instagram

涼野伊織那と世界とわたし

 世界は冷たくて、暗い。そして、ゆらゆらと揺れている。定まらない視界、這い上る寒気。それでもわたしがまだ溺れずにいるのは、こうして何かがわたしを捕まえていてくれるからだろう。
「しっかりなされい、明智(あけち)どの」
「眠ってはなりませぬ。なりませぬぞ」
 小さな叱咤の声がわたしを包む。わたしはうなずきを返すが、声の主が誰なのかは良くわからない。
「すみません……恩に着ます」
 ようやっと口をついて出た言葉を聞き、辺りに動揺が走った。
「わ、我等はさような言葉に値するほどのものではあらぬ」
「我等も主どのに頼まれたのみなれば……」
「ぬし、どの?」
「や、お身体が冷えてきましたぞ」
「さあ、急ぎまするぞ」
 ── ごまかされた。だが、まあいい。わたしの体はふわりふわりと漂っていく。そうやって運ばれているうちに、わたしを幻惑していた原因のものが何であったかを思い出して、わたしは赤面した。酒だ。忘年会の酒が、過ぎたのだ。元来飲めない性質(たち)にも関わらず、勧められると断れない──同居人に言わせると、わたしは底抜けのお人好しだそうだ。しかし私はその同居人からもちゃんと家賃を取り立てているし、そこまでお人好しではないと思う。幼なじみという情になど、流されてはいないのである。
 さて、わたしは運ばれていく。体の自由はきかないし、頭の方などもってのほかだ。だが、不思議と恐怖はなかった。わたしは確かに、多少は、お人好しかもしれない。それでも、わたしには何となく人の善悪をかぎ分ける能力があるのだ。いかにも善良そうな顔をしていても何となく胡散臭い、そういうのはたいてい後になって馬脚を表すことになっている。逆に強面(こわもて)でもどこか人好きのする者などもいて、うちの同居人などもどちらかといえばこちらの類いだろう。彼は強面ではない。優男だ。しかし口を開けば出てくるのは理屈っぽい悪態である。わたしでなくとも──いや、わたしでなければ辟易するに違いない。それでも、彼は稀にみる人情家であり、正直者であり、つまるところただの天の邪鬼だ。彼はわたしを鼻でわらうが、決してわたしを馬鹿にしてはいないのである。彼はわたしを好いている。それは間違いない。
「着きましたぞ」
 わたしの体が何か固いものの上に横たえられた。わたしが手探りでそれに指を這わせていると、頭上から不機嫌そうな声が降ってきた。
「何をしている」
「伊織那……?」
 何故か辺りが真っ暗で弱っている、と訴えると、頭上の声が呆れをにじませた。
「暗いのは当たり前だ。お前、目を閉じているぞ」
「……あ」
 瞼を押し上げると、何のことはない、そこは見慣れた我が家の玄関だった。伊織那はわたしの前に仁王立ちで、いつもの無表情に三割増しの仏頂面になっている。
「明智、馬鹿もほどほどにしろ」
「すまん。呑みすぎた」
「凍死したいのか」
「したくはない」
 わたしはふらつく頭を振り、床に座り直した。
「お前が迎えを寄越してくれたのだろう」
「…………」
 伊織那はわたしから目を逸らしている。これがこの男なりの照れなのだと、わたしは既に知っていた。
「すまん」
 わたしのこころは妙に穏やかになっていて、今なら伊織那の嫌みもいくらでも聞き流せると思った。
「おれはお前についつい頼ってしまっているのだなあ。お前なら何とかしてくれる、おれをたすけてくれる、そう思ってしまうのだ。お前は」
 わたしはひとつ、息を吐く。
「良い男だもの」
「…………」
 伊織那はため息をついた。
「買いかぶるのは勝手だが、それでおれに迷惑を掛けるのはよせ。おれはお前に家賃を払って住み込んでいるんだ。家主に死なれたら困るじゃないか」
「うん」
「だいたい、酔い潰れるほど呑むなど、いい大人のすることか。恥ずかしく思え」
「うん」
「運良く凍死しなかったとしても、だ。すりに遭うかもしれんし、最悪、強殺されるやもしれん」
「うん」
 素直にうなずきを返すわたしに、伊織那は怪訝そうな眼差しを投げた。
「どうした?」
「どうした、って?」
「いや……」
「お前、怒っているのだろう?」
「あ、ああ」
「叱ってくれる相手は貴重だ、大事にしろって、故郷(くに)の親父がいつも言うんだ」
「…………」
「だからおれは、お前に感謝する」
 伊織那はわざとらしく舌打ちした。
「感謝もいいが反省しろ。いつもいつもおれがたすけてやれるわけではない」
「すまん。……ところで」
 わたしはふと思い出して尋ねた。
「今日迎えに来てくれた者たち、あれは誰だ?」
 伊織那は少しだけ唇の端を歪めて笑った。
「誰、とは言えないな。まあ、ひとに似て非なるものだ」
「ひとではないのか?」
「ああ、違う。お前、見なかったのか?」
 反問され、わたしは頭を掻いた。
「目も霞んでいたからな……」
「やはりお前は馬鹿だな」
 伊織那はそう決め付けると、わたしを玄関に残して部屋の奥に去っていく。わたしは慌てて四つん這いで追い掛けた。
「ひとでないなら、何だ? また宇宙人か?」
「地球上の知的生命体が人間だけだと考えるのは、了見が狭いってものだぜ」
 伊織那は振り向きもしないでそう言った。
「どういうことだ?」
「言葉通りだ」
 伊織那は相変わらずぶっきらぼうだった。
「まあ、人間はそれを妖怪だとか何とかいって超自然の中に押し込めようとしているようだが……進化の道筋が一点に収束しているとは限らない」
「ふうん」
「さっきの彼らは地中に棲んでいる」
「地底人か!」
「そういう言い方もできるかな。民間伝承にもいろいろと名が残っている。何とか蜘蛛とかいう……」
「土蜘蛛か?」
 せっかくの助け船にも、伊織那は感謝のそぶりすら見せなかった。
「そう、その蜘蛛だ。相変わらず、ひとの歴史の中では悪役だがな。彼らは地中に棲む、ひとに似てひととは違う進化を遂げた生命体なのだよ」
「ふうん……。しかし、いつの間に知り合ったんだ?」
「うん、先日この庭で、な」
 確かに、出不精の極みのような伊織那が、外を出歩くことなどあり得ない。それにしても、いつの間にかうちの庭は大変な場所になってしまったらしい。
「お前、すごいものと知り合いなんだなあ」
 感嘆の声をあげたわたしに、伊織那は立ち止まって肩越しに苦笑を見せた。
「そのつもりがあるなら、世界はいくらでも広がるのさ」
「でもお前、日中はうちに引きこもっているだろう?」
「関係ない。外との窓口は狭くとも、存在さえすればいい」
 窓口とは、きっとうちの庭を指しているのだろう。わたしは床に座り込んだまま、伊織那をぼんやりと見上げた。彼は無言でわたしを見下ろす。やはり、彼の目は不思議な色をしているなあ、とぼんやり思った。
「だがまあ、お前の知り合いはみないいやつみたいで良かったな」
 何の気なしにぽつりとつぶやいた、その言葉に伊織那はその目を大きく見開いた。
「…………」
 喜怒哀楽に乏しい伊織那が、今日に限っては表情豊かである。わたしは何となく嬉しくなって、へらへらと笑った。
「なあ、伊織那」
「……それは、お前だからだ」
「え?」
 伊織那は何故か、少し寂しげに微笑んでいた。伊織那が微笑するのは珍しい。彼の笑いはいつも苦笑か嘲笑か……いかん、ちょっとむっとしてしまった。
「おれも、もしかすると今日のものたちと同じかもしれんぞ」
「なに?」
 わたしはきょとんと見上げた。伊織那はまだ──微笑んでいる。
「お前こそが、ひとならざるものたちを呼ぶ核で……おれもそのうちのひとつかもしれん」
「馬鹿を言うな。お前と会う前はそんなことなどなかった」
 わたしはのろのろと体を起こし、彼の着流しの裾を掴んだ。伊織那はなされるがままになっている。
「まあ、お前がそう思うのならそれでもいいがな」
 足元からでは伊織那の顔が良く見えない。ただ、彼の声はやはりどこか寂しそうだった。
「何だかお前、おかしいぞ」
 わたしはわざとらしく明るい声で言った。
「まさか、また狸が化けているのではないだろうな?」
「さあ、どうかな」
 伊織那が体を屈めてわたしを覗き込んだ。驚くほど近い距離で、伊織那が笑っている。
「そもそもおれという男は実在するんだろうか? お前の頭が作り上げた幻影ではないだろうか? 今日見た地底人たちも、もしかしたら……」
 伊織那のみどり色の目を見ていると、頭がくらくらしてきた。まるで、酔いがぶり返してきたようだと思う。
「伊織那……」
 わたしは目を閉じた。こころが穏やかに落ち着いていく。今掴んでいる、この裾を離すつもりはなかった。
「別に、お前が幻でもおれの妄想でも構わん。それでもお前はおれの中では実在するのだし、やっぱりお前は涼野伊織那だし」
 そして、一息。
「おれにとっての世界への窓口は、お前なのだ」
「…………」
「だから……」
 いつか、その窓口が閉じる日も来るかもしれない。だが、今はまだ、このままでいい。ひとだとかひとでないとかはどうでも良くて、つまるところ、

「おれはお前も、お前の知り合いたちも、皆のことが大好きなのだよ」

 沈黙。
「……恥ずかしいやつだ」
 伊織那はふいと立ち上がった。この照れ屋め。
「とりあえず、今日は水をたくさん飲んで寝ることだ。二日酔いになるぜ」
「……ああ」
 立ち上がろうとしてよろけ、わたしは差し出された伊織那の腕に掴まった。──ほら、やっぱりお前はいいやつだ。
「窓口は……」
 まるで囁きのような、小さな声。
「お前が望めばいつでも開く。その逆も然り、だ」
「伊織那……」
 ──お前、どこかに行ってしまうのか?
 ふう、と眠くなる。わたしは伊織那に体を預けたまま、目を閉じた。

 次の日──伊織那はまだいるだろうかと飛び起きたわたしに、彼はいつにも増して不機嫌そうな顔で相対した。
「あたまがいたい」
「は?」
「きもちがわるい」
 わたしはおそるおそる尋ねてみた。
「お前……昨日呑んだか?」
「お前が呑んでも良くて、おれがだめだというわけはないだろう」
「何を呑んだ?」
「お前の浸けていた梅酒を……全部」
「全部?!」
 伊織那は酒に弱いはずなのに。わたしは目を白黒させた。
「お前……昨夜のこと、覚えているか?」
「……何をだ?」
 きょとんとした顔の伊織那。わたしは力が抜けて、思わず笑いが零れた。
「覚えていないのなら、いい」
「何だそれは……」
 不満そうな伊織那の肩を叩き、わたしは言った。
「今度は一緒に呑もうか」
「何?」
「狸も地底人も宇宙人も、皆来ればいい。他のお前の知り合いも皆、だ」
 伊織那は少しだけ、口元を緩めた。
「ああ。……それもいいな」
 伊織那がいる限り、わたしには平凡な日常など戻って来ないのかもしれない。だが、構いはしない。まだわたしは、この世界を旅していたいのだから。

 その世界の名は──涼野伊織那という。