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涼野伊織那といのちの揺らぎ

 ずん、と地鳴りのような音が響いた。慌てて腰を浮かそうとするわたしの首根っこを同居人がひっつかみ、わたしたちの囲んでいた低い茶卓の下へとわたしの頭を突っ込ませる。
「い、伊織那?!」
 上ずった声を上げるわたしに構わず、同居人――涼野伊織那という奇妙な名のその男は、わたしを抑え込んで離さない。
 そうしている間に、まるで大地ががたがたと身震いしているかのような揺れが暫く続いて――わたしにはまるで数分以上続いたように思われたが、きっとそれは気のせいで、本当は数十秒にも満たない時間だったに違いない。気が付くと、わたしのシャツの襟首から伊織那の手が外れていた。揺れも収まっている。
 わたしはおそるおそる頭を茶卓の下から引き抜いた。
「地震か」
 呟くと、伊織那は頷いてみせた。――こいつ、わたしの頭を押さえつけていたはいいが、自分の身を守ることは考えなかったのだろうか。
 わたしたちがいたのは縁側に面した部屋で、低い箪笥が壁際に置かれていたが、それらはさいわい倒れることも、引き出しが開き落ちて中身をぶちまけることもなかった。心配なのは雑然と書物を積んである伊織那の部屋だが……それはまあ、後で確認するとしよう。
 時刻は昼下がり、伊織那の淹れた不味い茶で一服していた時のことであった。あまりに突然のできごとに、わたしは未だ体が震えているような気さえする。今までだって細かな地震に遭遇したことはあるが、それよりは幾分規模の大きなものであったように思われた。
 縁側に出て確認してみるが、あたりの様子は既に普段と変わった様子はなかった。わたしはたいそう驚いたが、揺れの大きさそのものは家屋などに影響を与えるほどではなかったようで、それは何よりなことだった。
「驚いたなあ」
「揺れ方からみて規模はさほどではなさそうだが、震源が近かったのではないかな」
 わたしが照れ隠しのように笑いながら言うと、伊織那はいつもの仏頂面で答えた。
「まあ、この島国に住む限り、これとは切っても切れないものと思えよ」
 これ、とは地震の揺れのことを指すものだろう。わたしは首を傾げた。
「どういうことだ」
「…………」
 伊織那は辺りを見回し、やがてあたりに転がっていた毬を手に取った。先程までこの部屋にそんなものはなかったはずだから、どこからか転がってきたものとみえる。
「地球がこの毬だとしよう」
「お、おう」
「地球の表面は、この毬のようにつるりと継ぎ目なくあるわけではない」
「……山や海溝で凸凹しているということか」
「違う。山や海、大陸、島々、それらすべてを載せた巨大な岩盤が、十数枚に分かれておもてに張り付いて毬を為しているのだ」
「…………」
「液体でできた球体の表面に、皮のようなものが張り付いていると思えばいい。その皮の上に、我々の知る地形がある」
「ふ、ふむ」
「そいつらは地殻を為す超高温の液体の上を漂っていて、じっとしてはいない。じりじりと動いている」
「動いているのか」
「そうだ。動いているからこそ、山ができたり海溝ができたりする。あれらは全部、皮と皮とが押し合いへし合いしてできた皺のようなものだ」
「皺……」
 わたしは鸚鵡返しに呟く。伊織那は茶卓の上に溢れていた出がらしの茶を、無造作にその着流しの袖で拭った。ああ、またそういう不精なことをする。顔をしかめるわたしを無視して、伊織那は話を続けた。
「この島国は、ちょうどその皮と皮との継ぎ目のところに位置している。しかも、地球全体でも十数枚しかないうちの四枚の皮が、この付近で互いの境界を突き合わせていると来た」
「ほう」
「それらが時にずるりとずれ、こういうふうに揺れるわけだ。境が多いぶん、ずれやすくもある」
「な、なるほど……?」
 わかったような、わからないような話である。伊織那にもそれはばれていたことだろう。
「この国の歴史にも、大地震の記録は多数残っているだろう?」
 肘をついて片手に毬を弄びながら、伊織那は話を続ける。
「この国での最古の文字による記録は、日本書紀にあるな」
「そんな昔にか」
「地質を調べれば、そのずっと前にもあったことがわかるさ。無論、その後も飛鳥、奈良、平安……この国において、大地震の起きなかった時代などないのだ。さっきの揺れ程度は数えるにも及ばない規模だよ」
「………」
 そう言われると、先程の揺れで激しく動揺したわたしの面目がないのだが。
「だからこそ」
 伊織那はちらとわたしを見てわずかに笑った。さてはこいつ、わたしの内心を読んだな。
「備えをせねばならぬというものだよ。やつらはいつ来るかわからないからな」
「おまえにもわからぬのか」
 内心驚いてわたしが尋ねると、伊織那はあっさりと頷いてみせた。
「わからぬさ。明日の天気を当てるのとは訳が違う」
「……そうか」
 かつて天才少年と呼ばれ、半隠居したかのような今でもその才能の片鱗を常にあらわしているような彼にも、やはりわからぬことはあるものなのか。何故か、わたしはほっとする。
「まあ、地震の予知に関しても様々な言い伝えはあるが……」
 と伊織那はつらつらと列挙してみせた。――曰く、雲の形だとか、常ならぬ動物の行動だとか、鳥の飛び方だとか、井戸の水枯れだとか、逆に増水だとか、太陽や月の見え方だとか。あまりあてになるものはないな、と彼は言う。
「他にも、地震の前にはある決まった妖怪が現れて予言をするとかいう説もあるな」
「……妖怪が、か」
「昔はとにかく天変地異は何でも神やらのせいにしたものだが、さすがに最近はそういうわけにもいかない」
 伊織那は肘をつきながらそう言った。
「だが、予言をする妖怪程度の噂話は、まだ生き残る余地があるのだろうよ」
「…………」
 本当にそんな妖怪がいるのだろうか……まあ、いたとしても構わないような気もするが。
 伊織那と共に暮らすようになってからというもの、わたしはさまざまな不思議なものと出会ってきた。それが神と呼ばれるものの類か、あやかしというべきなのか、わたしにはよくわからない。彼らは時にわたしを困らせ、時にわたしを助け、時にわたしにさまざまなことを考えさせる――まるで、伊織那のように。
「本当にそのような妖怪がいるなら、ちゃんと予言してくれればいいのにな。心構えができるじゃないか」
 わたしがそう言うと、伊織那は小さく笑った。
「なんだ」
「いや、おまえは素直だなと思って」
「馬鹿にしているのか」
「していない」
「……どうだか」
「拗ねるなよ」
「拗ねてなど」
「悪い予言を齎すものは、その内容からも嫌われることが多い」
 伊織那は真顔になり、ぽつりと言った。
「予言が当たっても当たらなくても、どちらにせよ忌まれるものだ」
「……そういうものか」
 当たる当たらぬいずれにせよ、備えられたことに対して感謝すれば良いと思うのだが、そうもいかないのだろうか。
「そういうものさ」
 伊織那はあっさりとそう言って、空の湯呑を取り上げた。
「さて、茶でも淹れ直すか」
「あとでおまえの部屋を片付けねばならんだろう」
 わたしは言った。
「どうせ、本が雪崩れているに違いないからな」
「ああ、夜中だったら寝床が埋もれていたやもしれんな」
 平然という伊織那に、わたしは眉を吊り上げる。
「おまえ、……危ないではないか。今回は昼だから良かったものの、寝ているうちに本で圧死など、洒落にもならんぞ」
「……そうだな」
 伊織那は珍しく素直に頷いた。
「おまえに迷惑を掛ける。少し片付けよう」
「ああ。少しは手伝ってやる」
「助かる」
 伊織那はまた素直に――気味悪いくらいに素直に頷いて、急須を手に立ち上がった。
「しかし……」
 わたしはふと呟く。
「さっきおまえの言っていたとおりの理由で地震が起こるのなら」
 つまり、地球の表面を漂う岩盤同士がぶつかり合って起こるのだとしたら。
「おれたちにはどうしようもないのだな……」
「そりゃあそうだ」
 伊織那は振り向き、答える。
「この地球は何もおれたちのために存在しているわけじゃない。地球だけではない、太陽も月も、それは同じことだ。たまたま地球の在ったところに、これもたまたまそこにおれたち人間が生じた、それだけのことさ。人間が生まれる前に絶滅した動植物種も数え切れぬくらいにあるが、どれも地球にとっては知ったことじゃあなかったろう。いつかひとが滅びたとしても、この星はやはり知らぬ存ぜぬで変わらず在り続けるのだろうさ……己の寿命の尽きるまで、な」
「…………」
「地球ですら、この広大な宇宙の中では辺境の一惑星に過ぎぬ。いずれこの星に寿命がきたとしても、宇宙は何も変わらないだろう――少なくとも、今この瞬間にも宇宙の何処かで新しい星は生まれ、古い星は死にゆくのだ。だからといって、ここに生きるおれたちに何か影響があるわけではないだろう? 宇宙は馬鹿みたいに広いからな」
「…………」
 伊織那の語るのはあまりにも壮大な話だった。なんだか、自分の存在が卑小な、取るに足らない、くだらないものに思えてくるくらいに。しかし――。
「だが……」
 伊織那はふと口調を和らげたようだった。わたしが顔を上げて彼の顔を見上げると、その不思議なみどりがかった色の目は、やわらかく細められている。
「ことの大小と、それに価値を見出だせるかどうかには、何の関係もない」
「…………」
 どういうことだ、と視線で問う。
「何億年、何十億年規模の星の一生と、何十年の単位のひとの一生、或いは……」
 と伊織那はふと言葉を切った。それと同時に、わたしは庭で蝉の鳴き声がするのに気付く。そうか、もうそんな季節になっていたか……。
「たとえば七日程度と言われる蝉の一生。種によってはもっと短い生もあるが、それらが短いがゆえに価値のないもの、長ければ長いほど価値のあるものだなどとは誰にも言えぬ」
「…………」
「長かろうが短かろうが、生まれ落ちて死ぬまでの限られた時間、それは等しく尊いものだ。たとえ星はそのようなことに無頓着であろうとも、我々の知ったことではない。我々はただ、与えられた時間を生きるのみさ。明日をも知れぬ身なればこそ、ただ懸命に」
 伊織那の言葉は、わたしの中にすうっと滲みて、溶け込んでいくようだった。淡々と語られるそれが、ひどくやさしいものに聞こえる。
「ただ、まあ……我々は天変地異にはそう容易く勝つことはできぬからな」
 突然、伊織那はいつもの口調に戻って言った。
「せいぜい備えて、足掻くことにするとしようじゃないか」
「……ああ、そうだな」
 わたしは微笑む。
「おまえが本に圧し潰されてしまうのは、本意ではない」
「……それも悪くはないかもしれんが」
「だから縁起でもないことを言うなというのに」
 嘯く伊織那を、わたしは嗜める。
「しっかり片付けるぞ」
「……はいはい」
 伊織那は肩をすくめて、まあ、まずは茶を飲もうじゃないか、と厨へと向かった。
 ――蝉の声がする。
 その短い生、しかしその短さは、この地球から見ればわたしたち人間の寿命とそう大差ない。そう思うと、この庭から見えるいのちすべて――蝉も草花も、そして今は姿の見えぬあやかしたちでさえも、どこか愛おしく思えて来るのであった。
 ――それでいいんだよ、明智。
 ふと、誰かの声がする。
 ――おまえは、そう在れば良い……。
 その声は、わたしの良く知る誰かのものに似ていた。