instagram

涼野伊織那と夕立の虹

 ――ぽつり、と。頬に冷たい雫が落ちてきて、わたしは道を歩む足を止めた。
 振り仰ぐといつの間にか空は分厚い雲に覆い隠されていて、今にも降り出しそうな様相を呈している。いや、既に降り出しているのか。わたしは顔についた水滴を人差し指ですくった。
「まいったな」
 近くの家の軒先に避難し、ごそごそと鞄を探ってみる。入れた覚えのないものが入っているわけもなく、わたしが期待したものはそこに影も形も存在していなかった。つまり、傘がない。
 張りつめていた糸が切れたかのように、急に勢い良く降り出した雨。いわゆる夕立というわけか。わたしは呆気に取られて空を見上げた。あと家までもう少しだというのに。
 ……ふと、家にいるであろう居候の姿が思い浮かんだ。梅雨も明けぬ前から既に真夏なみの暑さだというのに、汗ひとつかかずいつも涼しい顔をしているあの男。浴衣というのは案外着心地がいいものなのだろうかと思って一度わたしも着てみたが、あまりに動きにくくてすぐにやめてしまった。洋服に慣れてしまったわたしには馴染まないらしい。――ともあれ、あの男が下駄でも履いてわたしを迎えに来てはくれぬかと一瞬期待したが、すぐにわたしはその可能性を打ち消した。まさか、彼がそんな親切さを持ち合わせている訳がない。どうせ今も雨が降っているのにも気付かず、わたしにはどこの国の言語かも判然としない分厚い外国の本を読みふけっているのだろう。迎えに来ずとも良いから、洗濯物くらいは家の中に入れておいて欲しい。
「これは走って帰るしかないか……」
 激しさを増すばかりの雨は、わたしのつぶやきすら塗りつぶして降りしきっている。学帽を目深にかぶり、わたしは覚悟を決めた。明日までに学生服が乾いてくれるか甚だ不安だが、まあ何とかなるだろう。いざとなればあの男が何とかしてくれるに違いない。頼りになるようでならぬようで、やっぱり頼りになるのが彼なのだ。
「よし」
 気合を入れて外に飛び出そうとした瞬間、
 
「そこの御仁、待たれよ!!」

「…………」
 いやに時代がかった口調で呼び止められて、わたしは雨の中を駆け出そうとした姿勢のままぴたりと動きを止めた。
「西城明智どのであるな?」
「は、はあ」
 振り向いた先には、可愛らしいひとりの少女がたたずんでいた。体に似合わぬ大きな緑の雨傘を差し、黒目がちのぱっちりとした瞳がわたしを見つめている。……「わたし」を?
「きみは……?」
 華奢な肩には螺旋状になった金髪がこぼれ、細い腰からは赤いスカートが広がる。どう見ても異国の少女なのだが、口調は日本人過ぎるほど日本人だ。わたしの知り合いではない……はず。
 私の困惑をよそに、少女はずいと傘を差し出した。
「そちを迎えに来た」
「……ぼくを?」
「そうだ」
「あ……ありがとう」
 わたしは少女の傘を受け取り、少女を濡らさないように気を付けながら、庇の外へと踏み出した。少女は黙って着いてくる。ぱしゃりぱしゃりと水溜りを踏む音が辺りに響いた。
「あの……」
 数十歩進んだところで、わたしは躊躇いがちに口を開いた。
「以前、どこかで会いましたか」
「いや」
 一言の元に否定。わたしとてこれほど特徴的な少女に出会っていて記憶にない訳がないとは思う。やはり、初対面らしい。
「じゃあ、どうしてぼくを迎えに来てくれたんです?」
 相手は小柄な少女ながら、どうもわたしは圧倒されてしまっている。少女がちらりとわたしを見上げた。驚くほど綺麗な顔をしているのに、まったくの無表情。――待てよ、この雰囲気は誰かに似ているような……。
「頼まれたからだ」
「頼まれた?」
「ああ」
「誰に?」
 雨音に掻き消されて聞こえなかったのか、彼女は最後の質問を無視した。わたしは重ねて尋ねる勇気もなく、それきり押し黙ることになってしまった。
 本当は他にも気になるところはあったのだ。こんな小さな女の子がひとりで出歩くなんて、とか、きみは親御さんのところにちゃんと帰れるのか、とか、それに何より一番気になったのが、もしかしてきみは「彼」の知人か、とか……。
 頭の中でぐるぐると考えているうちに、わたしたちはいつの間にか家の前に到着していた。雨足は相変わらず強い。
 玄関に入ったわたしは、着いて来た少女に傘を返した。
「ありがとう。本当に助かりました」
 深々と頭を下げたわたしに、少女がくすりと笑う音がする。
「なるほど、聞いた通り素直な男だ。あいつが気に入るわけだな」
「は?」
 ――あいつ? あいつとは、やはり……?
「おう、帰ってきたのか」
「! 伊織那(いおな)
 ちょうど頭に思い浮かべていた者の声を聞き、わたしは弾かれたように顔を上げた。少々不恰好に着崩れた着流しに身を包んでいる男が、にやにやと人の悪い笑いを浮かべながらわたしを見ている。涼野(すずしの)伊織那(いおな)。うちの居候だ。昔からひとは彼を天才と呼んでいたが、わたしはただの変人だと思っているから特別扱いするには値しない。働かざるもの食うべからず――とりあえず今は洗濯物の運命が気になる。伊織那は取り込んでくれただろうか。
 彼はわたしの懸念をよそに飄々としている。まあ、いつものことだ。
「すごい雨だな」
「ああ。だが、不思議な女の子が迎えに来てくれたおかげで……」
 わたしは彼女を紹介しようと辺りを見回した。――だが、玄関に佇んでいるのはわたしだけ。
「あれ?」
「女の子? どこにもいないぞ」
 伊織那の表情を見て、わたしは確信した。間違いない。こいつはあの少女を知っている。だがきっとわたしには教えるつもりはないのだろう。あくまでもひとを食った男だ。
「お前、幻でも見たのだろう。女に飢えているんじゃないか」
「馬鹿を言え、あれはいくらなんでも子供過ぎたぞ――」

 ――ぱしゃん。
 
 わたしは振り向き、目を丸くした。
「おい、それは何だ」
 靴箱の上に見慣れないものがある。小さな水槽と、その中をきらきらと泳ぐ赤いもの。
「金魚だ」
 伊織那はあっさりと答えた。
「今朝、散歩をしていたら金魚売りとばったり会ってな。何となく一匹買ってみたのだよ」
「へえ……」
 わたしがじっと水槽を覗くと、その魚は大きなまなこでわたしを見つめ返してきた。
「弱っているようだからひとまずそこに入れた。元気になったら川に帰してやろうと思っているのだ」
「ああ、それがいい。こんな狭いところに閉じ込めていては可哀相だからな」
 わたしが大真面目に賛同すると、伊織那は小さく噴き出した。
「聞いたか? これが西城明智というやつなのだよ」
「お前、誰に話している」
 眉を寄せるわたしには構わず、伊織那はぺたぺたと裸足で廊下を戻って行く。その背中を見送り、わたしはつぶやいた。
「一体何なのだ……」
 わたしに見えぬものを見、聞こえぬものを聞く男。――だがわたしは時々思う。伊織那の姿を見、声を聞くことができるのは、ほんとうはわたしだけなのではないかと……。
「……まさか、そんなわけがないよな」
 わたしは先ほどの水槽を見遣った。金魚はわたしに同意するようにくるりとひと回り。
 奥から伊織那がわたしを呼んだ。
「おい明智。雨が止んで虹が出ているぞ」
「そうか」
 わたしは何だか嬉しくなって、慌しく靴を脱いだ。鞄の中の土産の包みを思い出し、声を張りあげる。
「帰りにわらびもちを買ってきた。食うか」
「食う」

 ――ばしゃり。

 水音に足を止め、わたしは振り返る。金魚が水槽の中を跳ね回っていた。まるで笑い転げているようにも見える。水底には緑の水草が沈んでいて、それはまるで傘のような形をしていた。緑の傘。はて、どこかで見たような……。
 だが記憶がぼんやりとして、思い出せない。

 ――なるほど、気に入ったぞ。
 
 どこか遠くて近い場所で、誰かがそう言って笑う声がした。