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涼野伊織那と夏氷(なつごおり)

 雨と雨のはざまの、ぬるい空気が満ちていた。じっとりと湿気て、もうあと一滴でも水を含んだならざあっと一雨地面に向けて撒いてしまうといった風情の、厚い灰色の雲。汗が皮膚の上に膜を貼ったように張り付き、つまりはとても――不快なのだった。
「暑い」
 額を拭ってつぶやくと、同居人の気のない返事が帰ってきた。
「気温はそうでもないが、湿度が高いから不快なのだろう」
 まるで他人事である。
 わたしは彼の方をちらりと眺めた。
「おまえは寒がりだが、暑さには強いのだな。少しも汗をかかぬようだ」
「そんなこともないが」
 彼は書物から目を離さぬ。不思議な色の、みどりがかった瞳。それが追うのは、わたしにはまったく読むこともできない外国語である。英語や独語なら、学生としてまだ少しは嗜みもあるのだが、残念ながらそうではないようだった。
 彼は――涼野伊織那という名を持つうちの居候は、実際、少しも暑くはなさそうだった。そのうなじにかかる長めのくせ毛はいつもどおりふんわりと揺れているし、首筋にも額にも汗など浮いていない。草臥れた着流しを着込み、頬杖を付いているその様は、いつもよりいっそう浮世離れして見えた。
 わたしはだらしなく縁側にごろりと横になり、ぼんやりと空を見上げた。着込んだ麻のシャツと背との間に汗が滲む。先程より雲が厚く、空は暗くなったように思われた。今は一年を通して昼間の一等長い時期だから、まだ夕暮れには間があるはずなのだが、そんなことは全く関係ないとでもいったような風であった。
「降りそうだな」
「ふむ」
 伊織那が少し、眉をひそめた。
「この湿気では紙が傷む」
「暫く仕舞っておけばいいだろう」
 伊織那はわたしの言葉など無視して紙を繰り続ける。かわいげのない男だ、と思ったところで、「おまえにかわいいと思われたくなどない」という返答まで脳裏に響いてきて、まあ後半は彼のせいではないのだが、ますますうんざりした気分になった。
 手にした団扇でぬるい空気を仰いでいると、伊織那はやれやれといった様子で口を開いた。
「そんなに暑いか」
「何故おまえが暑くないのかがおれにはさっぱりだ」
「少し、涼むか」
 伊織那は本を閉じ、ゆらりと立ち上がった。栞などは挟まぬ。どの頁のどの行まで読んだかなど、彼は容易く覚えていられるのだそうだ。
「涼む?」
「シャツの釦を嵌めろ、だらしがないな」
 わたしは腹筋の要領で体を起こす。伊織那は面白がるような視線でわたしを眺め、ただ一言こう告げた。
「ついてこい」
 と。

 伊織那が向かったのはわが家の裏の、小さな山――丘程度の高さではあるのだが、それのことは裏山と呼ぶのが近隣での慣わしであった。
 伊織那は着流しに草履をつっかけ、急峻ではないがあまり歩きやすいとは言えない坂道をさっさと上っていく。相変わらず少しも暑がる様子はない。わたしはというと、もう汗でびっしょりだった。
「傘を持ってこなかったな」
 わたしは少しばかり息を弾ませながら、独り言のようにつぶやいた。
「もう今にも降りそうだが……」
「その心配はない。着いたぞ」
「は?」
 伊織那が足を止めた場所は、見覚えのない風景だった。裏山の中に、こんな場所が――わたしたちが腰を少し屈めれば入ることができそうな、そんな洞などあっただろうか。
 暗い穴のその奥から、涼しげな風がそよいできている。わたしが視線で問い返すと、伊織那は軽くうなずいた。
「入る」
「ここに、か?」
 恐る恐る奥を伺うわたしに、伊織那は笑った。
「そうだ」
「まあ、涼しそうではあるが」
 渋るわたしを放って、伊織那はすたすたと歩いて行く――奥へと向かって。わたしは慌てて追い掛けた。本当に、勝手な男である。
 中は薄暗かったが、想像よりは明るかった。天井は入り口よりも中のほうが高いが、どこから光がさしているのかはよくわからない。地面や壁は岩肌である。奥の方までは見通せない。だが、特に分岐もないから迷うことはないだろう。辺りはひんやりとしていて、たちまちわたしの汗ばんでいた肌は冷やされた。
 伊織那は黙って先をゆく。その後ろ姿を見失わぬように、わたしは注意深く追い掛けた。もしここで彼を見失ったら――彼をひとりで行かせてしまったら、もう帰って来なくなってしまうのではないかと、そんな予感すらおぼえて――。
「この辺りでいいか」
 伊織那が不意に立ち止まった。わたしは後ろを振り返る。遠く、まるで針穴のように入り口が見えた。
「明智。壁に触れてみろ」
「壁?」
 伊織那に言われるまま、わたしは壁に手をついた。――あまりの冷たさに、飛び上がる。
「氷か……?」
「その通りだ。涼しいはずだな」
 伊織那はむしろ少し寒そうに、着流しの襟元を合わせている。
「大丈夫か? 外に出るか?」
 尋ねるわたしに、伊織那は首を横に振った。
「また外に出たら暑い暑いとうだるのだろう?」
「う……」
「明智、これ」
 伊織那は懐から何やら尖ったものを差し出した。錐、もしくは千枚通しか?
「ん?」
「氷を削れ。抹茶と砂糖をかけて食べたら美味いのではないか」
 懐から次から次へと取り出されるものを見て、わたしは感嘆した。
「おまえはやはり天才だな……!」
「おまえに言われると馬鹿にされているような気分になるのはなぜだろうな」
「さあ、何故だか」
 わたしは錐を構えて氷の壁に向かった。椀の中に細かく削れた氷の破片を受け止めていく。伊織那は岩の上に座り、ぼんやりと待ちぼうけているようである。わたしは横目で彼を見た。
「……錐、お前のぶんは?」
「必要か?」
「…………」
 わたしはもくもくと作業を再開した。二人分の椀を氷で満たすために。
 伊織那は更に続いている洞の先を見つめ、小さく囁いた。
「この道はどこに続いているんだろうな? この気温も明るさも、不自然だ。普通の洞窟じゃないことはおまえにもわかるだろう? これが不連続な時空間をつなぐものなのだとしたら――その転換は点なのか、それとも線か」
 長い指で何かを虚空に描いていく。それは数式なのかもしれないし、もしかしたらわたしの知らない言語なのかもしれない。
 彼の言葉は、途中からはまるっきり独り言のようだった。伊織那はそのみどりがかった瞳を奇妙に――まるで氷面のようにきらめかせている。
「有機体はその不連続性に耐えられるのか? 否、むしろ生物が、か……時間的制約と不可逆性とに縛られた、」
 ふらり、と歩き出そうとする。まっすぐに、洞の奥へと向かって。
 華奢な背中が、薄闇の中でゆらりと揺らめく――。
「おい、」
 わたしはぞっと総毛立ち、声を上げた。
「伊織那!!」
 名を呼ぶ。
 その反響が消える前に、伊織那は立ち止まった。ちらと振り向く、その鼻先にわたしは椀を突きつける。荒削りな氷、そこに抹茶と砂糖をまぶしたもの。
 伊織那はその大きな目を驚いたように瞬かせる。わたしは彼が何か言うより前に口を開いた。
「外で食べよう。暑いところで涼しいものを口にするのが乙というものだ」
「乙……」
 その言葉を繰り返し、伊織那はくつくつと喉の奥で笑った。
「おまえには似合わん単語だな」
「五月蠅い」
「だが――」
 彼は辺りを見回し、そうして再びわたしを見つめた。
「いいだろう。きっと外は良い天気だ」
「え?」
 ここに入ってくる前はあんなにじっとりと曇っていたのに――そう思ったわたしだが、すぐに思い直した。きっと、伊織那の言うとおりなのだろう。空は思う存分に水を吐き出した後かもしれない。
 そもそも、一体ここでわたしたちはどれくらいの時間を過ごしたのかもよくわからない。わたしは時計を持ってこなかったし、伊織那がそれを手にしているところをわたしは見たことがない。
 そして、やはりというべきか――洞の外に出てみると、まさしく鮮やかな夕焼けが沈みゆく刻であった。地面やあたりの草木は濡れているから、きっと一雨あったのだろう。何故それを伊織那が知っていたのか。それは考えても仕方がない。きっと、わたしにはわからない。
「帰り着く前に溶けてしまう。食べながら帰ろう」
「ああ」
 わたしたちは匙で氷をすくっては口に入れ、その涼感を愉しんだ。何とも行儀の悪い、だがなかなかに心の浮き立つ時間であった。ほろ苦い抹茶に程良い砂糖の甘み。伊織那にしては良い趣向だった。
 私はふと思いつく。
「黒蜜やきな粉も合うのではないか」
「そうだな」
「次はそっちを試そう」
 言うわたしに、伊織那は笑って言った。
「また行く気か?」
「駄目か?」
「はぐれぬように気を付けてくれよ」
「いくらおれでも、あの一本道をはぐれることは――」
「違う」
 伊織那は匙をくるくると玩びながら、わたしから視線を逸らした。
「おれが、はぐれぬようにだ」
「……伊織那?」
 夕映えを映した彼の瞳のいろは――わからない。わからなくても良い。きっと、わたしは何度でも彼の名を呼ぶから。
「美味い」
 わたしのつぶやきを聞いた伊織那は、いつもどおりの表情に戻って――つまりは人を食ったような笑みを浮かべて、
「元天才少年も、たまには役に立つだろう?」
 と(うそぶ)いたのだった。