涼野伊織那と人魚の唄
ざあざあと、まるで滝の中にでもいるようだ、と思った。いや、滝に打たれるような修行など、わたしは経験したおぼえはないが。
未明から降り出した雨は徐々に勢いを強め、夜明けと共に雷鳴が去った後も、それは一向に変わる気配がない。あまりの荒天に、わたしは早々に大学を休むことに決めた。――別に、同居人の涼野伊織那を独り置いていくことに躊躇いがあったわけではない。そんなものをあの男は必要としない。単純に、傘も役に立ちそうにない雨にわたしの気が滅入っただけのことである。それに、場合によっては危険な目に遭いそうでもある。近隣を流れる小川も、ことによっては氾濫するやもしれぬ。気を付けるに越したことはない。
わたしは二階の自室の文机に体を預け、目の前の本をぱらぱらと捲っていた。どことなく紙が指にまとわりつくように感じるのは、この部屋を満たしている湿気のせいだろう。さほど気温は上がっていないにも関わらず、じっとりと粘りつくような、不快な空気である。冷茶を入れた湯呑みの表面はびっしりと結露していて、机の上に水溜まりを作っている。無精せずに茶卓を置くべきだったと悔やみながらわたしが立ち上がった時、ふと――違和感をおぼえた。
ぴしゃり、と足元で水音が。
「何……?」
視線を落としたわたしは、仰天した。床が水浸しになっている。しかも、水位は徐々に上がってきているようだ。わたしの素足の甲のあたりまで、すっかり水に浸かっている。
まさか。ここは二階だ。
わたしは混乱した頭で必死に考える。突然二階まで浸水する――そんなことが? 一階はどうなった? 伊織那は? そうだ、彼はいつも一階に――。
彼がわたしを放って既に逃げ出しているかもしれない、という考えは、その時のわたしの頭の中にはちらとも浮かばなかった。もし誰かに指摘されたとしても、あり得ないと一蹴していただろう。あり得ない。わたしの知る伊織那は変人でいつも人を食ったような態度だし、ふとした時に驚くべき頭の良さを垣間見せるくせに茶を入れるのは下手くそだし――たまにわざとではないかと思うほどなのだが、それはともかく、彼はわたしを置き去りにするような、そういう男ではない。もしそうだとしたら、その余裕すら彼には許されなかったということなのだろう。それならば致し方ない。
とにかく、わたしは慌てて廊下に飛び出そうと襖を開けた。
「あっ」
その向こうは、大水であった。廊下を天井まで満たす水――そんな馬鹿な、これは襖一枚で防ぐことのできる水圧ではあり得ない! だが御託を並べたところで、水は待ってはくれない。雪崩を打って襲い来る水流に呑まれ、わたしは――。
「大丈夫、ゆっくり息をして」
「さあ、目を開けて」
わたしは、知らず固く閉じていた目をおそるおそる開けた。――その眼前に、見知らぬおんなの顔がある。わたしは思わず、あっ、と叫んだ。ごぼりと口から泡が溢れる。いけない、水を飲んでしまう――窒息して、死んでしまう。
ところがそうはならなかった。わたしは水の中にいるにも関わらず、まるでそうではないように普通に呼吸ができた。だが視界は一面水中であるし、わたしのシャツの袖はもズボンの裾も、ゆらゆらと揺れて漂っている。
何より、目の前のおんなのその、脚。否、脚はない。脚のあるべきところに、薄あおい鱗の生えた、まるで魚のような尾が伸びている。そんな、よく似た顔のおんながふたり、わたしを左右から見下ろしているのだった。白い肌、白銀の髪、海色の瞳。まるで双子か、それ以上にそっくりなふたりは、鈴の音を転がすような声で、うふふ、と笑った。
「おどろいた?」
「おどろいたのね?」
「……あなた方は、いったい」
水の中だというのに、わたしは普通に口を利いている。こぽこぽと、口元から小さな泡が立ち上った。
「わたしたちは人魚」
「人魚とあなたたちが呼ぶもの」
くるり、くるりと回転して、彼女らは微笑んだ。その笑顔は、西洋の人形のようにうつくしい。
「あなたを迎えにきたわ」
「ねえ、一緒に行きましょう」
「ど、どこへ、です」
「いいところ」
「素敵なところよ」
くるり、くるり。
「毎日毎日、歌って、踊って」
「おかしく楽しく過ごすの」
「嫌なことなんて何にもないわ」
「苦しいことも、悲しいことも」
「なんにもないのよ」
「なんにもないの」
きらきらした笑顔で、彼女らはわたしを見下ろす。その手首を飾るのは、小粒の真珠を連ねた細い輪。それが、水の中でつるつると光を反射している。
「いらっしゃいな」
「ねえ、いっしょに」
「いきましょうよ」
「わたしたちと」
「いっしょに」
差し出されるたおやかな手。左右から、わたしの頬にそっと触れる。その冷たさに、わたしはびくりとした。
「さあ」
「さあ」
ゆらり、と目の前が揺らめいた。
「――あ」
わたしはつぶやく。
なんにもない――なんにもない場所。
あるのは歌と踊りと、笑顔だけ。涙も怒りも、そこにはない。
なんにもない。
そこに行って、わたしはどうするのだろうか。毎日毎日面白おかしく――そんな風に過ごして、どうなるのだ。
わたしの愛する世界とは、そんなものであっただろうか。
わたしはごぼり、とまた泡を吐いた。その立ち上るさまを睨めつけ、わたしは言う。
「わたしはゆきません」
「どうして?」
「どうして」
人魚たちは悲しげに言う。
「せっかく迎えに来たのに」
「あなたを迎えに来たのに」
「わたしは――未熟者ですから」
わたしはゆっくりと、言葉を選び答えた。
「怒りも悲しみも、今のわたしには必要なもの。なくては生きてゆかれない――ただただ楽しく生きていくだけの人生なら、それは」
――まるでこの泡のように、
「儚くて、からっぽだ」
そんな風には、わたしは生きてゆかれない。
「まあ!」
「まあ!」
おんなたちは驚いて叫ぶ。
「どうして?」
「どうしてなの?」
やがて、人魚のひとりが低くつぶやいた。
「仕方ない、連れて行ってしまいましょう」
「ええ、連れて行きましょう」
連れて行くとは、一体どこへ――だが彼女らは答える気などないようだった。
声を揃えて美しい旋律を歌いながら、ふたりは両手を広げて尾をくねらせ、くるくるとわたしの周囲を廻る。たなびく髪が輪状の銀の枷となり、それに沿うようにして水が渦を巻いてわたしの視界を歪めた。
「…………!」
わたしはふたりに捕らわれ、動けない。こぽ、こぽ、と口から溢れた泡が頭上に立ち昇っていく。
何なのだ、これは。何故わたしなのだ。彼女らはどうしてここに、
「だってわたしたち、」
「あなたが欲しいのだもの」
きらきらとした声で笑うふたり。
「ねえ、だから」
「一緒に」
「来て」
「来て」
「しつこいな」
――声が割り込む。聞き覚えのある、不機嫌そうな声である。
「雨に紛れて、たちの悪いものが迷い込んだようだ」
絹を裂くような悲鳴が響いた。わたしを取り囲んでいた渦が、たちまちのうちに掻き消えていく。
解放されたとはいえ未だふらふらと水中を漂うわたしは、目を回してしまったのかひどく気分が悪い。
「明智」
定まらぬ視界、しかしその声だけははっきりと聞こえた。
「水にのまれるな」
「……いお、」
伊織那。その名を呼ぶ前に、声は続ける。
「地に足をつけろ」
――おまえが言うか、とおかしくなる。わたしなどよりも余程彼のほうが浮世離れしていて、地に足がついていないといえると思うのだが。
「……いや、むしろ」
伊織那の声が、珍しく迷うように揺れた。
「おれが……呼び寄せてしまうのかもしれんな」
――おれがここに居るせいで、余計におまえが妙なものに目をつけられてしまうのかもしれない。
「…………」
伊織那が何を言っているのか、よくわからない。だが、間違いのないことがあった――何もおまえのせいではないのだぞ、伊織那。
わたしは、どこへもゆかない。
おまえがこの世を見捨てずにいる限り、どこへもゆかない。
だから、約束して欲しい――伊織那、おまえもどうか、……。
「ああ」
小さな、短い返事。それにひどく安心して、わたしは意識を手放した。
ひどい悪寒と頭痛に、わたしはうめき声を漏らす。
あの後目を覚ますとわたしはいつの間にか布団に寝かされていて、がたがたと体を震わせていたのだった。いつからか、わたしは熱を出していたらしい。水に呑まれる夢を見たような気がするのだが、あれも熱のせいだったのだろうか。
「夏風邪かな」
伊織那がかたくしぼった手拭いを額にあててくれる。こんな看病めいたことがこの男にできたのかと、わたしは妙なところに感心した。
「しっかり水分をとって、寝ることだ」
「……ああ、そうだな」
わたしは素直に頷いた。こんな高熱を出すなど、数年ぶりのことだ。さすがの伊織那も、今日は妙に優しい。
「後で桃でも切ってやろうか」
「桃?」
そんなもの、うちにあったか――聞きかけて、やめた。
「今、食べたい」
わたしの言葉に、伊織那は小さく笑って立ち上がる。着流しの裾から、白い足首がちらと覗いた。
「桃は魔除けになると言うな」
独り言のような、小さな呟き。横になっているわたしからは、伊織那の顔を見ることはできない。
「おまえも食べるだろう?」
「おれがか?」
驚いたような伊織那の声。わたしは熱に浮かされたぼんやりとした頭のまま、頷く。
「……では、そうしよう」
伊織那は笑って部屋を出る。
わたしはふう、とため息をこぼした。
――床の上に散らばる、小さな真珠。ゆら、とわずかに目眩が蘇る。わたしはそれを見ないふりで目を閉じた。次に目を開けた時にはきっと、消え失せているはずだと信じて。
少しずつ強くなってくる桃の香に、わたしはうっすらと微笑んだ。