映して光っている。──その色に、わたしは見覚えがあった。
「お前……!」
「久しぶりだな、明智」
わたしはその場に立ち尽くしたまま、その仰々しい名前を叫んだ。
「涼野伊織那……!」
涼野伊織那──名付け親の顔が見たくなるような名前であるが、わたしは残念ながら彼の親を知らない。養父母なら知っているが、名付けたのは彼らではないらしい。今はもうこの世にないが、平凡な、とても気のいい人々だった。そうでなくてはあんな、顔ばかり愛らしくても可愛げのひとつもないような、偏屈な子供を十まででも育て上げることはできまい。何故なら彼は十を過ぎた頃に米国に招かれ、留学したからである。
「お前、何故こんなところに……」
「こんなところ? 別に普通の三次元空間だろうが。おれがいてなにか不都合があるか?」
相変わらず、可愛げのない男である。まあ、可愛いという言葉が既に褒め言葉にならないくらいには、お互い成長してしまっているのだが。
「米国にいたのではなかったのか?」
「帰ってきたから、今お前の目の前におれがいるのだろう」
「何故、帰ってきたんだ」
「…………」
伊織那はふい、と目を逸らした。
「それはおれの勝手だろうが」
「そりゃあまあ、そうだが……」
仕立ての良さそうな洋服を着込み、手に持っている革製の鞄もまた小洒落たものだった。決して成金趣味ではないが、金があるのは見て取れる。風の便りに聞いていた通り、彼はあちらで成功してきたのだろう。
「で、何の用だ?」
「別に用などない。ただふらりと通りかかっただけだ」
――嘘だ。わたしは口をついて出そうになった言葉を、何とか飲み込んだ。そんなことよりも、先ほど彼の言った「幽霊屋敷」という言葉が気に掛かっていた。
「ところでさっきの――」
「お前、座敷童子というものを知っているか」
わたしの言葉を遮って、伊織那が口を開いた。わたしは呆気に取られて鸚鵡返しに繰り返した。
「ざしきわらし?」
聞いたことはある。確か、家に澄み着いた子供の姿の妖怪のようなものだったはずだ。もちろん知り合いにはいない。
「なんでいきなり……」
「いや。その毬」
伊織那の視線を追って、わたしは凍りついた。毬。先ほどまで床で弾んでいたそれは、今はじっと静止していた。ただし、床の上ではない。ちょうどわたしの腿くらいの高さで――まるで子供に抱えられているかのように、じっと動かない。
わたしはからからになった喉から、かろうじて言葉を絞り出した。
「ど、どういうことだ……?」
「…………」
伊織那は黙っていたが、やがてつかつかとわたしに近寄ってきた。立ち尽くしているわたしをよそに、縁側から部屋にあがり込む。どうしたのかと振り向いてみれば、何やらごそごそと部屋の中を探っているようだった。机の上、箪笥の上、引き出しの中――。
「お、おい!」
いくら何でもひとの借家を勝手に家捜しするなどあんまりだ。抗議の声をあげかけたわたしを、伊織那はすっと手を上げることで押し留めた。
「あったぞ」
「何が」
「おれの探していたものが、だ」
当然だろう、というような顔で見られてもわたしには何が何だかわからない。目を白黒させるわたしの目の前に、彼は「それ」をずいと差し出した。
「写真……?」
「ああ」
それは、ちょうど一年前の日付の入った写真だった。写っているのはこの家をわたしに貸してくれた親戚一家で、どうみても何の変哲もない、ただの家族写真である。
「これがどうしたんだ。ちゃんと元の場所に戻しておけよ」
伊織那に突き返そうとしたら、小さく舌打ちされた。
「良く見ろ。毬が写っている」
「え?」
わたしはもう一度写真に目を落とす。――確かに、子供の一人が毬を抱えていた。まだ五歳くらいの、可愛らしい男の子だった。ちょうど、そこで宙に浮かんでいるのと同じ毬だ。わたしは黙って伊織那を見つめる。
「この家、お前が借りたんだろう?」
「あ、ああ」
どうしてそんなことがわかったのだろう。不思議に思いながらも、わたしは素直に頷いた。伊織那は無表情なまま毬を見遣る。
「何故こんな立派な家から急に引っ越したのか――お前、理由は聞いたか」
「理由? いや……」
「不幸があったとか、そういう話は?」
「……あ」
わたしはつぶやいた。そういえばそんな話を母親から聞いたような――。
「はっきりしないな。……でも、まあいい」
伊織那はやれやれ、とでも言いたいかのように肩をすくめる。
「たぶん『彼』は――」
毬がぽたり、と床に落ちた。
「その子供だ」
床をころころと転がる毬。それを追い掛ける、ぱたぱたという足音……わたしの耳は、たしかにそれを捉えていた。
「い、伊織那!!」
「何だ?」
毬が廊下を曲がって見えなくなった後、わたしはようやく声を出すことができた。伊織那は特に変わった様子もなく、わたしの声に応じて振り返る。
「ど、どうすればいんだ、おれは」
「どうするもこうするも……どうにかしたいのか」
「おばけとふたりぐらしは嫌だぜ?!」
「じゃあ、お祓いでもしてもらえばいいんじゃないか?」
「それはかわいそうだろう」
「かわいそう?」
伊織那は不思議そうにわたしを見た。わたしはうなずく。
「そんな、無理なことをしたらかわいそうだ。こんな、小さな子供に」
わたしは手の中の写真を見る。毬を持ったその子供は、澄んだ目でわたしを見つめていた。少し疲れたような表情にも見えるのは、病のせいだろうか……。
「じゃあ、どうするんだ。ここに置いておくのか」
わたしの感傷を打ち破ったのは、やはり伊織那の無粋な声だった。
「置いておくとは言っていない」
わたしはその写真をそっと箪笥の上に置いた。
「この年の子供なら、話せばわかってくれると思う」
「……話す?」
「ああ」
わたしは先ほど転がっていった毬を追って、廊下に出た。伊織那の視線を背中に受けながら、わたしは毬を探す。
「ぼうや、どこにいる?」
返事はなかった。その代わり、ぽうん、と床で毬をついたような音がどこかから響いてくる。わたしはそれを探して、さらに家の奥へと向かった。
「遊んで欲しかったのか? それとも、寂しかったのか?」
返事はない。ただ、毬が弾む音だけがする。――わたしに話し掛ける術を、彼は持っていないのかもしれない。そう思うと、何だか悲しくてならなかった。
「おれで良ければ遊んでやりたいけど、でも……おれには、君が見えないんだよ。君の声も、聞こえないんだ」
襖を開くと、そこは子供部屋だった。壁際には整然と玩具が並んでいる。ただ、あの毬だけが床に転がっていた。
「ごめん……」
わたしは毬の近くまで歩み寄り、しゃがみこんだ。本当は手を差し伸べて、頭を撫でてやりたい。でも、それができない。何故なら、わたしには彼の姿が見えないから――。
「ごめんな」
ぽた、と涙が落ちた。見たこともない、話したこともない子供。だが、家族のいなくなった家でひとり彷徨い続けている彼のことを考えると、どうにもいたたまれなかった。
「ひとりは、寂しいよな……」
わたしはそっと毬を手に取る。それは、ひどく軽かった。わたしはぐいと涙を拭く。
「向こうの世界で、友達ができるといいな」
そこにはきっと、もっと綺麗な毬があるだろう。この部屋にあるより、もっとたくさんの玩具があるだろう。いつかわたしも、彼の両親も行くであろうその場所は、彼をきっとひとりにはしないだろう。
「だから――……」
ばいばい。
空耳、だろうか。わたしは辺りを見回す。もちろん、子供などいるはずもない。けれど今、確かに……。
「座敷童子に説教、か?」
背後の声に、わたしは振り向くことなく答えた。
「説教なんかじゃないさ。一足先に遊んでろって、そう言ったんだ。いつか、みんなそっちに行くからって」
「へえ」
わたしの隣までやってきた伊織那は、腕に抱えた毬に目を落としてうっすらと笑みを浮かべる。
「それ、どうするんだ?」
「どうするって……」
わたしはそれをそうっと床の上に置いた。もう、毬は弾まない。
「ここに置いておくさ」
「……そうか」
「ところで伊織那、どうしてお前がここに――」
声をあげたわたしに向かい、伊織那は器用に片眼を瞑ってみせた。
「お前と遊びたいのは、何もおばけだけじゃないってことさ」
「はあ?」
「お前を座敷童子の遊び相手に取られるのは、ちょっと癪だからな」
伊織那は意味不明なことを言いながら、くつくつと笑っている。わたしは煙に巻かれたような心地で、しかしひとつだけはわかっていた。
――伊織那は、他ならぬわたしに会いに来たのだ。それだけは、間違いない。
「……ありがとう」
へそ曲がりな天才には聞こえぬよう、わたしは小さく小さくつぶやいた。